アナザーストーリー

one day

 弘子が帰ってから数時間が経ち、祐也は時計に目を遣った。
 香奈はだいぶ遅いようだ。まだ買い物を続けているならいいけれど、もし何か厄介なことに巻き込まれていたら困る。祐也も香奈もここで二年も暮らしてはいるが、分からないことの方が多い。特に香奈は最近になって日常会話が出来るようになったと喜んでいたばかりだ。
 もう一年以上も前、香奈の隣の部屋に強盗が入った時のことを思い出す。大東亜でも強盗くらいよくあるニュースだったけれど、さすがに香奈の身近に起こった時にはひやりとした。
 不思議な焦燥感に駆られて、祐也はジャケットを羽織って玄関を出た。
 香奈が行くところといえば、近所にあるショッピングモールしかない。行き違いになることも考えられたが、部屋でずっと待っているよりはいいだろう。
 
 春とはいえまだ日が暮れるのは早い。店の灯りに向かって歩く祐也は、店先に繋がれている犬と、その側にしゃがんでいる香奈を見つけた。
「香奈ちゃん」
 ややあって、香奈が顔を上げた。
「あれ──」
「心配になって、来てみたんだけど。よかった」
 祐也のその言葉に、香奈が弾かれたように立ち上がった。犬はまだ香奈の足元でしっぽを振っている。
「ごめんなさい。色々見てたら遅くなっちゃって……」
「いや、いいんだ。帰ろうか」
 頷いて、歩き出した祐也の後ろに続く。一度振り返って犬の頭を撫でた。
「昼過ぎに弘子さんが来たよ。タロウも連れて」
「えっ、いればよかった」
 心底残念そうに言った。
 香奈はタロウをはじめ、動物が好きなようだった。祐也たちから見ればややそっけないところもあるけれど、動物の前では自然と笑顔になっていることが多かった。
「今日は何を買ったの?」
 それで思い出したように、香奈が右手に下げていた袋を持ち上げた。中には色とりどりの卵が入っている。
「これってイースターの?」
「珍しかったからつい買っちゃいました」
 どこか嬉しそうな香奈の言葉に、自然と笑みがこぼれる。
「大東亜じゃあんまりなかったからな……でも、これどうするの?」
 香奈が目を丸くして、それから困ったような苦笑いを浮かべた。
「食べられそうだったら、帰ってから茹でてみようか」
「そうですね」
 祐也の提案に、香奈がまた笑った。祐也もつられて微笑む。
 
 ──”あなたはあなたの幸せを探した方がいいんじゃないかしら”。
 
 つい数時間前、弘子に言われた言葉が思い出され、祐也はそっと香奈を盗み見た。
 背丈も髪の長さも、顔立ちも違う彼女を見て、なぜ懐かしさを感じるのか。
 視線に気付いた香奈が顔を上げた。祐也の目を見上げ、弱々しく笑った。
「あたし、誰かに似てますか?」
 どきっとした。思わず目を見開いていたのだろう。はっきりとした動揺を見た香奈は静かに続けた。
「なんとなく、そんな気がして」
 濁した言い方ではあったが、香奈はそれが間違っていないことを確信しているに違いない。
「いや──」
「ごめんなさい、変なこと、言いましたよね」
 祐也の言葉を遮って言った。言い終わる前にはもう、祐也から視線を外していた。
 
 ──”香奈ちゃん、祐也君のこと好きなんじゃないかしら”。
 
 弘子から言われるまでもなく、予感はしていた。
 聞きたくなかった。勘違いにしておきたかった。曖昧なままがよかった。
 
 これまでの経験から、祐也は異性からの好意を敏感に感じ取ることができた。自惚れでないなら、香奈は祐也にただの同居人以上の感情を抱いている。香奈が祐也の視線の意味を理解したように、祐也も香奈の感情を理解したつもりでいる。
 香奈のことは嫌いではなかった。むしろ、好きになりたかった。女性として、花嶋蘭への愛情を越えた気持ちを抱きたいとさえ思った。
 救われたかった。蘭のことを乗り越えるためには、それ以上の愛情が必要だった。
 いつか梨沙が言った。相澤さんも幸せになって、と。俺にそんな日が訪れるだろうか──そんな気持ちになる日が、来るだろうか。
 同じ部屋に住むようにすすめたのも、彼女を好きになりたいという強い願いから起きた行動だった。あの時の香奈以上に、祐也は自分の行動の大胆さに驚いた。
 心からの平安。これから生きていく上での幸せは、手を伸ばせばすぐそこにある。毎日同じ部屋で暮らす香奈がいる。彼女の気持ちを受け止めれば、願いは叶う。
 しかし──何度も手を伸ばそうとしていつもためらってしまうのは、やはりまだ花嶋蘭のことを考えてしまうからだろう。死の間際まで祐也を想っていた彼女は、祐也の幸せを手放しで喜んでくれるかもしれない。だからといって、彼女を忘れて幸せになろうという気にはなれなかった。
 
 悲しみの波が訪れる周期は確実に長くなっていた。毎日のように泣いていた昔に比べ、今は忘れている時間の方が長い。香奈と暮らすことにより、笑っている時間が増えた。
 しかし、それが逆に辛かった。
 時が経つにつれ、彼女を思い出す回数がどんどん減り、自然と笑顔になる回数も増えた。
 以前は寝ても覚めても彼女のことを思い出していたのに、年を経るごとに彼女を思う時間が減っていく。なぜ、自分はあんなに好きだった彼女を忘れていってしまうのか。なぜ、彼女を忘れてしまえるのか。裏切りのようで辛かった。忘れたくなど、ないというのに。
 笑うたび、何かに触れるたび、彼女はもう同じようなことが出来ないのだと気付き、その度に辛かった。だから、自分だけが楽しく生きるなど、あり得なかった。
 
 それでもこの頃は、悲しいことに受け入れはじめている自分がいる。プログラムで彼女の妹を救った達成感でそう感じるのかもしれないが──。
 彼女を思い出すときに伴う感情もだいぶ変わった。あの微笑みを思い浮かべるだけで同時に走る激しい痛みは緩和され、その面影に微笑みを返せるだけの余裕ができた。いつも思い出す彼女は美しく温かい。それだけは、変わらないけれど。
 これから先も彼女のことを忘れることはないと思う。彼女のことを好きだった気持ちまで殺してしまうことはない。しかし、進んでいかなくてはならない。戻れない過去に留まり続けることはできないのだから。
 
 香奈がだいぶ前を歩いていることに気がつき、祐也は思わず小走りで駆け寄った。
 香奈が振り返る。祐也がすぐに追い付いてきたことが嬉しかったのか、ほんの少し口元に笑みが浮かんだ。
 ……彼女の好意を受け止めたい。
 黙って突っ立っている祐也を見上げ、香奈は今度ははっきりと笑顔をみせた。そしてそれを見て、思った。彼女は全く花嶋蘭とは違う人間だということ。しかし、その彼女を確実に好きになっているということ。
 祐也はためらいがちに右手を伸ばし、香奈の髪に触れた。香奈は目を丸くして触れた祐也の手を見た。夜に冷えた香奈の体を静かに抱き寄せ、祐也はその存在を確かめた。コートの中の温かい体は、確かに存在している。他の誰のかわりでもない彼女がそこにいる。
「ごめんね」
 香奈を花嶋蘭と重ねていたことに対して? 好意に気付かないふりをしていたことに対して?
 香奈は何も言わなかった。ただ、一度だけ頷いた。香奈はずっと気付いていたのかもしれない。花嶋蘭への未練と、香奈に彼女の面影を重ねることで起こる葛藤に。
 いつか――香奈に言おう。自分の口から全て。気持ちの整理がついた時に。
「帰ろう」
 抱いていた肩を離し、香奈に手を差し延べた。
 香奈が手を取るその僅かの間に二年前の出来事がふと脳裏に蘇った。
 二年前の雨の日、二人で島を脱出した時に予感したこと。香奈はこれから、自分の人生に大きく関わってくるだろうということ。
 
 伸ばされた香奈の手が祐也の手をとらえた。
 その手の温もりが二年前の予感を確信に変えていく。
 そうしっかりと感じながら、祐也は夕闇が迫る空を見上げた。
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