アナザーストーリー

soon...

 今から五年前──二〇〇〇年の春、相澤祐也は高校からの帰り道で奇妙な声を聞いた。
「あらららっ、やだやだ」
 顔を上げた時には上半身に重い衝撃が走り、視界がぐるっと回っていた。気付いた時には、金色の生き物が祐也を押し倒していて、その向こうに夕焼けの空が見えた。
「やだ、ごめんなさい」
 視界に登場人物が一人増えた。小柄な五十歳前後の女性。
「こら、タロウ、退きなさい──本当にごめんね、あなた、大丈夫?」
 女性が手にしていた紐を引くと、祐也の上に乗っていた大きなゴールデンレトリバーが離れた。高校と訓練所を往復する生活で、アパートに戻って来れない時もあった。その日はろくに飯も食べていなかったので、簡単に犬に押し倒されてしまった。
「どうしましょう……どこか、打ちませんでしたか」
 女性は祐也の側にしゃがむと、顔を覗き込んできた。人の良さそうな女性の瞳が、今は心配そうに揺れている。祐也は心配をかけまいとして立ち上がったが、直後に立ちくらみがきてしゃがみこんでしまった。
「やだ、救急車を──」
 女性がすぐに支えてくれた。救急車という単語が出たことに驚き、祐也はつい、本当の理由を口にしてしまった。
「いえ大丈夫です。ちょっと、疲れていて──あの、今日、飯食べてなくて……それで調子良くないだけです」
 青ざめていた女性の顔が明るくなったかと思うと、祐也はすぐに彼女の家に連れて行かれた。祐也のアパートからそう遠くないところに建っていた綺麗な一軒家が彼女の家だった。彼女は菊原弘子と名乗った。
 弘子は夫と次男と三人で暮らしていた。祐也は丁寧に断ったのだけれど、どうしても夕食だけでもご馳走したいと言ってくれる弘子の申し出を断りきれず、とうとう招き入れられた。
 家は彼女の生活が裕福であることをよく表していた。広い庭、綺麗な白い家、家の中にあるものも一つ一つが高級そうだ。
 その家の人も、祐也には大変よくしてくれた。祐也がアパートに一人暮らしであると知ると、また来なさいと何度も誘ってくれた。
 幸せそうな家庭。彼女たちは心の底から祐也を歓迎してくれたが、本当の事を知ったらどう思うだろう。まさか、人殺しでプログラムの優勝者である少年と同じテーブルについているとは、夢にも思わないだろう……。その想像が、祐也を憂鬱にさせた。
 
 それから二ヶ月ばかり過ぎた頃、また偶然に弘子に会った。
 今までにも何度か夕飯をご馳走になったり、車で買い物に連れて行ってもらったりもした。その時の幸せが大きければ大きいほど、一人になった時に落ち込んだ。彼女たちとこれ以上近付いてはいけない。自分があの人たちの家庭を壊してしまうのではという妄想が、常に祐也の頭を占めるようになっていった。
 季節はすっかり梅雨に変わっていた。
「崇君!」
 傘を上げて前を見ると、赤い傘を差した弘子が微笑んでいた。
「今学校の帰りなの? ちょうどよかった。迷惑かなとは思ったんだけど、晩御飯のおかずが余っちゃって……おすそ分けしようと思ってたとこなの」
 優しい笑顔を見ながら、嬉しいと思う反面、悲しかった。それでも無理に笑い返した。
「いいえ、助かります。俺、炊事苦手でつい飯抜いちゃったりするんで」
「だめよー、しっかり食べなきゃ。これからの人なんだからね」
 ぽん、と祐也の腕を叩き、見上げる。弘子は祐也よりずっと小さかったが、包み込まれるような温かさを感じる。ついさっき顔を合わせた時にはすぐに別れようと思っていたのだけれど、急にもう少し話したくなった。
「あの、いつもお邪魔してばかりでしたし、上がってお茶でも飲んでいきませんか。俺の部屋、汚いんですけど」
「あら、いいの?」
 弘子はすぐに了承した。二人で並んでアパートへの道を歩き出す。
 部屋に上がってすぐ、「綺麗にしてるのね」と弘子が言った。祐也の部屋には物があまりない。そのせいで整頓されているように見えるのだろう。
「持ち物が少ないんです」
「まだ学生さんだからね。今はお勉強しなくちゃね」
 笑って弘子が言う。
「あ……そうそう」
 やかんを持ち上げようとしていたところで、ちょうど声が掛かった。祐也は首だけで振り返る。
「もう一つ作ってきたのよ。今日はお菓子なんだけど──一日中家にいると暇なものね。久しぶりに作ってみたから、味見してほしいのよ」
「わあ、いいんですか」
 純粋に嬉しかった。子供の頃、母親がよくホットケーキを作ってくれたのを思い出す。思わず頬が弛んでいた。
 カップに紅茶を注いで弘子に渡すと、早速包みを開きにかかった。出てきたものを見て、祐也は一瞬動きを止めた。
「トリュフ……」
 焦茶色の丸い塊がいくつか入っていた。このお菓子には、思い出すことがたくさんあった。
 寒い冬の日、電車の中、花嶋蘭がチョコレートをそっと渡してくれたこと。彼女のやや固い表情と、少し赤くなった頬。家に帰って思わず一人で飛び跳ねてしまうくらい嬉しかった。
「崇君、甘いものは大丈夫?」
「はい……」
 弘子の顔も見ずに答えた。ふと、涙が溢れそうになって、祐也は立ち上がった。
「手を洗ってきますね」
「崇君」
 妙に力のこもった声で呼ばれ、祐也は立ち止まった。しかし、振り向くことはできない。今、優しい彼女の顔を見れば涙がこぼれてしまう。
「私たちは、他人ね?」
 しんとなった部屋に、弘子の声が響く。その声はいつもよりも沈んでいるような気がした。
「だけど、私は──私も、うちの人も、崇君のことは家族みたいに思ってるのよ。だから、辛い時には話して欲しいの」
 思い掛けない言葉だった。それでも祐也は大きく首を振った。何もない。心配しないで。という、ジェスチャー。
「でも、辛そうよ」
 ぐっと拳を作って耐えた。本当は全て話してしまいたかった。この人なら、温かく受け止めてくれるのではないか──いや、やめるんだ。こんないい人たちに、あんな話をするな。
 背後から衣擦れの音が聞こえた。
「もう無理はしないでいいのよ……”祐也”君」
 今度こそ祐也は振り返っていた。今にも泣き出しそうな、それでいて驚きに目を丸くしている祐也の顔を見て、弘子の目尻の垂れた瞳が揺れた。
「ごめんなさいね。ずっと言い出す機会を窺っていたんだけど……こんなに遅くなっちゃった。座って聞いてくれる?」
 言われた内容は分かっていたが、突然の出来事に祐也の身体は硬直していた。弘子はロングスカートの裾を引っ張り、座り直した。祐也がぼうっと突っ立ったままなのに気が付くと、もう一度「座って」と言った。
 ようやく目尻にたまった涙を拭い、膝を折り、弘子の正面に腰掛ける。
「……すみません」
 なぜ謝るのか、自分でもよく分からなかったがそう言ってしまった。弘子が俯いたまま首を振る。
「祐也君の事を初めて見たのは、テレビの中だった。去年の秋ぐらいだったかしらね。あなたが泣いていた顔が、うちの息子の顔にそっくりだったのよ」
「聡さんですか?」
 祐也は菊原家で何度も顔を合わせたことがある、弘子の息子の名前を出した。主人にそっくりな、がっしりした体つきに色つやのいい顔を思い浮かべた。歳は三十前後で頼りになる兄のような人だ。
「ううん、上の子。今は結婚して家を出ているから、祐也君は会ったことがなかったわね」
 息子の話題になるとほんの少し笑顔が戻る。祐也も口元で笑み、続きを促した。
「うちは直接プログラムには関係していないんだけどね、上の子が高校生の時、後輩の女の子を好きだったらしいのよ。その女の子……今日みたいな雨の時だったかしらね、プログラムに選ばれて亡くなったって。その時のあの子の顔……思い出すのも辛いわ。テレビを見るなり真っ青になって震えだして、まっすぐに自分の部屋に走ってった。追い掛けた私を振り返った顔ったら──とにかく、もう誰かのあんな顔を見るのはたくさん」
 情景を思い浮かべているのか、弘子の顔が苦しみで歪んだように見えた。祐也の視線に気付くと、両手で顔を覆って首を振った。
「それから上の子──雄司っていうんだけどね、雄司が大学生になってから、反政府組織と関わるようになったの。怖かったけど、反対する理由なんかないわね。息子二人が中学卒業したからって、安心なんて言えない。次は孫が選ばれる可能性だってある。親族じゃないとしたって、あんなことで子供達が命を落としていいわけがないもの。人の親として、いえ、人として、大人しくいうことを聞いてるわけにはいかないじゃない」
 次第に熱を帯びてきた弘子の言葉に、祐也は何度も頷いていた。
 弘子は机の上に乗せられた祐也の腕に手を伸ばし、触れてきた。祐也の目を正面から見つめ、いつもの笑顔を浮かべている。
「それでまず、あなたに接触しようと思ったの。ごめんね、本当は最初からずっとあなたのことを追い掛けてた。助けられるなら、どうにかしたいと思ったの」
 祐也は微笑み返そうとして、自分の目から涙が溢れていることに気が付いた。弘子が優しく祐也の腕を擦ってくれた。本当の母親と錯覚するほどに、彼女には常に愛が溢れている。
「……助けて下さい」
 ようやく口が聞けた。
 祐也の頭の中に、一人の少女の顔が浮かんでいた。
「守りたい人がいるんです」
 
 
+ + +

 
 目の前の青年を見つめながら、菊原弘子は苦笑した。
 あの時のことを思い出すと、既に終わったことながらはらはらしてしまう。
「苦労したわよ。偶然を装って接触して、話せるような間柄になって、あなたが本当に政府側についたのか見きわめなきゃならなかったんだから」
 紅茶のカップを口に付けたまま、祐也がこちらを見た。
「こんなおばさんが反政府組織の一員だなんて、誰だって思わないでしょう」
「確かに。ほんとに普通にいい人だなあって……」
 紅茶のカップをテーブルに戻しながら、祐也が微笑む。
「今でもそう思ってますよ」
「ありがとう。でもあの時はひやっとした。あの子が飛びかかるなんて予想外だったから」
 玄関に座っていたタロウは、二人の視線が向けられていることに気付くとしっぽを振った。
「タロウは賢いんですよ」
「どうかしら」
 二人で笑って顔を見合わせた。
 弘子は今、香奈と祐也が住むアパートに来ていた。タロウと散歩していたついでに寄ったのだが、今日は香奈はいなかった。買い物に出ていると言いながら、祐也が慌てた様子で弘子に紅茶を用意してくれたのだ。
「ねえ、そうだ。香奈ちゃんのことなんだけど」
 祐也がタロウから、弘子に視線を戻した。
「最初静かそうに見えたけど、慣れてくればけっこう喋るのね。うちは男兄弟だったから、娘ができたみたいで嬉しいわ」
 にこにこ笑いながら祐也は聞いている。その表情には特に変化はない。弘子は一歩進んでみることにした。
「香奈ちゃん、祐也君のこと好きなんじゃないかしら」
「ええ?」
 ようやく反応を示した。曖昧に笑みを浮かべ、弘子の視線から逃れるように床を見つめる。
 心の中、弘子は溜息をついた。
「忘れられないのは分かるわ。でも、梨沙ちゃんも言ってたじゃない。あなたはあなたの幸せを探した方がいいんじゃないかしら」
 祐也は下を向いたまま答えない。
「祐也君のことだからね。私がしつこくするのは筋違いなんだろうけど……祐也君が悲しそうな顔するの、もう、見たくないのよ」
「わかってます」
 いつもの言葉を繰り返して、祐也は苦笑を浮かべた。
 つい癖で、息子にするようにおせっかいを焼いてしまう。よくない癖だと自覚してはいるのだが、こうして祐也と顔を合わせるとどうしてもいらないことまで言ってしまう。
 ……今日のところはもうしつこくしない方がいいだろう。
「今日は突然お邪魔してごめんなさいね。ほら──タロウもそわそわしてきたから、そろそろ行くわね。香奈ちゃんによろしく」
 弘子はカップを持ち上げ、キッチンへ運ぼうとした。それを祐也が止めて、カップは祐也の手に渡った。
「ごちそうさま」
「いえ、何のお構いもできなくて……また、来て下さい」
 玄関で靴を履くと、タロウが立ち上がった。タロウは祐也に頭を撫でられて気持ち良さそうに目を細めている。
「じゃあまたね」
 祐也の笑顔がドアの向こうに消え、弘子も挙げていた手を降ろした。
 
 アパートを見上げ、弘子は大きな溜息を吐いた。
 ……祐也君は気付いているのかしら。
 香奈と祐也を見るたびに気になっていることがあった。
 微笑みを交わしても、祐也はすぐに何かに気付いたように表情を引っ込めてしまう。それを見て、香奈も顔の筋肉を強張らせる。祐也は香奈の顔が自分の表情を映す鏡になっていることにも気付かずに、「どうしたの?」と尋ねる。──全く、残酷きわまりないのだ。
 かつて雄司が陥った状況に、祐也もはまってしまっている。雄司よりもっとひどい。自分が微笑む瞬間、わずかにでも幸福を感じる瞬間を嫌悪してしまう。彼女を忘れて笑顔になることはできないと、幸せを避けて通るようになってしまう。祐也の場合は状況が状況なだけに尚更だろう。
 
 あの二人には幸せになってほしい。顔を合わせたことはないけれど、花嶋梨沙という少女にも。
 公園のベンチに腰掛け、タロウの金色の背中を撫でた。
「いつか──そうね、なるべくなら近いうち。祐也君が幸せになれるといいわね」
 太いしっぽで地面をばたばた叩きながら、タロウは飼い主の顔を見上げた。栗色の丸い瞳を輝かせ、一声、鳴いた。
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