アナザーストーリー

some time

 二〇〇五年、春。アメリカ。
 
 中村香奈は洗面所から戻ると、まだ髪に寝癖を残している相澤祐也とはち合わせた。
「アワ」
 祐也がくすっと笑って頬を指差した。
「えっ……あ──」
 指先にぬるっとした感触。香奈は慌てて洗面所に戻った。
「今日はどこかへ行くの?」
 祐也が背後から聞いた。
「ちょっと買い物に行こうと思って」
 二度目の洗顔を終えて顔を上げる。鏡の中で祐也と視線がぶつかった。
「一人で行ける?」
 祐也のその言葉に微かに不安を覚えたが、香奈は首を縦に振った。
「何とか。日常会話くらいなら出来るようになったし……。何か買ってくるものありますか?」
「大丈夫。気を付けて行ってきて」
 その言葉に送られて、香奈はアパートの部屋を後にした。
 
 二年前、香奈は祐也と一緒に船を乗り継ぎ、ようやくアメリカに渡ることができた。
 祐也の仲間というのは、驚いたことに五十代の女性とその家族だった。女性は菊原弘子と名乗り、簡単な自己紹介を済ませた後に、色々なことを話してくれた。
 彼女が反政府組織に入ることになったきっかけ、祐也との出会い、それから、香奈の命を救ったあの不思議な道具──首輪の機能を停止させる装置について。
 特殊訓練所に通っていた祐也が手に入れてきた首輪の情報から、弘子の長男が他の仲間たちと協力して首輪機能停止の機械を作ったという。ただ、本物の首輪を手に入れることは出来なかったため、出来上がった機械で本当に解除されるのかということは分からなかった。つまり、今回使用したものは試作品だったらしい(それを聞いて香奈はぞっとした。失敗していたらあのまま死んでいたかもしれないのだ)。それでも首輪と同じ構造の輪っかを作って何度も試し、成功確率は限界まで上げられていたらしいが。
 弘子たちが手配してくれたおかげで、香奈たちは住む場所にも困らなかった。そして、弘子は本当の家族のように温かく接してくれた。人見知りの激しい香奈も、最近では弘子と打ち解けて話せるようになっていた。
 慣れないことばかりで大変とはいえ、思っていたよりもずっと幸せな生活を送ることができている。優しい弘子の家族たち、そして──あの人が一緒に暮らしている。
 ……今の自分の状況を両親が見たら、どう思うだろうか。
 そんなことを考えるたびに、香奈は妙にくすぐったい気持ちになる。
 まさかこの歳で男と暮らすようになるなんて、思ってもみなかった。──もっとも、同棲なんていうものではなく、同居でしかないのだけれど。
 もちろん、香奈と祐也ははじめは別の部屋で暮らしていた。それがある時、香奈のすぐ隣の部屋に強盗が入ったことで、心配した祐也と弘子に勧められて同じところに住むようになったのだ。
 ……弘子さんはそう言うだろうと思った。だけどまさか、あの人まで勧めてくれるとは、思わなかった。だから、少し、期待した。だけど──。
 もう毎日考えていることだった。それでも考えたってどうにもならないことだから、一人で悶々としていたって意味がない。考えるのを、やめるんだ。
 香奈は思考を中断し、別の方へと意識を誘った。
 
 アメリカにやってきて約二年になるが、暮らしているうちにこの国に対するイメージもだいぶ変わった。脱出する時までは、アメリカは夢の国だと思っていたけれど、それなりにいいところも悪いところもあると、今は十分に分かる。
 自由は大きな魅力だけれど、それだけではない。自由である反面、大東亜よりもずっと犯罪が多く、平和(と言えるのかどうかは微妙だが)な大東亜には存在しなかったような危ない場所も数多くある。大東亜にいた頃には想像も出来ないような事件があちこちで起こり、その度に香奈は驚かされた。
 しかし、それでも大東亜よりはずっといい国であることは間違いなかった。何よりプログラムのようなめちゃくちゃな法律がない。それが当たり前のことなのだけれど、まずそれを一番に思った。そして、人々が自由に声をあげることができる。
 その自由に便乗して、香奈はある文章を作成していた。一つの国を動かすためには、どうしても他の国の協力も必要になってくる。香奈は自分が経験したプログラムのことを書き上げ、発表するつもりでいた。大東亜の現状を知ってもらうことからはじめなければならないと思ったからだ。
 毎日辞書を引きながら、英語で少しずつ書いている。書いていて辛いこともたくさんあるけれど、知ってもらえなければどうしようもない。大東亜を変えるためと思って書き進めていくしかないのだ。
 
 見渡すと、街はイースターの飾り付けで賑わっている。色のついた卵があちこちで売られている。香奈もそれをいくつかとって、つたない英語を交わして購入した。
 大東亜にいる時にも英語の勉強はあったけれど、本当に会話と文法は別物なのだと痛感させられる。それでも会話の方は少しだけ、出来るようになってきていたが。
 
 ふと、祐也の顔が頭に浮かんだ。
 イースターの卵など、何の役に立つのかも分からないけれど、祐也に見せてあげたくなったのだ。大東亜人にしてみればそんな習慣はなかったから、珍しいと喜んでくれるかもしれない。
 ……自分は勘違いを、まだしているんだろうか。
 香奈は再び戻ってしまった思考にうんざりした。
 ……あたしはあの人に助けてもらった。あの人しか頼れる人がいなかった。だから、こうしてあの人を気に入っているなんて、錯覚しているんだ。あの人は優しい。見た目も嫌いではない。ただ、それだけの──。
 そこまで頭の中で呟いて、香奈は溜息を漏らした。
 いつもの言い訳。今日は一段としつこい。
 本当は分かっていた。ただ、認めることが辛いのだ。
 ……あたしはあの人を好きになっている。
 そう頭の中で繰り返すと、本当に全身に意識が行き渡るので困る。顔を合わせた時にどんな顔をしていいのか分からなくなってしまう。
 香奈は本来自分から進んで人に近付くタイプではなかったし、それは相手が異性となれば特に顕著だった。そして、香奈が祐也に近付けない理由はもう一つあった。
 
 ──”俺は聞いてるよ。君の恋人が君を庇って死んだってね”。
 
 あの担当教官が言った言葉が胸に引っ掛かっている。そして、その言葉を言われた時の、祐也の表情。
 そして、梨沙が見せてくれた写真の男女。中学生の祐也と梨沙の姉。
 弘子が話してくれた、祐也の彼女に対する想い。
 
 ……かなうわけがないじゃないか。
 
 あの女の子は、あの人の心の中で永久にあの時のままで生きている。
 美しい思い出の中、変わらない可愛らしい姿であの人の側にいる。
 そんな人にかなうものか。
 
 祐也と一緒にいる時、香奈は妙な気持ちになることがあった。
 香奈を見る祐也の視線がたまに、ふっと何かを思い出しているような優しいものに変わるのだ。
 しかしそれは決して、目の前にいる香奈に向けられているものではない。死んだ彼女と自分を重ねて見ようとしているのではないか──そんな風に香奈は感じていた。
 あの可愛らしい人と、自分が似ているとは思えない。けれど、同じ年頃の少女なのだから、何かしら似た喋り方や表情をする瞬間があるのかもしれない。もっと言えば、アメリカに来てからは香奈以外に側に大東亜人の少女がいないのだから、重ねてしまうのも無理はないのかもしれない。
 
 街で賑やかな人々の群れに混じっていると、ふと、本当に自分は生きているのか、本当にこれが現実の世界なのかと疑う気持ちが起こってくる時がある。
 プログラムでは何度も命を落としそうな場面に遭遇してきたし、脱出する時も大変なものだった。
 それが今ではこんな些細なことで頭を悩ませるようになるとは、我ながら呆れてしまう。
 
 いつかこの関係が終わる時がくるのだろうか。
 この曖昧な関係が終わる時には、あの人はあたしを見てくれているのだろうか。それとも、二人とも全く別の方向へ行くのだろうか。
 
 香奈は右手に下げた卵を持ち上げ、そのきらびやかな模様を眺めた。
 早く帰って見せたいと思う反面、今日はもう顔を合わせたくない気もする。そんなあべこべな気持ちが起こってきて、香奈は盛大に溜息を吐くのだった。
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