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tragedy hero

「おつかれさんっ」
 渡辺ヨネが勢いよくグラスをテーブルに置いた。透明なグラスの中で色鮮やかなオレンジジュースが揺れている。喉は乾いていたが、とても手を伸ばして飲もうという気にはならなかった。
 
 花嶋梨沙(26番)は今、大東亜記念館の一室でヨネと向かい合って座っていた。始めに連れてこられた部屋よりはだいぶ小さい。一つのテーブルを向い合せのソファが挟んでいる様子からみれば、ここは応接室なのかもしれない。
 
「飲みなよ、ねっ? オレンジジュースは嫌い?」
 言葉は優しかったが、その声色は梨沙の神経を逆撫でするばかりだった。
「ほらあ」
 たまりかねたのか、ヨネはグラスを掴んで梨沙の手の上に乗せた。仕方なく梨沙は受け取り、両手で囲うようにして膝の上に乗せた。ただ、それだけだった。
 ヨネは満足げに二三度頷くと、急にかしこまった様子で背筋を伸ばした。
「花嶋梨沙ちゃん、おめでとう。君みたいな身体の小さい女の子が優勝なんてめったにないよ。おまけに傷もほとんどない。こんな前例ないんじゃないかな。俺も背が小さい方だからね、小さい子が頑張ってると嬉し──」
「あの」
 梨沙の呼び掛けに遮られ、ヨネはようやく口を噤んだ。
「一人にしてくれませんか」
 部屋に一瞬、沈黙が落ちる。
「どうして? 俺と話すの、嫌?」
「……当たり前でしょう。あなたの顔なんか、もう、見たくないんです」
「冷たいなー。せっかくお話ししようと思ってきたのに」
 苛立ちをあらわにして睨み付けてみるが、ヨネは笑顔を崩さない。
「あたしはしたくありません。一人にさせて下さい。でなかったら──早く、帰して!」
 ヨネはわざとらしいくらい大袈裟に肩を竦め、大声を出した梨沙に驚くようなそぶりを見せた。だがそれでもめげることなく笑顔に戻り、梨沙の方に乗り出した。
「ごめんね、それはまだできないんだ。君に一つ確認したいことがあって」
 いやらしい印象の、好きになれない笑い方だと梨沙は思った。それでもとりあえず、この男の気が済むまではこちらの自由はないのだろう。
「それ聞いたら、帰してくれるんですね?」
「もちろん、もちろん。優勝者様を長時間監禁なんて怒られちゃうからね」
 嫌な言い回しだった。とりあえず早くこれが終わるようにと祈る他はない。
 
 テーブルに乗っていたファイルをめくりながら、ヨネがゆっくりした口調で喋り出す。
「えーっと、今回のプログラムには転校生が二人いたね? もうどっちも死んじゃったけど、特別に二人の種明かしをしてあげよう」
 黙ってはいたが、梨沙はあっけにとられていた。そんなどうでもいいことのために、梨沙は拘束されているらしい。
「まずー佐倉真由美ちゃん。彼女には会った?」
「いえ」
 早く終わらせたくて一言で言った。
 そういえば洞窟の中から彼女が走って行くところを見たが、今さらそんなことを言っても意味がないだろう。そのことについては黙っておくことにした。
「そうだよねえ、会ってたら多分、命はなかったね。彼女は八人も殺してるんだよ」
「八人……」
 クラスの五分の一以上だ。梨沙は思わず口を開けていた。
 ようやく話の内容に反応しはじめた梨沙を見て、ヨネが満足げに笑った。
「彼女も君と同じ優勝者でね。俺がスカウトしたんだ。それから特殊訓練を受けて、これに参加したわけ。さすが訓練を受けただけのことはあるね、このスコア」
 ”同じ優勝者”という言葉にぞっとした。それでも梨沙は、自分を含めた優勝者を二人知っている。自分も相澤祐也も、失ったものの大きさに苦しめられている。それと同じ立場である少女が、もう一度こんなものに参加させられたなんて──。
「あの人は……そんな実験のためのものだったんですか?」
「実験? 嫌だな、そうじゃないよ。あの子が参加を希望したんだから」
 皮膚をじりじりと焦がすような嫌な感じを覚えて、梨沙は真正面からヨネの顔を睨んだ。
「嘘……無理矢理やらせたんだ! こんなのに何回も参加したいなんて人が──」
「いるわけないって?」
 今度はヨネが遮った。
「君が思ってる以上に歪んだ人間は存在するんだよ。それに、我々政府側を支持する人間もね」
 口元にいつもの笑みがたまっていた。しかし、眼鏡の奥の瞳は冷たく梨沙を見据えている。その冷たさに、無意識に背中の辺りが総毛立つ。
 表情を強張らせた梨沙に向けて、ヨネはぱんと一度手を叩いた。
「さあ、今度は花井君の話をしようかな」
 ヨネはもう元の笑顔に戻っている。
 得体の知れない気持ち悪さに包まれて、梨沙は目を伏せた。もう、本当に早く解放されたかった。それでもヨネは構うことなく説明を続ける。
「彼も真由美ちゃんと同じく元優勝者、それから特殊訓練を──こっちは、もう四年目になるのかな。そう、それを受けてて抜群に成績がよかったらしい」
 そこまで一気に喋り、ヨネは紙面から顔を上げた。
 その、こちらの反応を窺うような仕草にだんだんと苛々してくる。
「……こんな話が私にどう関係あるんですか?」
「まあ、急かさないでよ。君は最後に彼と一緒にいたね? それで、殺した」
 責めているような、または、反応を楽しんでいるようなにやけた表情に梨沙はむっとした。
「あの人は明菜を殺そうとした。だから、私が殺した。文句がありますか?」
 にやにやしながらヨネが首を振った。
「ないよ。最低な男だ。君の親友を殺そうとしたんだ。やられて当然、だよね」
 視線を上げ、両手でファイルを閉じた。梨沙の顔を無遠慮に見つめたまま、テーブルにファイルを放り投げた。ばん、と大きな音が一度だけ部屋に響く。
「俺が知ってるのはここまで。ここからは君が教えてくれないかな。君の方がずっと、花井君について詳しいと思うんだけどな」
「なん──の」
 思いがけずに声が掠れた。
「なんのこと、ですか。あたし、あの人のことなんか何も知りません」
 動揺していると思われたくないがないために、敢えて強い口調で言った。
「ほんとうに? 彼といた時のことを思い出してごらん。分からない?」
 間髪入れずにヨネがたずねる。
 何も考えたくはなかった。そして、考えても何も知らないはずだった。それでも、花井と一緒にいた時、花井が死んだ後に味わった妙な気持ちが再び胸に押し寄せてくる。知らないはずはないんだと、内からも声がする。
 ……なに。なんなの。
 梨沙はグラスを持っていない方の手の指先を丸め、拳をつくっていた。それを見逃さず、ヨネは梨沙の手元に視線を落とした。──ほらほら、動揺してるじゃないか。ほんとうは知ってるんだね──そんな風に言われているようで、梨沙はぶるっと首を振った。
「……知りません」
 さっきまでとは全く反対の、聞こえるか聞こえないかぎりぎりの声で言った。もう、わけがわからなくて泣き出しそうだった。
「そうか、君は知らないんだったね。それにしたって……」
 これ以上わけのわからない問答に付き合わされるのは御免だった。肉体と精神の疲れはピークに達している。それに加えて、この拷問のような時間。嫌な予感と言い表わしようのない不安に、梨沙は片手で自分の髪を掴んで叫んでいた。
「なんなの、もう──なんなんですか!」
 
「君は薄情だね。相澤祐也を忘れるなんて」
 
 ──相澤祐也。
 梨沙はその名前に、はっとして顔を起こした。心臓がどきんと大きく脈打つ。
 ……何を言ってるの。あたしは忘れてなんかいない。あの人を忘れられるわけがない。
 でもなんでここで相澤さんの名前が──なんで、この人が相澤さんを知ってるの──まさか相澤さんに何か──。
 梨沙の頭は混乱していた。動揺を隠す余裕すらなくなって、丸い目を更に大きく見開いて、ヨネに懇願するような表情に変わっていった。
「いい反応だね」
 ヨネが目を細めた。両手の指を組み、乗り出して梨沙との距離を縮める。

「相澤祐也は、花井崇という名前を使ってプログラムに潜入していた──理解できるかな?」

 外からごおっと雨風が吹き付け、窓がカタカタ揺れた。
 妙に静まり返った部屋の中、ヨネと梨沙は言葉もなく見つめあった。
 先に沈黙を破ったのはヨネの方だった。
「まあ、びっくりしちゃうよね。彼もかわいそうに。君を助ける気でここに来たんだろうけど、助けようとした本人に殺されちゃうなんてね」
 梨沙は呆然としていた。何かを言いたいのに言葉にならず、青ざめた唇が可哀想なほど震えていた。
「俺、君がいつ気付くかずっと楽しみにしてたのにな。彼の演技は素晴らしかったし、君が気づけなかったのも分かるよ。普通、こんなとこに転校生なんて形で来るとは思わないもんね」
「そんな……嘘に決まってる。だって──」
 ようやく梨沙も口を開いた。真っ白になった頭の中、必死に祐也と花井の違いを並べてみる。
 ……だって、相澤さんは携帯で連絡をくれた。助けに来るって言った。みんなを助けてくれるって言った。転校生のわけがないんだ。
「嘘じゃないよ。全て調査済みなんだから。相澤祐也、九十九年度逗陽中プログラムの優勝者、高校からは母親の旧姓の花井を使っていた。これはテレビに顔が出ちゃってたからね。慈悲深い総統陛下のお許しを得て偽名を使うことを許されたんだ。それに彼は、君のお姉さんである花嶋蘭と恋人だった。それで、分かるね?」
 梨沙をおいてけぼりにしたままヨネは喋り続けた。
 時折、青ざめた梨沙の顔を哀れむように見つめながら。
「彼が君を助けに来るだろうことは容易に想像できる。きっと、君がもし巻き込まれてしまったらと考えて、早々から政府側について様子をうかがっていたんだろうね」
 ヨネが喋っている言葉は理解できた。しかし、梨沙にしてみれば異世界の物語を聞かされているようだった。それでも、梨沙の頭に引っ掛かるものがあった。
 相澤祐也の目的を知っていて参加させるなど、あり得ない。彼はある意味プログラムを破壊するために参加したのだから、それを政府が見過ごすわけがない。
「なんで、わかってて……」
「参加させたか? 簡単だよ。これは儲かるチャンスだったんだ」
 再び梨沙には理解出来ない言葉を吐いて、ヨネは嬉しそうに目を細めた。
「俺ね、昔教師やってたって言ったよね? あんなの重労働の割に全然儲からないんだ。あ、いけない、話飛んじゃったけど──トトカルチョは知ってるよね? 彼から聞いたことあるだろ、ね? それで花井君と君のお姉さんの関係を伏せて参加させれば、他の連中は間違いなく花井君に賭ける。戦闘訓練を積んだ中での優秀者が女子校に一人で参加。彼が優勝するのは目に見えてる。──ま、元同級生の妹が混じってるくらい、他のやつらからすれば何の問題もないからね。でも俺は知ってるんだ。君と彼の関係、そして、彼の狙いもね。彼は間違いなく君を優勝させて生き残らせることを目的にしてる。それで、俺は君に多額の金を賭けた。優勝するのが分かっていたから。そりゃ、上の連中にはバカにされたよ。こんな小さな女の子に賭けて、ってね。でも違う。バカなのは何も知らないあいつらで、俺は一番賢い選択をした」
 一気に喋ると、大きく息を吐いて湯飲みを手にした。
 口をつけようと持ち上げて、もう一言付け加える。
「それでやっと、君のおかげでお金持ち、ってわけだよ。ありがたいことにね」
 下品なほど大きな、茶を啜る音が室内に響いた。
 すっかりからっぽになった梨沙の中身を、怒りの感情が満たしていく。
 相澤祐也もクラスメイトも、この男の意地汚い金への執着心のために死んでいった。それだけのために、梨沙は大事な人を何人も失った。
「そんな……そんな、理由で」
 グラスを両手で握りしめると、オレンジジュースの水面が細かく波打った。さっきまで青ざめていた梨沙の顔は、今では怒りで赤くなり、身体は震えていた。
「俺さ、さっきは”慈悲深い総統陛下”なんて言ったけど、一番信じてるものはお金なんだ。本来なら彼の目的を知った時点で参加をやめさせなきゃならないんだけど、そんなのに構ってられないよ。あー、内緒ね。二人だけの秘密! 俺、首飛ばされたくないからあ──」
 立ち上がり、握りしめていたグラスを力一杯ヨネに向かって投げた。ヨネはとっさに顔を庇ったが、オレンジジュースが頭から降り注いだ。ソファーを越えて飛んでいったグラスが、ヨネの背後でがしゃんと音をたてた。
「……死んでしまえ!」
 髪からジュースを滴らせ、目を丸くしているヨネに向かい、叫んだ。
 姉が死んでからは、冗談でも”死”という言葉を使うことはなかった。だが、その深刻な思いもこの男の前では無意味だった。心からそう思い、口にするなど初めてのことだった。
 怒りと絶望で脚ががたがた震えた。感情を抑える対象になっていたグラスは、梨沙の正気と一緒にくだけ散った。しかし、それだけだった。ヨネをいくら恨んだとしても、相澤祐也もクラスメイトも戻らない。姉が死んだ時と同じように。
 梨沙の両目から涙が溢れだし、頬を伝う。
 膝からその場にくずおれると、テーブルに突っ伏して身体を震わせた。
「先生──」
 騒ぎを聞きつけた兵士がドアを乱暴に開いた。泣いている梨沙と、びしょ濡れになったヨネを交互に見て押し黙った。
 もう一度ヨネの顔を見てからようやく、「先生、お怪我は」と聞いた。
「うん、大丈夫。これジュースだし」
 軽い調子で答えながらハンカチで頬を拭く。それからテーブルに伏して泣いている梨沙の頭を優しく撫でた。しかしヒステリックに悲鳴を上げて手を振り払われ、ヨネは苦笑をもらす。
 梨沙の様子に狼狽しているらしい兵士を見上げ、ヨネはソファから立ち上がった。
「少し興奮してるだけだよ。落ち着いたら連れてってあげてくれるかな」
 そう言い残して兵士の横を通り抜け、ドアに手をかけた。背後からはまだ梨沙の泣き声が聞こえている。ヨネはちょっと立ち止まって、梨沙の方に振り向いた。
「梨沙ちゃん、君も訓練を受けに来たら? ──待ってるよ」
 優しい声で梨沙の背中に声をかけると、ヨネは微かに笑みを深くして部屋から出ていった。
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