プログラム終了から二日
六月二日 月曜日 AM 7:00
白濁した意識の中、梨沙はベッドに凭れて座っていた。
「……梨沙。梨沙ちゃん。起きてるの? ねえ、そろそろ何か食べなさい」
遠慮がちな母親の声とノックの音が響く。
梨沙は何も答えなかった。しばらくしてからスリッパの音が遠ざかり、ぱたぱたと階段を降りていく。部屋に静寂が戻った。
プログラム終了からわずか二日ばかりしか経っていなかったが、時間の感覚はもうなくなっていた。部屋が明るくなったり暗くなったりする中で、梨沙は何をするでもなくじっとしていた。
……あとどれぐらいこうしていれば死ねるんだろう。
枯れてしまったと思った涙が一粒、膝に落ちた。帰ってからろくに飲食していないというのに、涙が出るのはなぜだろう。目は既に赤く腫れ、涙の通り道になった頬は乾ききっている。それでも思い出したようにまだ涙が溢れてくるのだ。
プログラム終了後、梨沙を部屋に入れた後、両親が洋間で話し合っている声が聞こえた。母親の啜り泣く声に耳を傾けながら、梨沙も泣いた。──お母さんをまた泣かせてしまった。でもあたしは、生きて帰ってきたんだよ。だからもう泣かないで──。
「……わからないの」
ようやく言葉を聞き取ることが出来た。しかし、何だか妙な空気を感じて梨沙は耳を澄ませた。
「どうやってあの子に接したらいいか……わからないの。蘭があんなことになった時は、何があっても帰ってきてほしいって思った。でも……ねえ、梨沙は生き残ったのよね。梨沙は誰かを殺──」
「言うな」
「でも……」
終わりまで聞かずに梨沙はふとんに潜った。聞きたくなかった。思い出したくなかった。今だけはただ、「怖かったね、よく頑張ったね」と慰めてほしかった。しかし、母の口から出た言葉がが梨沙にとどめを刺した。
……殺した。お母さん、誰か、じゃないよ。あたしは何人も殺した。全員殺したよ。あたしのために全員が死んだんだから──。
その時から部屋にこもったまま動けずにいた。ただ夢とうつつの間をさまよい、目覚めては涙を流していた。
それからまたどれぐらい時間が経ったのか、梨沙は小さな物音に目を覚ました。
泣き腫らして重たくなった瞼をこすり、つい癖で音の元を探した。通学鞄から携帯電話を取り出したが、画面は暗い。それを見て、自分で電源を切っていたのだということにようやく気が付く。今さら友達から連絡があったとしても、何も話せないのだから。
深い溜息をついて鞄から手を離す。──いや、待って。じゃあ今の音は──。
梨沙は勢いよく顔を上げて、部屋の隅に視線を送った。充電器の上に立っている、ストレートタイプの白い携帯電話の画面が光っていた。あの、相澤祐也がくれた秘密の携帯電話だ。
つい先ほど眠りに落ちる前(もう時間なんて覚えていないけれど)、こちらだけは充電器に差しておいたのだ。もう一度祐也からのメッセージを読みたかったし、まだ悪夢の中にいるようで、また彼が連絡をくれるような気がしていたからだ。
ディスプレイの光が消えた。梨沙はすぐにそこまで這っていって、携帯電話を取り上げた。
携帯を握る指先にじっとりと汗が浮かんでくる。この携帯電話で連絡をとれるのは、相澤祐也しかいない。はやる気持ちを押さえ、ゆっくりとボタンを押す。
メール受信あり 送信者名:相澤祐也
その名前が表示された瞬間、梨沙は携帯電話を取り落としそうになった。
心待ちにしていたメッセージ。しかし、喜びの次には疑惑がやってくる。これを開いてもいいのだろうか、という恐れが先に進もうとする気持ちを萎えさせた。
大きく息を吐いて親指に力を込める。メールが開いて文字列が映し出された。
梨沙ちゃんがこれを読んでいる時には、きっとこのゲームは終わっているでしょう。
妙な言い方だった。
送信日時を見ると、五月三十日の午後六時四十二分になっている。
やはり──彼は死んでいた。花井(だと、その時は思っていた)が外の様子を見に行ったことがあったが、その間にでもこのメールを打ったのだろう。
梨沙は続きを読むために画面をスクロールさせた。
一応最後には正体を明かすつもりでいるけど、もし計画が狂って言えないままになってしまったら嫌だから書きます。転校生は僕でした。はじめから話していればこんなにすれ違うこともなかったかもしれません。たくさん怖い思いをさせてしまってごめんなさい。それでもこの計画を成功させるためには正体を隠していなければいけなかったんです。
僕はあのプログラムが終わってからまず、政府の監督下にある特殊訓練所に通うことになりました。いくらこの国を何とかしたいと思っても、敵のことを何も知らないままでは意味がないと思ったから。プログラムの情報を探りつつ、僕自身が訓練によって力をつけていくために、政府の味方になったふりをすることにしました。
そんな時にある人と出会いました。高校のそばで一人暮らしをしていた時のご近所さん、だったのですが、彼女は反政府側の人間で、僕を助けてくれると言ってくれました。そこで手に入れた携帯電話の一つを、梨沙ちゃんに送ったんです。
味方になってくれる人が現れたとはいえ、その頃は心身共に最悪な状態でした。頑張らなければいけないのに、ふと何もかも投げ出したくなる時がありました。それでも頑張ってこれたのは、梨沙ちゃんがよく連絡をくれたから。梨沙ちゃんが話してくれる学校の事など、聞いていてすごく楽しかった。すごく、救われました。何度も会いたいと言ってくれていたのに、ごめんね。でも、梨沙ちゃんがプログラムに選ばれることが怖かったから、もしそうなった時には転校生として行けば一番無理なく助けられると思ったから、ずっと会わないようにしてきました。まさかとは思ったけど、本当にこんな形で再会することになってしまって、それだけは残念です。ちゃんと顔を合わせて、楽しい話をしたかった……。
少しの間だったけど、成長した梨沙ちゃんに会えて嬉しかった。梨沙ちゃんが無事にこのメールを読んでくれると信じています。そして、これからもずっと生きていて欲しいと思います。梨沙ちゃんは優しくていい子だから、これからもいい友達がたくさんできると思う。今は辛いだろうけど、これからも辛いことがあるかもしれないけど、どうか、元気で生きていて下さい。
梨沙ちゃん、今まで本当にありがとう。
相澤祐也
携帯を握りしめたまま、梨沙は呆然と座り込んでいた。
……知らなかった。
読んでいる時からこぼれていた涙が、さらにぽろぽろとこぼれて床に落ちる。
……相澤さんがずっとあたしのために準備してくれていたこと、知らなかった。相澤さんがどんなに辛い毎日を過ごしていたのか、知らなかった。あたしは何も──。
「なんてこと──」
それ以外に言い表わしようもない。
ああ、あの時、プログラムが始まってはじめて外に出た時、あの人は待っていてくれてたんだ。その後ずっと、あたしを探して会場を駆け回っていてくれたんだ。あたしが頭をぶつけた時に心配してくれたのも、あの転校生があの人だったからなんだ。違う人物のふりをしながら、メールと直接の言葉であたしを励まし続けてくれていた。最後の時までずっと守っていてくれたんだ。
「相澤さん……相澤さん!」
携帯電話をしっかり胸に引き寄せ、叫んだ。
そういえば相澤さんの写真を見せた時の香奈ちゃんの反応は、きっと、写真の中のあの人に転校生の面影があったからなんだ。あたしはずっとその写真を見て、相澤さんと会える日を楽しみにしていたのに──気づけなかった。転校生の存在がただ怖くて、ずっと目を逸らし続けていたんだ。思い込みが二人の顔を遠ざけていたんだ。優しい声色に安心させられたのは、やっぱりあの人の声だったからなんだ。
──”ちゃんと顔を合わせて、楽しい話をしたかった……”。
「ごめんなさい……ごめんなさい……もう──」
何てことをしてしまったのだろう。
彼の願いはもう、二度と叶えられることはない。
何も知らなかったとはいえ、相澤祐也を殺したのは梨沙自身なのだ。
ゆっくり顔を上げると、梨沙は携帯電話を床に置いた。
相澤祐也は梨沙に生きていて欲しいと願ったが、その言葉は既に頭から抜け落ちていた。ただ、自分の犯した罪の重さを思い知り、梨沙の意識は全く反対の方に向かっていた。
……死んでしまいたい。
床に手を付いて立ち上がると、身体がふらふらした。頭が重い。
……何でもいい。これ以上あたしは生きていたくない。──台所。包丁。引き出し。ロープ。下に行けばいくらだって死ぬ方法はあるじゃないか。
ゆっくりと歩を進めてドアノブに手を掛ける。だが、背後から再び携帯電話のバイブ音が聞こえて梨沙はぴたりと身体の動きを停止した。振り返った顔に表情は乏しく、床で震えている携帯電話を見下ろしていたが、それが止んだ頃ようやく身体ごと振り向いた。
「相澤さん……」
そっと、話し掛けるように携帯電話を手に取った。
もう一通メールが届いていた。送信日時は先ほどのものとほぼ変わらない。
恐る恐る開いたそこには、相澤祐也のメッセージはなかった。ただ、何の場所であるのか分からない住所と、地図が添付されてついていた。
思わずもう一度差出人を確認する。
……相澤祐也──やっぱり、相澤さん。
また、本文に貼付けられた奇妙な地図を見る。
……ここに何があるのだろう。
死に向けられていた意識が、ゆっくりとこちらに戻ってくる。梨沙は画面と見つめあったまま、しばらくそこに立ち尽くしていた。