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face

 目の前が急に明るくなり、明菜は目を細めた。
 眼前に現れた花井崇がこちらに懐中電灯を向けている。光の束が集まって、花井の表情まで読み取ることはできない。
 明菜も懐中電灯を持ち上げようとした。だが、行動を起こすのは花井の方が早かった。
「手を挙げろ」
 光の奥で何かが光った。
 黄色い光に彩られた筒が伸びてきて、明菜の方に向いた。
 ──ピストル。
 純を横目で見ると、もう両手を挙げている。明菜もゆっくり腕を持ち上げた。
「そのままこっちへ来い」
 よく知っている言葉、状況。
 今置かれている状況はとても落ち着いていられるものではないのだが、まるでありきたりなドラマの再現をさせられているようで、妙な気持ちになる。
 ……ただ。
 歩を進めながら横目に男の手元を見た。
 ただ、花井の手には本物の拳銃が握られていて、銃口はこちらに向けられている。
 ドラマではない、現実。助けなど来るはずもなく、命があとどれだけもつのかも分からない。
「まっすぐ進め」
 壁に背をつけた花井の前を通過し、今度は後ろから命令される形となった。
 ……純ちゃん。
 隣を見た。背後から懐中電灯で照らされてはいるが、純の顔はよく見えない。そして、今言葉を交わすことはできない。下手に動けば撃たれてしまう。
 脚を動かすたびに、腹部に固いものが当たる。
 制服のつなぎの部分に差してあるルガーP08を手にすることができるなら──。
 奥の扉が迫ってくる。プール室に入れば、今度はボディチェックされるはずだ。それまでに何とかしなければと焦るのだが、どうすればいいのか分からない。
 ……ルガーを抜き出して振り返り、撃つ。
 想像を膨らませてみたが、きっとだめだろう。こちらが手を降ろして制服をまさぐった辺りで、背中を撃たれる。
 考えている間にも、扉に手が届くところまできてしまった。
「ドアを開けて中に入れ。入ったらまた手を挙げろ」
 純と視線が交錯した。そろそろと両手を降ろし、明菜は扉に手をかけた。想像していたよりも重い。キイと扉の開く音が室内に響いた。
 花井からの命令も忘れ、まず暗闇の中に梨沙の姿を探した。静まり返った暗いプールに漂う奇妙な空気。近くに人の気配はない。だが、妙にどこからか視線を感じる。
 後ろから追い付いてきた純を振り返った時、部屋の奥から鎖の擦れる音が聞こえた。それに続いて懐かしい声が明菜の鼓膜を震わせる。
「……明菜?」
 よく知っている声。それが何なのか分かっていながら、明菜はとっさに言葉が出てこなかった。
「梨沙ちゃん」
 声を出したのは純の方が早かった。
「え……純ちゃんも?」
 闇の中から声が返ってくる。
 普段よりはだいぶ張りがない声。しかし、それでもしっかりしていた。少なくとも、大きな怪我を負ってはいないようだ。
 安堵からか、足元が微かに震えた。胸がいっぱいになり、大きく息を吐く。
「武器を出せ」
 今度は背後から声が掛かった。それに続いて、扉が閉まる音が響く。
 梨沙は無事だった。だが、今度はこちらの大きな問題が残っている。
「梨沙ちゃんは、無事なんですね?」
 純が口を開いた。
 花井の舌打ちに遅れ、懐中電灯の灯りが動いた。奥の水道のあたりに座っている女子生徒が照らし出され、明菜は思わず声を上げていた。
「梨沙──梨沙!」
 眩しさに顔を覆いながらも、梨沙がゆっくり薄く目を開く。声を頼りに顔を上げ、明菜を見た。
 見たところ、怪我はないようだ。ただ、手錠で繋がれているという点を除いては、普段の梨沙と変わりない。
「もういいだろ。武器を出すんだ」
 灯りが二人の方に戻ってきた。一瞬にして安心感が緊張に変わる。
 抵抗すれば殺される。しかし、銃を渡してしまってはこちらの勝機はゼロになる。
 純も同じことを思っているのだろう。二人はどちらも息を飲んだまま動かない。
 再び闇の中から銃口が伸びてきた。カチ、と嫌な音がする。
 同時にぴくりと純の右手が動き、ポケットからブローニング・ベビーを抜き出した。
「床に置け」
 ゆっくりとした動きで体を屈め、ブローニングを床に置く。丸い灯りがその動きをじっくりと追う。下を向いた純の三つ編みの先から、雨水が零れて床を濡らす。
 純が武器を置いたのを確認してから、花井は再び明菜の方に銃口を向けた。
 ……ここで殺されるわけにはいかない。
 セーラーの上着を捲り、ルガーを掴む。手放したくはなかったが、堪えて床に置いた。
「他には?」
 沈黙が落ちる。
 花井に聞かれて初めて、明菜は自分のポケットに入っているカッターナイフのことを思い出した。だが、相手が拳銃では分が悪い。
 花井は無言で二人に歩み寄ってきた。明菜と純を交互に見て、それから床に置かれている銃に手を伸ばしかけた。
 突然、キッと音がした。先ほど扉を開けた時の音に似ていたが、それよりも音が遠い。花井は素早く反応し、まず、梨沙の方に懐中電灯を向けた。
 懐中電灯の灯りが離れた瞬間、隣にいた純が屈んだのが分かった。微かに起こった風が明菜の頬を撫でる。
 ぼんやりしていた明菜にも、純が何をしようとしているのか分かった。今から一緒になって屈むのでは間に合わない。震える指先で、ポケットの中からカッターナイフを抜き出した。
 しかし花井もすぐに気配に気付いた。距離を取ろうとして足を浮かせかけたが、純の手に光るブローニングを認めると逆に正面から向かってきた。
 耳元で轟音が響き、黄色い火花が闇の中に飛び散った。
 思わず身を屈めた明菜のすぐ側に、純が倒れ掛かってきた。
 ”純ちゃん”、と声に出して言ったつもりが、耳がつんとして聞こえない。純の反応を待たず、明菜は立ち上がってカッターを握りしめた。チチチ、とカッターの刃が押し出される音に、花井の黒いシルエットが動く。
 カッターを握った手を前に伸ばした。戻ってきた懐中電灯の灯りが明菜の目を射したが、手には確かな感触が伝わってきた。
 ……当たった! 刺した! この転校生を──!
 しかし、興奮と感動は長続きはしなかった。
 花井の手が明菜の手首を掴み、軽やかな動きで捻った。痛みでカッターを握っていられなくなり、明菜もその場に膝をついて倒れた。
「明菜ちゃん!」
 もやもやしていた耳に、純の声が届く。耳が少しだけ本来の機能を取り戻してきているようだったけれど、今はそれについて喜んではいられなさそうだった。
「武器を捨てろと言ったはずだ」
 床に這いつくばっている二人に花井がゆっくりと近付いてくる。
 
 純は花井の注意が逸れたのを見て、ブローニングを拾った。発砲したものの花井には当たらず、武器は取り上げられた。続いて明菜がカッターで花井を刺した。しかし、軽傷だ。つまり──。
 失敗したのだ。何もかも。
 
 無駄だとは分かっていながらも、明菜は辺りを見回した。カッターは花井の足元にある。ブローニングは花井が握っている。そして一番近くにあったルガーは、たった今、花井がスニーカーで踏み付けた。ブローニングが花井の手の中でくるりと回り、二人に向けられた。
 純の体の震えが、制服越しに伝わってくる。言葉では言い表せない怒りと悔しさが沸いてきて、明菜は花井を見上げた。
 ブローニングを握る花井の手の甲から血が滴っている。明菜にできた、たった一つだけの抵抗の証。
 怖かった。もう逃げ場はなく、半分諦めてもいたが、胸は早鐘を打ち続けている。
 その胸が、まだ生きていたいと言っている。そして、梨沙や純を生かしていて欲しいと訴えている。
「やめて……やめてよ……」
 梨沙の弱々しい声が室内に響く。花井はそちらに顔を向けることもせず、じっと睨み上げている明菜を見つめ返してくる。
 花井に対する激しい怒りの中、胸が別の意味でちくりと痛くなるのを感じた。
 梨沙が泣いている。銃口が明菜たちに向けられたことで、梨沙が泣いている。梨沙がこの転校生の仲間になったと疑った自分が恥ずかしく、梨沙が自分のために泣いてくれることが嬉しかった。
 花井がブローニングを握り直し、明菜に向けた。
「……いいけど、待って」
 なにがいいのか、分からない。それでも明菜の口から言葉が出ていた。
 殺されても構わないけれど、待って欲しい。最後に言わせて欲しい。そんな気持ちからそう言ったのかもしれない。
 花井の手が止まる。
「純ちゃん」
「え?」
 掠れた声で純が聞き返す。
「ありがとね。あたしの側にいてくれてありがとう。恥ずかしい秘密も、聞いてくれてありがとう。そのおかげで最後まで何とかやれたから。今さらだけど、もっと前から仲良くしてたかった」
 何とか言い切った。
「明菜ちゃん……」
 純の声が涙声に変わっていた。横から伸ばされた手を握り返したが、顔は見られなかった。目を合わせたら、泣いてしまいそうだった。まだ言いたいことがある。泣くわけにはいかない。
「梨沙、聞いて」
 返事をするように、闇の中から鎖の音が聞こえた。
「あんたに謝ることが三つある」
 これを伝えなければ、ここに来た意味がない。
「まず、あんたがこの転校生の仲間になったんじゃないかって、疑った」
 心臓がどきどき言っている。顔が見えないとはいえ、梨沙の方を向くことはできなかった。俯いたまま、言葉を続ける。
「それから、あんたのお姉さんのこと。知らなかったとはいえ、無神経なことたくさん聞いちゃったことあったよね。あと、三番目──」
 室内が再び静寂に包まれる。
 純が両手で明菜の手を包み込んだ。大丈夫、またそう言ってもらえた気がした。
「あたしいつもリストバンドしてたでしょ。あれね──自分で腕、切ってたから、見せられなくて。あたし自分のことばっかりで、梨沙が苦しいの、一つも知らなかった」
 手のひらには汗が滲み、目にも涙が溜まってきた。
 今の自分はとてもひどい顔になっているだろう。最後なんだから、どうせだったらいい顔を見せておきたかった。それでも真剣に伝えたかったから、顔を上げた。
 背筋を伸ばし、梨沙がいるであろう闇に顔を向ける。
 
「ごめんね、梨沙。それから、友達でいてくれてありがとう」
 
 言いながら、笑みをつくった。
 梨沙の返事は期待しない。明菜は花井に向き直り、見上げた。
「もう済んだか」
 淡々とした言葉に、明菜は一度だけ頷いてみせた。
 花井が動く気配がして、明菜は目を閉じた。純がしっかりと横から抱きついてきている。その温かさにだけ集中して、”その時”が来るのを待った。
 
 静まり返ったまま何も起こらないことに気付き、明菜はゆっくり顔を上げた。
 花井は相変わらず明菜の前で仁王立ちになっている。一つ違ったのは、ブローニングを握っていた手が降ろされていることだった。
 目を丸くしている明菜たちを前に、花井はブローニングを持った手の人さし指を立て、唇に当てた。”喋るな”、というジェスチャー。
 ……今度は何?
 口を開きかけた明菜の耳に、再びキッという音が聞こえた。
 花井が首を回しかけ、何かに気付いたように身を低くした。それに倣う間もなく、激しい轟音と光の雨が降り注いできた。
 
 どこかで聞いたことのある音。
 島中の生徒たちを震え上がらせていたであろうマシンガンの音が、再びこの室内に響き渡った。



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