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trump

 ほとんど真っ暗な闇、更に肌を刺すような雨が降り注ぐ中、井上明菜と堀川純は走っていた。一応タオルを頭の上に乗せてはいたが、この大雨の中では意味をなさない。巨大なシャワーの下で逃げまどう虫のように、二人は無力だった。
 純の荒い呼吸が耳元に届く。明菜は隣を見ようとして、至近距離の視界すらぼやけていることに驚いた。細かい水の線が二人の間を遮り、顔もよく見えない。
「純ちゃん!」
「ん、──に?」
 雨音に負けないように大声で喋っているはずが、途切れ途切れに聞こえる。既に川のようになっている道路を踏み分けながら、二人はだいぶ近くに見えてきた宿泊所を目指す。
「とりあえず、あそこまで!」
 純が頷いたのを確認して、明菜はその手を取った。
 
 近付いていくと、宿泊所の建物付近に何か黒いものが転がっているのが目についた。一瞬躊躇したが、明菜は懐中電灯を取り出してそちらに向けた。純が止めようと手を伸ばしてきたが、それよりも早く灯りがともる。
 黄色い針のように降り注ぐ雨を挟み、建物に背を預ける格好で原田喜美(27番)が座っていた。もちろん、死んでいる。白い壁は茶色く汚れ、その下の喜美の顔は青い。髪から滴る雨水が制服を伝い、腹部の辺りにピンク色の水たまりができている。
 丸い灯りの中に浮かび上がる喜美の物言わぬ姿に、明菜は息を飲んだ。そしてすぐ、純が喜美と仲が良かったこと、それから、純が喜美の死体を見るのはこれで二度目なのだということに気がついた。
 ぼろぼろになった喜美を見ているのは辛かった。そして、物のように雨に打たれている姿を照らしているのは、いけないことのように思った。だが、懐中電灯を握った手が動いてくれない。
 灯りの中に純の背中が現れた。喜美と視線を合わせるようにしゃがみ、その青白い頬に触れている。後ろ姿の純が、今、どんな顔をしているのかは分からない。ただ見守ることしかできなかった。
 しばらくして純が立ち上がった時、明菜はようやく灯りを消した。俯いた純の顔を見ないようにすることが、精一杯の優しさのつもりだった。
「行こう」
 消え入りそうな声で言いながら、純が先に歩き出した。明菜もそれに黙ってついていく。
 
 正面玄関のガラスに二人の姿が浮かび上がる。本当はすぐにでも中に飛び込みたいところだが、用心が必要だ。ガラス戸に近付くと、頭上にせりだした雨避けのおかげで雨に当たらずにすんだ(もうとっくにびしょびしょなので意味はないけれど)。
「……引っ張ってみようか」
「うん」
 ドアに手をかけ、引いた。
 何の苦労もなくドアが開いた。鍵がかかっているだろうと思っていたため、ドアは腕に引かれるまま、大きく口を開けた。
 中にいる誰か──転校生に決まっている──が開けておいたのだろう。これはやはり、罠なのだろうか。それとも、早く来させようというつもりなのだろうか。
 背後から迫る雨音に半ば押されるように建物の中に足を踏み入れた。建物の中は外とは正反対に静かで、かえってそれが不気味でもあった。
 建物の中に入ったことによって雨に濡れることはなくなったけれど、今度は体が重たくてどうしようもない。濡れた体が熱くなり、体温が奪われていく。上履きから水が溢れるぐちゃぐちゃという音がいっそう不快感を煽る。
 スカートを束ねて絞りながら、明菜は辺りを見渡した。
 暗闇に慣れてきた目が、壁にかかっている地図をとらえた。少し迷ったけれど、灯りがなければ何も見えない。再び懐中電灯をつけた。
「プールは右に曲がって一番奥だ。……行く?」
 今さら確認してもどうしようもない。だが、つい弱気になってしまう。先ほど見た喜美の青白い顔が脳裏に浮かび、再び悪寒がやってくる。
「行くよ」
 短く、だが力強く純が答えた。カバンからブローニング・ベビーを取り出し、右手に握る。
 壁に掛かった時計を見ると、もう九時に近付いていた。もう少しで宿泊所以外が禁止エリアになる。もう一人の生存者、筒井雪乃はここに来ているのだろうか。
 不意に気配を感じて、背後を振り返った。
「明菜ちゃん?」
 純が小声で尋ねた。
「何でもない。何か、後ろ気になっちゃって」
「わかる、それ」
 ほんの少し、純が笑ったのが分かった。明菜の緊張も僅かながらほぐれていく。
「純ちゃんはさ、怖くなかった?」
「何?」
「あたしに話し掛けた時とか、それから、ここに来る時」
 うーん、と隣から聞こえる声に耳を傾けながら、明菜はじっと答えを待った。
 純はなぜ逃げ出したくならないのか。喜美の死体に触れて、どうして更に危険な場所へ進もうと思えるのか。
「死ぬのって怖いけどさ、あたしずっと考えてたんだ」
「どういうこと?」
 闇の中で視線がかち合った。
「どうせ死んじゃうんだったらさ、かっこよく死にたいなって。誰かを見捨てて後悔するくらいなら、その人のために死んだ方がいいって」
 前向きな言葉と声色。それが恐ろしくもあり、とても立派なものに聞こえた。それでいて、冗談でも”こう死にたい”という純が痛々しくもあった。
 今、隣を歩いている純の呼吸が止まる。魂が抜けて肉体から力が失われる。明菜を何度も励ましてくれた純の全てが終わってしまう──そんなものは見たくなかった。
「あたし、友達とか言いながら喜美ちゃんに何もできなかったし……だから……」
 何も言えなかった。
 ──”あたしはみんなを信じてる”。
 そう宣誓したはずの自分は、誰かのために一度だって動かなかった。
「そんなの、あたしだってそうだよ。怖くて怖くて……ずっと隠れてた。純ちゃんに言われるまで、動けなかった」
「でも、梨沙ちゃんを助けるんだよね?」
 梨沙の顔を思い浮かべると、また少しだけ足に力が入る。
「梨沙があんな思いしてたなんて知らなかった。”あんた何も考えてないでしょ”とか、”鈍感”とか、冗談にしても、言っちゃいけなかったんだ。梨沙に会って、謝るまでは絶対に死ねない」
 喋りながら、また涙腺が弛んでくる。情けないと思いながらも、思い出すとどうしても自分の不甲斐なさに怒りが沸いてくる。
「大丈夫だよ。きっと分かってくれるから」
 純の言葉に励まされるのは、これで何度目だろうか。今さらになって、もっと普段から仲良くしておけばよかったと思ってしまう。
 
 曲り角に差し掛かった時、純が「あっ」と叫び声を上げた。
「純ちゃん?」
 明菜の声と被さるように、空き缶が転がる音が廊下に響き渡った。
 全身が心臓になってしまったかのように、びくびくと指先まで脈打つ。震える手で懐中電灯をつけ、音の正体を探した。
 純の足元に果実酒の缶が転がっていた。拾い上げようとした純の手がぴたりと止まる。
「糸がついてる……」
 缶に巻き付いたテグスが光に浮かび上がり、そのもう片端が階段の手すりに縛り付けてある。
「これって……!」
 気付いた時には遅かった。純と二人で体を寄せあいながら、前方に目を凝らす。
 薄暗い廊下の真ん中に黒いシルエットが浮かび、二人の前に立ちはだかった。
「動くな」
 短く発せられた言葉に、二人はなす術もなく立ちすくんだ。
 
 
 
+ + +

 
 同時刻、井上明菜と堀川純より数メートル後方に潜んでいる者がいた。
 がら空きの二人の背中を撃ち抜くことは簡単だったが、罠や奇襲に備えて二人を先に行かせ、尾行したのは正解だったようだ。転校生と女子生徒たちは互いのことに気を取られている。うまくいけば、全てが自分の計画の通りに進む。
 
 筒井雪乃(18番)は口元を緩ませ、三人の声にじっと耳を澄ませた。



【残り4人+1人】

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