78

the calm before the storm

 花井は思ったよりも遅く帰ってきた。
 花井の帰りを今か今かと待っていた梨沙は、ほんの少し拍子抜けした(もちろん、花井が恋しくて待っていたなんてわけではない)。
 これだけ時間があるなら慌てて弾を入れることはなかった。もう一つでも多く入れていれば良かったと、今さらになって悔やまれる。
 
 
 花井が戻ってからしばらくして、雨が強くなってきた。そしてその後すぐに放送が入った。花井は出ていったけれど、梨沙のところまで放送は聞こえない。
 再び扉が開いた。
 さっきと同じように、花井は梨沙の側まで戻ってきて座った。言葉はない。
「あの……」
 話し掛けた声に反応して、花井の持っていた懐中電灯が梨沙の胸のあたりを照らした。眩しさに思わず目が細まる。
「さっきの放送、何て……」
 確認しないわけにはいかなかった。まだ夜十二時の放送まではだいぶ時間がある。相澤祐也が見つかってしまったか、あるいは、梨沙と花井以外が死んでしまったか──そんな心配が頭を掠めたのだ。
 手のひらの上で懐中電灯を転がしながら、花井が口を開いた。
「ルール変更の放送だった。あと二時間弱でここのエリア以外、夜中十二時には島全体が禁止エリアになる」
 花井の言葉が重く、梨沙の胸を締め付ける。また、花井が口を開こうとしているのに気付いた。やめてほしいと思う反面、それでも先を促すような気持ちもあった。
「つまり、あと五時間もしないうちにゲームが終わる」
 ……ゲームが終わる。
 たった一言の、重い重い言葉。その意味するところに押しつぶされてしまいそうになる。
 室内は蒸し暑いくらいだったが、梨沙は震えていた。恐れていた終わりがやってくる。頭の中で遠くへ追いやっていたゲームの終わりがじわじわと近付いてくる。逃げられない。
 隣に腰掛けている男に目をやった。
 花井はすぐに梨沙の視線に気付き、顔をこちらに向けた。視線がぶつかったが、すぐ、花井の方から目を逸らした。梨沙はほんの少しむっとして、遅れてしまったぶんわざとらしく大袈裟に顔を背けた。
「少しは良くなってきたか」
 そうだった。梨沙は今、”具合が悪い”んだった。
 だがそれよりも、花井の言葉が不思議と胸に響いた。先ほどの放送の内容を話す時のような淡々としたものではなく、優しさに満ちた声色。
「怖いか?」
 続けざまに掛けられる言葉はやはり、温かい。
 ……疲れているからだろうか。この男を温かいと感じるなんて。
 梨沙は無愛想に首を振ってみせた。
「無理しなくてもいい。俺はハナシマの──」
「……ハナジマです」
 二人の間に沈黙が落ちた。
 懐中電灯の灯りが梨沙の足元を照らす。
「悪かった。今度は靴にもフリガナ振っておいてくれ」
 上履きを見て、ようやく梨沙は納得した。花井が自分の名前を知っていた理由。それでも間違って呼んだ理由。”花嶋”と書かれた上履きを見て、花井は梨沙の名前を知ったのだ。それも、読み間違いをしながら──。
 今までも読み方を間違えられたことは何度もあったので気にならなかった。これが知り合ったばかりの友達だったら、「いいよいいよ」なんて笑って返したかもしれない。
 だが今は、そんな間違い直しなど意味がない。どうせ知ったところでこれから二人がどうこうなるわけではない。束の間の優しさならば必要ない。むしろ、ずっと冷たくされている方がまだ諦めがつく。他の誰かがここへ来た途端、あるいは、二人きりになった途端、その優しさは終わるのだから。
「味方でなんかいてくれなくたっていい。放してくれた方がよっぽどいい」
 花井の優しい言葉への未練を断ち切るように、声を振り絞った。
「外に出たら殺されるぞ」
「誰、に?」
「お前の友達だったやつらだよ」
「……はあ?」
 思わず素頓狂な声が出てしまった。梨沙の大きな声に驚いたのか、花井が微かに目を丸くした。だが、すぐに薄い笑みを浮かべて、元の調子で言葉を紡ぐ。
「友達が助けに来るって本気で思ってるのか? 一ケ所に全員が集まるってことは、そこにいるやつらを倒せば優勝できる」
「そんなこと……」
「あるいは」
 花井が梨沙の言葉を遮った。
「もう俺と組んだと思われてる。敵と認識されてるかもしれないってことだ」
 言い返そうとしたが、言葉が出てこない。花井の一言が頭の中を侵食していく。
 自分が疑われるなど、考えてもみなかった。
 梨沙はずっと、クラスメイトを信じようとしてきた。相澤祐也に頼んで、他のみんなも助けたいと思ってきた。そんな信念を自覚していたからこそ、自分が疑われることはない、みんなも信じてくれるはずだと、そう、思っていた。しかし──。
 梨沙の心のうちは、梨沙しか知らないのだ。言葉で「みんなを信じている。みんなを助ける」と言ったとしても、それでも嘘だと思われることだってある。
 それでも、今残っている二人──井上明菜と堀川純が梨沙を殺そうとするなど、想像もつかない。梨沙は明菜とずっと一緒に過ごしてきたし、純にはプログラム中で助けられた。
「そんなこと……ない。いい加減なこと言うの、やめて。みんなのこと何も知らないくせに」
「じゃあお前はあいつらの何を知ってるんだ?」
 梨沙の言葉を待っていたかのように、花井がすぐに言葉を発した。つくづく、嫌な言い方だ。
 
 あたしは知ってる。
 明菜がどんな風に笑うか、怒るか、泣くか。全部知ってる。
 だが、それをどんな風に花井に言えばいいのか分からない。
 
「お前はあいつらに、自分の秘密を全て話したことがあるか?」
 自信がふっと消失した。無遠慮に伸ばされた花井の手が、梨沙の心臓を掴む。
 梨沙の秘密。四年前の出来事。それをずっと隠してきたこと。本当は心から打ち解けたことなど、なかったこと。
「ないだろ。向こうだってきっとそうだ。相手のことを完全に理解するなんて、誰にもできない」
 ……ああ。
 目の前がゆっくりと暗くなっていく。懐中電灯の丸い灯りがふわりと揺れた。
「……同じだよ。俺もお前も、何も知らない」
 言い終わらないうちに、花井はカバンから缶ジュースを取り出した。空気が抜ける音が一度、室内に響く。
 薄明かりの中、花井の喉がゆっくり動く。キラキラした加工が施されている缶には、レモンの絵が描かれている。ジュースではなく果実酒だ。
 花井の言葉と態度を見ていて、”むかつく”と思った。だが、客観的にはそう思えるのだが、不思議と胸の奥からむかむかするということはない。
 今の言葉はどちらかといえば冷たい方に分類されるのかもしれないが、梨沙にとっては妙に感心してしまう一言だったのだ。
 妙に達観しているくせに、人間くさい男。
 そう感じたのは初めてだ。
 この男は恐らく知っている。梨沙よりずっと遠く、確かなところを見つめている。ただ冷静に、終わりの時を待っているのだ。
 経験者。
 ふとそんな単語が頭に浮かび、まさかと首を振った。気付いた花井が梨沙を見遣る。
「あの、あなたは──」
 つい声に出してしまった。
 ……これの、経験者ですか?
 質問が頭の中を巡る。それでも、踏み出せなかった。
「──やっぱ、何でもないです」
 そうか、と言いながら、花井は果実酒を再び口に運ぶ。それを見つめながら、梨沙は小さく溜息をついた。
 なぜ知りたいと思ってしまったのか、分からない。お互いを知るなど、意味がないということは充分すぎるほどに分かっていた。
 単にこの状況で、今現在頼れそうな者がこの男しかいないからなのか、それとも──この男の言葉に興味を持ってしまったからなのか。
 ……わかんないな。
 激しくなっていく雨音に耳を傾けながら、梨沙は膝に顔を埋めた。



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