77

a downpour

 放送が終わるとすぐに雨脚が強くなってきた。
 すでにいくつも水たまりができている道路を、明菜と純は小走りで駆けていく。
「待って」
 明菜が呼び止めた。純が立ち止まったのを確認して、明菜は懐中電灯としわくちゃになった地図を取り出した。懐中電灯の灯りに浮かび上がる雨の筋が黄色く光り、地図を濡らしていく。
 
「この道路……ここ、B=5に続いてるかもしれない」
「禁止エリアだね……」
「わかんないけど、念には念を入れた方がいいかもしれない」
 
 ここまできて禁止エリアで死んでしまっては意味がない。せめて、宿泊所までは辿り着かなければならない。
 一番近道だと思われていた車道が通れないとなると、他のルートを探さなければならない。二人はそれぞれ、視線を周囲に巡らせた。今目の前に伸びている道路以外にまともそうな道はない。右に細い道が伸びているが、きっと、見当違いな場所へ続いているのだろう。
 二人はやがて同じ場所を見上ることとなった。
 右手の民家が途切れたところから、急な傾斜の薮が続いている。そこは地図の縮尺から考えても、禁止エリアに入っていない。
 問題は時間がかかるということと、この悪天候の中で敢えて障害の多いルートを通らなければならないことだった。
「どうしよう」
「登る、しかないんじゃないの」
 二人の間に沈黙が落ちる。明菜は額から流れ落ちる雨水を拭い、一歩を踏み出した。
 もう決めていた。今さら後戻りも、ここで立ち往生するわけにもいかない。
「大丈夫? 純ちゃん」
 それでも一応、確認する。
「平気。行くしかないよ」
 薄暗い道路から、更に暗い闇が広がる薮の中へ、一歩ずつ進んでいく。上履きの中はとっくに水浸しだった。それでも、冷たい草がふくらはぎを撫でるのだけは、気持ち悪くてつい足を止めそうになる。
 
 だんだん傾斜が急になるにつれ、二人の歩みはどんどんゆっくりになっていった。ほとんどロッククライミングでもするように、木の枝を伝いながら、ぬかるんだ土を踏んでいかなければならない。
 見上げた明菜の目に大きな雨粒が落ちてきた。首を捩り、まぶたを閉じて水を追い払う。
 濡れた土がすぐ目の前にある。雨水を吸収しきれなくなった土が緩み、あちこちで細い水の流れが出来上がっていた。その泥水が明菜の上履きから、更にはセーラー服をも汚していく。普段の生活では考えられないことだった。ぞくっとして身を竦ませたが、泥の汚れくらいできゃあきゃあ騒いでいる余裕はない。
 ……もう泥なんて気にしてられるか!
 明菜も勢いをつけて土を蹴り、頭上に生えている太い木に腕を伸ばす。しかし、上履きの裏に泥が絡み付き、爪先が宙を掻いた。
「わっ」
 固い枝に伸ばしたはずの手は届かず、指は柔らかな土を握ることとなった。腹這いになったまま体がずるずると滑り落ちていく。
 落ちていく明菜の腕を、純の温かい手がとらえた。いつの間に先に登り切っていたのか、純は安定した場所に膝をつき、両手で明菜の腕を掴んでいる。
「もうちょっと、だから……今、引っ張るから」
 引き上げようとする純の腕がぶるぶる震えている。一瞬呆然としてしまったが、明菜も再び足場を探し、体に力を入れた。
 
 純のおかげで何とか転落せずにすんだ。それにしても、純に助けられるとは思っていなかったので(体力においては純よりずっと上だと思っていたので)、明菜はまだ少しぼんやりとしていた。
「わ、思ったより泥がついちゃってる」
 純が明菜の制服に手を伸ばしてきた。見下ろした明菜もびっくりするほど、胸から腹にかけてべったりと汚れている。
「いい、いいよ。もう服なんか気にしてらんないし。それよりありがとう」
 純の手を押し返し、礼を言った。それからもう一度懐中電灯を取り出し、灯りをつけた。
 二人が辿り着いたのは背の高い木に覆われた崖の上だった。足元にもたっぷりと雑草が生い茂り、獣道すらない。
「道わかんないね。そうだ、コンパス……」
「明菜ちゃん、少し休む?」
 珍しく純が聞いてきた。
「どうして?」
「ものすごく疲れてるのに、焦っちゃってる。時間はまだあるよ」
 純には全てお見通しのようだ。明菜は苦笑した。
 確かに、明菜は焦っている。ヨネが突き付けた条件を思い出したくないがために、無理にでも先へ先へと進もうとしている。それなのに、体が頭に追い付いていっていない。体はすっかり疲労しているのに焦るから、さっきのようなミスをするのだ。
「少し休憩した方がいいかもしれないよ」
「わかってる。わかってる、けど──早く梨沙のところへ行きたくて」
 うんうんと頷きながら、純はしゃがみこんだ。明菜もつられて、休むつもりはなかったのにしゃがんでしまった。体はやはり休憩を欲しがっている。
 二人の吐息の合間に、雨の音が聞こえる。ぱたぱたと頭上で音はするが、二人のところへ落ちてくる雨粒の数は少ない。
「……もう七時半」
 気にしないようにと努めたつもりだったが、明菜は時計を取り出していた。
 あと一時間半であの転校生と戦わなければならない。あと五時間弱で、全てが終わる。
 雨に濡れたせいだけではない悪寒が、明菜の全身を包んだ。
「ひどいよね、あと五時間もしないうちに、あたしたち……」
 純も同じことを思っているのだろう。静かなその声色にぞっとして、明菜は首を振った。
「明菜ちゃん」
「……何?」
 一呼吸置いて、純が続けた。
「梨沙ちゃんを助けられたとしても、あたしたち、十二時には……」
 珍しく純が弱音を吐いた。明菜がずっと純に頼ってばかりだったので、弱音を吐くチャンスがなかったのかもしれない。
 純がそのことを口に出さなければ、明菜ももう少し元気でいられたかもしれない。沈黙が悪い方向へと妄想を導いていく。しかしそれ以上に、純が怯えているのを見て心苦しく思った。今度は明菜が助けなければならない。
「梨沙を助けた後のことは、助けてから考える。ね、そうしよう」
「そうだね、暗くしてごめん」
 明菜は何も言わずに首を振った。今の言葉だけで純の不安がなくなったとは思えない。だが、二人して後ろを向いて泣くわけにはいかないのだ。
 
「あれ、絆創膏とれちゃってるよ」
 持っていた懐中電灯が、明菜の手首を照らしてしまったようだ。一瞬、体が強張ったけれど、深く息を吸った。純がカバンを探り出した。きっと、新しい絆創膏をくれるつもりなのだろう。しかしそれより先に、明菜が言葉を発していた。
「純ちゃん、あたしの腕、自分で傷付けたんだ」
 しんと静まり返った二人に、また少し強くなった雨が降り注ぐ。懐中電灯の灯りで微かに、純の眼鏡の縁が光って見える。どんな表情をしているのかは分からない。
 それ以上言葉を発することができず、明菜は膝を抱えて顔を伏せた。言ってしまったはいいけれど、恐ろしかった。優しかった純の態度が変わってしまったら──それがとても、怖かった。
「いつから……」
 掠れた声が耳に届く。
「いつから、そうしてたの?」
「あ、ずっと……」
 うまく答えられず、明菜は声を震わせた。次の言葉を待つのが怖い。
 ぎゅっと濡れた音が近付き、純が明菜の手首に触れた。
「あたしは、堂々としてるとか、言われるけど、そんなんじゃない」
 反射的に言葉が出てしまった。純は黙って聞いている。沈黙が怖い、それだけで明菜は言葉を紡ぎ続けた。
「クラスまとめたりしてたけど、ほんとは、そういう自分を作っておきたかっただけで」
「……うん」
「みんなにどう思われてるかがいつも気になって、だから、腕の事も隠したし──本当は人の目が怖くて仕方ないの」
 腕に触れている純の手が温かい。どちらもびしょびしょになってはいたが、お互いの体温でそこだけ温かい。
「……辛かったんだね」
 明菜は驚いて顔を上げた。眼鏡を外した純の目がすぐ近くにあって、泣きそうな顔になっている。
「なんでそんな顔、するの。あたしのこと、おかしいと思わない?」
 純が頭を振った。前髪から散った雫が、明菜の頬を濡らす。
「元気な人が泣いちゃいけないなんてことはないんだよ」
 腕に感じる熱が上がったような気がした。
「人間だから、笑う時もあれば落ち込む時もあると思うの。全く辛いことを感じない方が、おかしいよ」
 口を開きかけた明菜には構わず、純が話し続けた。
「ずっと我慢してたんだね。でも我慢できなくなって、それでも他の人を傷付るより、自分を傷つけることを選んだってことでしょ。だから明菜ちゃんは優しい人なんだよ」
 ね、と笑いかけながら、純が微笑んだ。明菜はただ呆然と、その顔を眺める他なかった。
 軽蔑されると思った。冷たい目で見られると思った。だから──優しく受け止められた時、どうしていいか分からない。
 何か言いたいのだが、言葉が出てこない。それでも嬉しかった。それから、純の優しさに当たってしまったことが恥ずかしかった。それだけでも伝えようと思った。
「明菜ちゃん。さっきあたしのこと、いい子って言ったね」
 突然、純からその話題を切り出され、明菜はぎくっとした。
 思い出すのは、梨沙を疑い、更に純にまでひどい言葉を浴びせてしまった自分の痴態。心臓が早く鼓動を打つ。
「あたしはいい子なんかじゃないよ」
 予想外の言葉に、再び明菜は言葉を失った。
「あたし、多分、よくわかってないんだ。人の言うこと鵜呑みにしちゃうし。なんていうか……あんまり不満とか、持てないんだ。それって物事を深く考えてないってことなんだろうけど。だからいっつも、まわりの子の微妙な空気とか読めなくて、問題起こしちゃうんだ」
 思い返してみればそうかもしれない。純は優しい。でも、人を簡単に信用しすぎる。
「喜美ちゃんたちがもめごとになったのもね、きっとあたしが悪いんだ。あたしが誰彼構わず声かけちゃったから、けんかになっちゃった。明菜ちゃんのことにしてもそう。あたしが一方的に一緒にいたいからってくっついてきちゃったけど、いつも相手の気持ち確認できてなくて……ごめんね」
 予想はできる。それでも明菜は、純が悪いとは思えなかった。事実だとしても、そう思いたくはなかった。純の優しさに苛立った自分もいたけれど、それは明菜のわがままだった。
「そんなことない……あたしは純ちゃんにいっぱい助けてもらったよ。純ちゃんがいなかったら、今、きっと逃げ出してる」
 情けないことに、我慢していた涙が溢れてくる。純にきちんとお礼を言いたい、当たってしまったことを謝りたい、そして慰めてあげたい。しかし、順番がごっちゃになって、明菜は自分の感情に任せて涙を流すことしかできない。
「ありがとう。明菜ちゃん、一緒にいてくれてありがとう」
 純が腕を握る手に力を込めてきた。明菜は大きく首を振った。──ありがとうを言いたいのは、こっちだ。
 
「八時近くなってきた」
「行こうか」
 二人の言葉を待っていたかのように雨脚が強まった。轟音ともいえるような大きな音が二人を包み、木に覆われた場所さえ関係なく雨が貫いていく。
 一歩踏み出すごとに上履きから水が溢れ、ぐずぐずと嫌な音を立てる。制服は水を吸って重くなり、スカートの裾から脚に向かって滝のような水が流れ落ちていく。
 幾度となく滑りそうになりながらも、二人で支え合って歩き続けた。視界がほとんど利かなかったが、道が開けた。
 眼下に広がる舗装された道路は、きっと宿泊所へ続いている。



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