74

last resort

 心臓の音が外に漏れているのではないだろうか──。
 そう思うほどに梨沙の耳の奥では、どんどんと心臓の脈打つ音が響いていた。
 手の平に冷たい汗が染み出してくる。思いついたものの、いざその時が近付くと気持ちが揺らぐ。
 演技の方はあまり自信がない。簡単な台詞の朗読さえだめな自分に、果たしてこの男を騙すほどの演技ができるだろうか。
 今さらになって否定的な気持ちがやってきた。どうせならもう少し早く思いなおせたらよかった。一段ずつ階段を降りる足を止めることはできない。もう、決行場所間近だ。
 ……どうしよう。どうしよう。ええ、もう、やるしかない!
 最後の一段を踏み外し、梨沙は前のめりに倒れた。足元が浮き上がる妙な感じがした後、顔の前にあてがった腕、それから腰、脚の順に痛みが走った。
 花井がすぐに駆け寄ってきた。梨沙は顔を腕で隠したまま、耳を澄ませた。
「立て」
 梨沙が転んだだけだと判断して、花井がそう言った。梨沙は静寂の中に響く花井の声にどきっとしたが、それでも顔を上げなかった。
「どうした」
 花井の手が背中を叩く。梨沙はまだぐっと堪えて声一つ洩らさないようにした。
 また階段がしんとなった。ここまできて梨沙はようやく声を出した。
「気持ち……悪い……」
 緊張で思ったように声が出なかったが、かえってよかった。掠れかかった声はいっそう梨沙の容態を悪く思わせただろう。
「痛い……」
 腕を曲げ、自分の髪を掴んだ。
 もちろん、全て計算してのことだ。こちらが弱り切っていると見せ掛けて花井を油断させられないかと思った。
 頭をぶつけてから今まで喋らなかったのは正解だったようだ。花井は困惑しているのか(顔は見えない)頭を抱えている梨沙を見下ろしたままのようだ。
 数秒の間の後、花井は梨沙の脇に手を差し入れた。すぐに体が浮かぶ感覚がして、梨沙は薄目を開けて見た。ここに来た時のように抱え上げられているらしい。梨沙は目を閉じ、ほんの少しだけほっとして体の力を抜いた。
 
 しばらく揺られた後、花井の足がある場所で止まった。懐中電灯が分厚い扉を映し出している。鍵が掛かっているのか、花井が叩いても扉は開かない。
 懐中電灯を降ろし、コルトガバメントを扉に向けたのが見えた。次の瞬間、発砲の反動が梨沙の体をも震わせた。この場合鍵を探している余裕はないとはいえ、相変わらず乱暴なことをする男だった。コルトガバメントが打ち抜いた扉の鍵部分は壊れ、片方が奥に半開きの状態で揺れている。梨沙を一度抱え直し、花井は扉を押して中に足を踏み入れていった。
 すぐ側で扉が閉まる音がすると、梨沙の鼻に懐かしい匂いが届いてきた。少しつんとするような、そしてむっとするような湿っぽさ。プールの独特の匂いだった。
 少し立ち止まって、懐中電灯の明かりがふわふわと室内をさまよった。丸い光が奥にある水道を浮かび上がらせてから、花井はそちらに歩を進めていった。やがて、梨沙の体は再び地面に横たえられた。
 梨沙の手をとり、花井がしっかりと手錠を掛けた。更に手錠の端を、水道から伸びるチェーンにしっかりと填めた。ここまでしてきたことが全く無意味になってしまった──と、少し絶望しかけたが、まだ気を落として諦めるわけにはいかない。梨沙は頭を垂れたまま、それでもできるだけ感覚を研ぎ澄ませていた。
「飲めるか」
 抱き起こされるような感覚に次いで、花井の指先が顔に迫ってくる。ペットボトルの口が、梨沙の唇に近付いてくる。梨沙は目を閉じたまま反応を示さないようにした。冷たいものが口内に流れ込み、唇の端から入り切らなかった水が溢れ出た。
 水を飲まない梨沙を前に、花井は諦めたようにペットボトルを離した。
「自分で飲む……」
 梨沙はゆっくり目を開いてペットボトルに手を伸ばすような素振りを見せた。手は当然縛られているため、手錠ががちっと震えただけだったが。
「そんな状態で飲めるか」
 薄暗い中、花井が苦笑したのが分かった。
 ……飲める。だから、手錠をとって。そして一人の時間をあたしにちょうだい。
 少しの沈黙の後、「わかった」と花井がはっきり言った。心の中を読まれたようでどきりとしたが、まさかいくらこの男でも、そこまでは無理だろう。
「そんなに自分でやりたいならやってみろ。俺は見まわりに行ってくる。妙なことはするなよ」
 花井が梨沙の腕の拘束を解いた。自由になったのは右手だけで、左手はチェーンに繋がれたままだったけれど、それでも状況はよくなった。おまけに花井はいなくなる。
 梨沙は薄目を開き、歩いていく花井の後ろ姿を見送った。何度か振り返りながらも、花井はドアを閉めて出ていった。
 
「……はあ」
 溜息と一緒に疲れがどっと出る。しんと静まり返った大きな空間に梨沙の声が響いた。普段は子供たちの歓声が聞こえる明るい娯楽施設なのかもしれないが、今はその影もない。どす黒いプールの水のうねりに梨沙はぞっとしないではいられなかった。
 しかし、ぼんやりしている暇はない。自由になった右手を捻って左ポケットを探り、デリンジャーを出した。次いで、更にポケットの奥に入っている弾を二つ取り出した。ここからは両手を使って作業しなければならない。左手が動かせるように中腰になり、左の方でデリンジャー本体を掴む。指先が震えてうまく弾を入れられない。花井が出ていったドアに素早く視線を飛ばし、また注意を手の中に戻す。帰ってくる時には足音がするだろうとは思うけれど、あの男のことだ。もしかしたら梨沙の考えを見抜いていて、今も外から様子を窺っているかもしれない。
 緊張で呼吸が荒くなる。額から鼻筋に流れる汗が気持ち悪い。止めようと思う意思とは反対に、弾丸をつまむ指先が震える。
「はっ──」
 キイン、という小さな、しかし鋭い音がして、梨沙の指先から弾丸が消失していた。
 しまった──。
 汗と震えで滑り落ちた弾丸が、床を転がっていってしまった。慌てて右手で床を撫でたが、どこにもその感触はない。
 時間はなかった。探すよりも早く、一つでも弾丸を入れてポケットにデリンジャーを戻さなければならない。もう一つの弾丸の先をデリンジャーにあてがいながら、くぼみを撫でて探した。弾丸を押し込み、一つだけ入れることに成功した。
 まだ花井が帰ってくる気配はない。もう一度ポケットから弾丸をつまみ出し、同じようにして入れた。今度は少し慣れてきたのか、手こずらずに入れることが出来た。
 急いで左のポケットにデリンジャーを戻し、梨沙は力つきたようにその場にしゃがみ込んだ。
 花井が置いていったペットボトルを掴み、水を流し込んだ。少しぬるくはなっていたが、久しぶりの水はうまかった。
 ようやく一息ついて、梨沙はプールの様子を把握しようと周囲を見渡した。梨沙が繋がれている水道付近の奥に、ボールやボードの入った柵がいくつか置いてある。天井はとても高い。一階プールと言っていたけれど、ここだけは二階に吹き抜けになっているようだった。窓から微かに入る光が二階にある狭い通路を浮かび上がらせている。再び室内が静かになったことで、外から微かに雨の音が聞こえていることに気付く。
 梨沙は急に思いついて、右ポケットから携帯電話を取り出した。
 一階の入り口から入ってくるよりは、二階から入ってきた方がきっといい。花井に奇襲攻撃ができるかもしれない。それを相澤祐也に教えようと思った。
 しかし、電源ボタンを押して間もなく、電池が切れてしまった。再び暗くなった室内で一人、梨沙は拳を固めて泣きそうになるのを抑えた。
 こちらの携帯電話は毎日きちんと充電していたわけではない。ましてや、こんな事態に巻き込まれると思ってなどいなかった。プログラムの時間はまだ一日と少ししか経過していないが、電池がもたなくなってしまっていたらしい。
 もう何度目であるか分からない絶望が梨沙を襲う。
 相澤祐也だって一応、あのプログラムで生き残った人間だ。他のクラスメイトたちのようにあっさりとやられてしまうとは思えない。だが──花井と接するうちに不安がどんどん膨らんでいくのだ。無駄のない動きに、冷酷なまでに徹底したやり方。あの男と対峙した時に、相澤祐也が無傷でいられるはずがない。
 もう一つ、重大なことに気がついた。相澤祐也は武器を持っているのだろうか──もしナイフ程度しか持っていなければ、間違いなく殺されてしまう。
 ……あたしが花井を殺してしまおうか。花井が戻ってきた時に、いきなり撃つ。
 想像したが、すぐに頭の中で打消した。どう頑張っても扉までは距離がありすぎる。こちらが殺される方が早いだろう。
 じゃあ、ただ黙って見てるしかないの。
 それもできない。梨沙は必死に疲れた頭をフル回転させて考えた。花井に隙が生じる瞬間、それでいて、誰一人傷付けられる前でなければならない。
 その機会が訪れるかどうかは分からない。ただ、きっと、誰かがここへやってきた時に花井の関心はそちらに向けられるはずだ。弱り切った梨沙を一番に警戒するはずはない。それでいて、人質の側は離れないはずだ。花井が背を向けて侵入者と対峙した瞬間──。
 手ににじむ汗をスカートに撫で付け、梨沙はデリンジャーを掴み出した。
 ──その瞬間、これで撃つんだ。



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