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for my friend

 波がさらうように周りの音がすうっと遠ざかり、その次には足元から奈落の底に突き落とされるような感覚を得た。
 明菜は呆然と空を仰いでいたが、急に脚に力が入らなくなってその場に膝をついてしまった。隣にいた純が明菜の肩を揺すり、何か言っていたが、明菜は目をうつろに開いたままでいた。
 ……梨沙の姉が、プログラムで死んでいた。
「まさか」
 吐き出すように言った。
 混乱に追い討ちをかけるように、梨沙と交わした言葉の数々が脳裏に蘇ってくる。
 
「梨沙って兄弟いたっけ?」
 なにげなくたずねたことがあった。誰かが兄弟の話をしているのを聞いて思いついただけだったかもしれない。梨沙は少しだけ考えるような仕草をして、言った。
「……ひとりっこだよ」
「いいなあ。うち弟いるんだよね。うるさいし、最悪。ひとりっこいいなあ」
「そうかな。にぎやかでいいな。うらやましいよ」
 心からそう思っているような、それでいて悲しげな表情だった。
 
 時折見せる梨沙の悲しげな表情の正体を知りたくて、明菜は探りを入れた。
「ねえ梨沙、悩みとかあったら言ってよね。聞くからさ」
「悩みかあー。あたし、悩みとかないな。そんなに繊細じゃないし」
 珍しく真面目に聞いたのに、梨沙はふざけた調子で笑って返してきた。安心したのと同時に、少し寂しくもあったが、明菜も同じ調子で返した。
「それは言えてるかも」
「ちょっと! こういう時普通”そんなことないよー”とか言うもんでしょ!」
 腕を叩いてくる梨沙と押し合いながら廊下を走って先生に注意された。あの時も二人はずっと笑っていた。でもその時もやもやした気持ちを抱えていたのは、明菜だけではなかったということなのか──。
 
 年度始めに数学の授業が潰れて自習になったことがあった。見回りにきた別の先生が職員室に戻った時を狙って、佐藤彩(11番)たちがテレビをつけた。普段は教室のテレビを付けてはいけない決まりになっていたが、こういう時は特別だった。今までも先生がいない隙にテレビの電源がオンにされたことは何度もあった。
 午前中だったため、あまりみんなが好きそうな番組はやっていなかった。それでもこっそりテレビを付けているという興奮からか、教室中は沸いていた。
 チャンネルを変えていた彩の手が止まった。帽子をかぶった男性と熊の着ぐるみが紙で工作をしている、子供向けの番組が画面に現れた。教室中から「懐かしい!」という声と笑い声が上がった。
 ふいに画面が切り替わり、全く違うものが映し出された。こんな時に”臨時ニュース”らしい。
『今年度第……プログラムが本日……了……者は……』
 ざわつく声でよく聞き取れなかったが、ジープの後部座席に座っている女の子が画面に大きく映った。濁った目に赤黒い服に気をとられ、ニュースの言葉は頭に入ってこなかったが、プログラム終了の映像なのだということは分かった。
 あまり気持ちのいいものではない。明菜は斜め後ろに座っているはずの梨沙を振り返った。梨沙はじっと、青ざめて俯いている。
「やだね、こんなのさ」
 梨沙は反応しない。
「ちょっと、あんた、大丈夫?」
 梨沙の肩を掴もうとした時、教室の後ろから「先生きた!」という声が聞こえた。その声で彩たちは慌ててテレビを消し、自分の席にすっ飛んでいった。明菜も前を向いた。それでも気になって振り向いた時、梨沙はまだそのままでいた。
 
 疑う気持ちはすっかりなくなっていた。梨沙との関係が”ちょっと言葉を交わすクラスメイト”程度だったら、演技かもしれないと更に疑ってかかったかもしれない。だが、梨沙がそんなに器用でないことは良く知っていた。
 梨沙は演技がめちゃくちゃ下手だった。国語の教科書の台詞を読まされた時は最悪だった。ぎこちない棒読みで教師に苦笑されていた梨沙が、そんなことができるわけがない。
 散らばっていたパズルのピースがぴったりと合わさり、明菜の頭の中で一つの絵を完成させた。
 梨沙が時折見せる寂しそうな顔、プログラムに対する激しい嫌悪。
『何も知らないくせに……あなたになんか……あたしの気持ちなんて……』
 明菜は歯を食いしばって両手で膝を掴んだ。
『あなたに分かる? 家族が殺された苦しみ。分からないでしょうね』
 梨沙の言葉が弾け、鋭利なガラスの破片となって飛び散る。破片は容赦なく明菜の全身を突き刺していく。
 ……痛い。痛い。痛いよ。
 梨沙の言葉には、クラスメイト──特に明菜に対する怒りが込められているように思えてならなかった。──何も知らないくせに、あたしのキャラを勝手に決めつけて。誰一人としてあたしの苦しみに気付いてくれなかったよね──そんな風に。
 
「そんな、あたし、全然知らなくて……明菜ちゃん気付いてた?」
 ようやく純の声が耳に届いてきた。今の明菜にとってはとても痛い言葉だったけれど。
「知らなかった」
 力一杯首を振りながら、今度は無神経で鈍感だった自分に怒りが込み上げてくる。
「知らなくて、梨沙のこといっぱい傷つけること言ったし、思いっきり疑った」
 暗闇の中に自分の震える声が響いていく。
 ……あんた、演技へたなくせに頑張ってたんだ。ずっと明るく振る舞ってたんだ。ごめん。梨沙。気付いてあげられなくてごめん。
「どうしたら許してもらえる? どうしたら……」
「助けに行こう」
 興奮して震えている明菜の背中を抱き寄せ、純がはっきりと言った。
 もう何度も同じことを言われ続けていて、ついさっきまで苛立っていた言葉で、明菜はようやく気をしっかり持つことができるようになった。
 梨沙。梨沙。梨沙。
 これほどまでに友達を愛しく、大切に思ったことはなかった。思い出す梨沙の笑顔が好きだ。すぐ隣にいる純の温かい体温がたまらなく嬉しい。全身に力が注がれてくる。
 梨沙。ごめん。あんたの傷に比べたら、あたしのこんなのは──。
 純に見られないようにリストバンドをずらし、絆創膏を剥ぎ取った。蒸れた傷口が空気にさらされ、ひやりとした。妙にすがすがしい気持ちになる。
 梨沙の苦しみの言葉が明菜の胸を刺し、中にたまっていた膿を吐き出させた。これからはより苦しい現実に向かっていかなくてはならない。無気力の中で自分と友人たちの命の炎を消してしまうわけにはいかない。
 自分を傷付けて甘えていたあたしは、もういない。
 脱皮に成功したとはいえ、怖かった。冷たくなった指先を丸め、温かな純の手を握った。
 ──あたしにはまだ、純ちゃんがいる。梨沙がいる。だから逃げるわけにはいかない。
「大丈夫」
 純が肩を寄せてきた。
 無責任に思われたその言葉が、今はとてもありがたい。本当に大丈夫だという気がしてくる。明菜は何度も頷いて、ようやく一歩を踏み出した。今度は純よりも先に歩き出すことができた。



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