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call

 井上明菜(1番)堀川純(29番)が梨沙たちの後を追いはじめてから数分後、午後六時の放送が入った。

『こんばんは。プログラム二日目、えーっと、五回目の放送だよ。みんなー……って、もう少ないんだったな。うん。とりあえず、死んだ人の名前を順番に呼んでいくからね』
 
 最悪な時間がまたやってきた。じわじわと死が近付いてきている現実を突き付けられる放送だ。
 音がだいぶ近い。明菜は顔を上げてスピーカーを探した。すぐ目の前にある、灯台の形に似せて作られている派出所の上に、二つのスピーカーを発見した。
 何よりも気になったのは、「もう少ないんだったな」と言ったヨネの言葉だった。あれから何度も銃声や叫び声、爆発音なんかを聞いている。何人も死んでいるだろうということは予想していたが──。
 
『十五番、関口薫、四番、落合真央、二十三番、西村みずき──』
 
 メモしていた明菜の手が止まった。
 二十三番、西村みずき。西村みずき。西村──。
 頭の中で繰り返される名前と、みずきの面影が明菜の動きを止めてしまった。しかし、続く言葉は涙を流す余裕など与えてはくれなかった。
 
『十四番、砂川ゆかり、十七番、館山泉、二十四番、蓮見優子、五番、河野幸子、十六番、高見瑛莉、特別参加者、佐倉真由美……まだまだいくよ! 二十五番、長谷川紗代、三十四番、望月操、三十八番、横田麻里、三十七番、山科亜矢子、二十番、中村香奈。以上!』
 
 スピーカー越しに聞こえるヨネの息が荒くなっていた。二人はただ、人数に圧倒されながら機械的に名簿に線を引く作業に集中するほかなかった。
 
『禁止エリアは一時間後の七時からD=3、九時からC=7、十一時からF=3。ちゃんとメモしたな? それじゃあまた六時間後に! 残りの五人、頑張ってなあ!』
 
 ヨネのテンションの高い声とは反対に、二人の間には言葉すら生まれなかった。地図を見てみて、D=3がつい先ほどまで自分たちがいた場所だったということには気付いたけれど、それ以上何も深く感じることはない。シャーペンの芯を指先に押しあてて戻しながら、明菜は淡々とメモを鞄の中に仕舞った。
「すごい人数」
 不意に隣から聞こえた声に、明菜は顔を動かした。
「信じられないよね。みんな、昨日の今までは生きてたのに」
 睫毛を伏せた純がゆっくりと唇を動かした。コンクリートの鈍色を映す瞳に、いつもの輝きはみられない。純そっくりに作られた人形が、腹話術で喋らされているような奇妙な印象を受ける。
「でも、梨沙ちゃん生きてたね」
 見つめる明菜の顔を見上げ、純が無理矢理に笑った。微かに目の中に光が戻ってきている。
 純に言われてはじめて、梨沙が生きているということに気付いた。梨沙と同じくらい仲が良かった西村みずきの死や、死者の人数に圧倒されていた脳みそが、放送前までの記憶を蘇らせてきた。
 死者の人数にはぞっとした。しかし、途中からそんなことすらどうでもよくなってしまった自分がいたことに気付いていた。これが”麻痺する”ということなのかもしれない。明菜はずっと、心の底で思っていたことを声に出した。
「ねえ、あたしたちあそこにいて正解だったと思う?」
 純の顔からゆっくりと笑みが引いていく。濁して聞いた明菜とは違い、答えを求められた純は足元を見つめたまま考えを反芻しているようだった。
 答えを待つ間、明菜は「やっぱり聞かなければよかったかもしれない」と少しだけ後悔した。明菜は自分の心の底の冷たい部分に同意してほしいと無意識に思っていたのだけれど、まさか純が同じように思っているはずもない。
「うん、ある意味」
 ちょっと間を置いて、純が呟いた。
「でも、もし……例えば、お昼過ぎに呼び掛けてた子たちのところに行けたら、助けられたかなって。そこだけは後悔してる」
 ほんの少し苦笑いを浮かべる顔に、嘘はなかった。助けられなかった自分を不甲斐なく思い、死んでいったクラスメイトを心から悼む表情。
「明菜ちゃん?」
 何も答えずに見つめ返す明菜の顔は、恐らく無表情だったのだろう。純が反応を求めてきた。
 純の素晴らしい心構えの前ではどうしても卑屈になってしまう。そして、苛立ってしまう。ほとんど迷う間もなく、明菜は本音を口にした。
「あたし、酷いやつなんだろうな。正直に言ってほっとしてる。ここにいてよかったって。みんなみたいに死ななくて良かったって」
「……ううん、酷くなんてない。分かるよ」
 返ってきた言葉に驚き、明菜は顔を上げた。そしてすぐ、純が手を重ねてきたことに気付いた。慈愛に満ちた表情を向けられてはいたが、明菜はつい、その手を振り払ってしまっていた。
「無理に理解してくれなくっていいよ!」
「そういうんじゃ……」
 純の瞳が、驚きと戸惑いで揺れた。しまったと思ったけれど、もうフォローするタイミングを逃してしまっていた。
 目の前の派出所の白はすっかり夕闇を映して青くなり、冷たい風が二人のそばを通り抜けていく。二人だけでなく、島全体が重く口を閉ざしてしまったかのように静かだ。
 半袖から伸びる腕が冷え、鳥肌が立っている。明菜は敢えてセーターを着ることはせず、両手で腕を擦って膝を抱えた。空を埋めていく灰色の雲が、更に明菜を憂鬱にさせた。
 プログラムでの緊張と、ろくに栄養と睡眠をとっていないことからくる疲労、加えていつもの薬を飲んでいないことで、明菜の精神はゆっくりと崩れていこうとしていた。
 
 最後に見た梨沙の背中を思い出した。
 ……梨沙が生きている。
 ……この死者の群れの中、どうやって生き延びたのだろう。
 想像の中、転校生の背中に掴まる梨沙の顔が、ふと、笑みを浮かべたような気がした。
 梨沙に対する友愛が急に冷え、懐疑心に姿を変えていく。
 もしかしたら梨沙は、あの転校生と組んでいるのかもしれない。どんなに強い意志を持っていたって、こんな状況では自分の命を優先するだろう。あたしだって、みんなを信じているつもりでいたけれど、誰かを助けに行くなんて怖くてできなかった。ああ、そうだ──弟があの時突然変わってしまったのも、自分が突然こんな風になってしまったのも──まぎれもない事実だ。人間の一時的な感情なんてあてにならない。
 強くリストバンドを握りしめ、明菜は深く膝に顔を埋めた。
 今までに何人死んでいる? 梨沙があたしみたいにずっと隠れていた確率は低いだろう。誰一人殺さずに生き残っているなんて──疑わしい。もしかしたらみずきを殺したのだって──。
 
「あれ?」
 純の声がするのと、明菜が思考を中断するのはほぼ同時だった。静かな空間に起こった異変に、二人が気付かないわけはなかった。
 先ほど放送が終わったはずが、派出所のスピーカーから微かな音が漏れている。担当教官の単なる操作ミスなのか、それとも──。

『あ──』

 思わず二人は顔を見合わせていた。マイクを指先で叩いているらしく、濁った音が島中に響く。そしてその声は男のものだと分かったけれど、担当教官の声とは違っていた。

『花井だ。C=6、宿泊所の一階室内プールに来い』

 花井!
 二人とも一瞬あっけにとられてしまって、内容にまで考えが及ばない。エリアの名前に反応して純が地図を出しかかったが、聞き取れなかったようだった。

『ハナシマリサがここにいる。残りの三人もここまで来い』

「……梨沙?」
 呟いた明菜の横で、純が立ち上がった。明菜の腕を引っ張り、同じように立たせようとする。
「よかった、やっぱり梨沙ちゃんいるんだ。行かなきゃ」
 純の弾んでいる声が頭の中を通り抜けていく。何が嬉しいんだろう。本当に梨沙があの男の味方になっているかもしれないのに。
 混沌とした頭の中で妄想が膨らんでいく。花井の隣に立ち、こちらに銃を向けている梨沙。梨沙の小さな指が引き金をゆっくりと圧迫していく──。
「いや!」
 声を上げて、明菜は純を睨み付けた。
「純ちゃん、確認するけど、梨沙が転校生の味方になってたら、どうするの?」
 重たい口調で喋る明菜を前に、純は明らかに狼狽している。口を何度か開閉し、戸惑いを隠せない様子だ。
「え、何、どういう──」
「あのやばそうな人と一緒にいてさ、梨沙が無事なわけないじゃん。仲間になったって可能性は高いよ。ううん。それに、こんなに死んでるんだもん。梨沙だって誰かを殺し──」
「や、やめてよ。梨沙ちゃんを疑ってるの?」
 両肩を掴み、純が揺すってきた。だんだんと早く捲し立てていく明菜の口調に怯えているのか、肩を掴む力は強くなっていった。
「疑っちゃだめだよ。ねえ、そんなこと考えたらさ、負けだよ。あのヨネって人の考え通りになっちゃう」
 揺さぶられながら、明菜は頭の後ろのあたりが段々と冷えていくのを感じていた。冷えて落ち着きを取り戻してくるにつれ、今度は別の恐怖に襲われた。
「待って……梨沙を疑った自分も怖いけど、もしも──梨沙があたしに銃を向けるかと思うと──それが本当に怖い……」
 二人の間にまた、沈黙が落ちた。静かになっていたはずのスピーカーの奥で、またゴトゴトと音がしている。少しばかりそれに気を取られていた純が、再び諭すように喋りはじめた。
「あたしだって、怖いよ。でもさ、梨沙ちゃんは他の子のこと助けようとしたんだよ?」
「それだけのことで信じろっていうの?」
 純が打ちのめされたような表情になった。どう答えるだろうか。今度は「そうだね」と折れるだろうか。
 しかし、明菜が期待するような言葉は返ってこなかった。
「何もなくても、信じるのが友達じゃないの?」
 悲しみに満ちた声が明菜の鼓膜を震わせた。それ以上に、明菜の気持ちを大きく、複雑に揺さぶった。
 あたしは何てだめなやつなんだろう。そう、友達だから信じるんだよね。いや、でも──あたしはそんな出来た人間じゃない。純ちゃんは何を考えているんだろう。綺麗な言葉の中に嘘は見えない。どうしてだろう。
 様々な感情が巻き起こってくる。純の言葉に感心している自分と、綺麗ごとばかりの純に苛立つ自分がいる。
「本気で言ってるの? 自分の意見を言ってよ!」
 震える喉に力を入れ、純の目から視線を逸らした。まっすぐこちらの目を見てくる純を前にして、自分が恥ずかしかった。
「あたしには信じられないよ。純ちゃんみたいないい子はそんな風に言えちゃうのかもしれないけど──」

『……やめて!』

 大きく響き渡った梨沙の声を耳にして、明菜は言葉を切った。まるで自分が責められているような感覚に陥ったが、すぐにその言葉が花井に向けられているのだと気付いた。
 スピーカーの向こうで何が起こっているのかは分からない。しかし、何か争いが起こっているのだということは、容易に想像できた。
 マイクがぶつかる音と悲鳴が明菜の不安を煽った。



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