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back of honeyed words

 背筋がぞくりとして、その微かな震えが全身に伝わった。
 花井の体温はもはや心地よいとは感じられず、ただ、嫌悪の対象でしかなかった。生暖かい息が耳元で感じられ、梨沙は恐怖で目を固く閉じた。花井の手がスカートの辺りに降りた。
 叫び声を上げたいのだが、蚊の鳴くような掠れた声しか出ない。真っ白になった頭に、いつかの教室での雑談が思い出された。
 
 朝、電車で痴漢に遭ったと話すクラスメイトがいた。その日によって人は変わっていたが、彼女たちはみんなそろって声も出せなかったという。
 それに対し梨沙は、「あたしだったらね、バカ、サイテー、ヘンタイって叫んで蹴っ飛ばしてやるけどね」などと得意げに言ったことがある。そのたびに「あんたなんか誰も襲わないってば」と井上明菜に突っ込まれて、頬を膨らませて抗議したものだ。
 あの頃──更に言えばついさっき、花井に触れられるまで──は痴漢でさえ、一つのステータスのようなものだった。そんな目に遭うこと自体は全く喜ばしいことではないのだけれど、同じように電車通学している自分に全くそれがないというのも少し複雑だった。特に、子供っぽいとか女らしくないと言われていたので、それが余計に梨沙のコンプレックスを刺激していた。
 
 では今、痴漢どころではない状況に置かれてみて、満足したかといえばそうでもなかった。
 今になってようやく彼女たちの”声も出せなかった”気持ちが理解できる。あの時の自分の調子のいい笑い声がむなしく頭の中を通り過ぎていく。
 両手が拘束されているために抵抗もできない。恥ずかしさと恐怖が梨沙の喉を詰まらせた。
 身を守るための本能的なものなのか、梨沙は体を丸く縮めようとした。突然力を入れたせいで、腹部にあった花井の手が滑り、胸元まで上がってきた。
 体をびくっと震わせるのと同時に、梨沙は髪を振り乱して叫んでいた。
「やだやだやだ!」
 やっと大きな声が出た。
 花井の手の位置は気に食わなかったが、それを追い出すためにも更に全身に力を込めた。
 ふと、花井の手が抜けた。空気の流れで花井が体を離したことが分かった。
 そこでようやく、梨沙は震える体に力を入れて再び机の下まで這いずっていくことができた。
 指先が白くなるほど強く机の脚を掴み、花井を見上げた。膝立ちでこちらを見つめたまま、花井は何も喋らない。また襲われるのではないかという妄想が精神を蝕んでいく。
 梨沙の腕から震えが伝わった手錠と机の脚が擦れ、カチャカチャと音がしている。それを暫く眺めた後、花井が微かに動いた。それに反応し、梨沙の体がびくりと動き、また机の脚と手錠が擦れる金属音が大きく響いた。
「……嫌なら自分で出せ」
 素早い動きでポケットを探り、花井が梨沙の手首を掴んだ。また身を硬くしかけ、花井がポケットから出したものが手錠の鍵だと気付き、少し拍子抜けした。
 小さな音がして手錠が外れた。すぐに花井が銃を抜き、梨沙に向けて構えた。
「早くしろ」
 銃口と花井の顔を交互に眺めながら、梨沙は花井の意図するところを考えた。考えようとするのだが、うまく言葉が繋がらない。
「さっきの音の正体を出せ。それ以外は出すな」
 動かない梨沙に痺れをきらし、花井がゆっくりと言った。
 ……ケイタイ。
 ポケットに手を伸ばしかけ、それを見られるわけにはいかないと思ったが、もう遅かった。ここは素直に出すほかはない。他に音の正体と嘘をつけるようなものは持っていないのだから。
 まだ手が微かに震えている。おぼつかない手付きでポケットを探った。今になってようやく花井の行動の意味が理解できた。携帯電話の音は聞かれていて、その音の正体を探るために花井はあのような行動に出たのだ。
 混乱する頭を無理矢理整理しようとして、指先に当たる冷たい感触に気付いた。梨沙は背筋を伸ばし、感触の正体について考えを巡らせた。
「早くしろ」
 花井が急かした。そのため、考えるのは後回しになった。これ以上遅くなればまた何かされかねない。梨沙は素直に携帯電話を掴み、ポケットから取り出した。
 携帯電話を乱暴に奪い、花井はまた梨沙の手首を手錠で拘束した。それは恐ろしいほど素早く、手慣れている様子だった。
 再び携帯電話に注意を戻し、花井がボタンの上で指を滑らせた。
 花井はどういう反応をするだろう。それよりも──相澤祐也はなんと送ってきたのだろう。
 辛抱強く黙ったまま、梨沙は花井の顔を見つめ続けた。
 しばらく画面とにらめっこをして、ようやく花井が梨沙の方に視線を戻した。
「”メルトモ”か?」
 わざとらしい言い方だった。梨沙は何も答えられなかった。
 しばらく見つめあった後、花井が親指に力を込め、ボタンを押しているのに気付いた。
 電源!
「まっ……」
 梨沙の言葉を待たず、花井は携帯電話の電源を切ってしまった。梨沙の側に来てしゃがむと、ちょうど花井の方に向いていたポケットに携帯電話を押し込んだ。
「……なんて?」
 聞かないわけにはいかなかった。というよりも、無意識に言葉が出てしまったのだ。
「助けにくるとかなんとか」
 花井が随分、あっさりと答えた。何の疑いも持たず、梨沙は頬を緩ませた。しゃがんだ姿勢のまま、花井が梨沙の顔を覗き込んだ。
「お前が思っているほど、政府は甘くないよ」
 メールの言葉を間に受け、喜びを顔に出した梨沙に対する皮肉だった。
「……でも、あの人は嘘はつかない」
 そう答えるので精一杯だった。梨沙の本音であり、今自分を支えている最後の砦だ。
 梨沙の言葉に、花井が一瞬だけ言葉を詰まらせた──ように見えた。
「そう思うならそう思っていればいい」
 喋りながら、花井が立ち上がった。嫌味というよりは、相澤祐也を信じ切っている梨沙に呆れているようでもあった。
 梨沙を拘束している机から離れ、またドアに向かって歩を進めていく。その背中を追い掛けるように梨沙は声を上げた。
「香奈ちゃんはどうなったの?」
「カナ……?」
 二度目の質問だった。花井はゆっくり振り返り、おうむ返しに香奈の名を呼んだ。自分から訊ねておきながら、香奈の名を口にする花井にはどうしても違和感をおぼえてしまう。
「あたしと一緒にいた子!」
 花井は香奈の名を知るはずもないだろう。梨沙は根気よく訊ねた。
 ちょっと間を置いて、花井はそのまま部屋から出ていった。その態度に苛立ちながらも、もしかしたら香奈も別の部屋に監禁されているのかもしれないという希望が浮かび、梨沙は祈るような気持ちで花井が消えたドアを見つめた。
 花井はすぐに戻ってきた。しかし、手には紙切れ一枚しか持っていない。その紙を梨沙の足元に乱暴に投げた。
 背中を曲げ、紙を覗き込んだ。それはよく見覚えがあるものだった。
 太いマジックの線が並ぶその下に、自分のクラスメイトたちの名前が並んでいる。梨沙は思わず自分の目を疑った。昼まで二十人弱残っていたはずが、もう片手にさえ足りないほどに減ってしまっている。つまり──もう六時の放送が終わってしまったということになる。
 自分と花井以外の、名前に線が入っていない三人に注意を向けた。
 井上明菜、堀川純──この二人はきっと信用できる。明菜はまだ一度も会っていないけれど、誰かを殺したりなんかできるわけがない。純ちゃんについても同じだ。ただ、香奈ちゃんが言っていた筒井雪乃は危ないかもしれないけれど──。
 考えを巡らせながら、その生存者の中に香奈がいないことにようやく気が付いた。黒いインクで名前が塗られている。それは分かるのだけれど、香奈が死んだということが信じられなかった。
 考えられる原因は一つ、目の前にいる花井崇だけだった。やっとおさまったはずの震えがまた指先にやってきた。頭がくらくらする。
「殺した……香奈ちゃんを……なんで……」
「そういうルールだろう。首を一度にかっ切った。長くは苦しまなかったはずだ」
 香奈の、微かに笑みをたたえた顔の下、首に一本の赤い筋が引かれる。どんどん強張っていく頬と、流れて制服を汚していく血。梨沙に向かって伸ばされる手──。恐ろしい想像だった。
 吐き気と目眩に襲われながら、梨沙は涙声で呟いた。
「じゃあ……じゃあ、何であたしが生きてるの……」
「その子の遺言だよ。お前だけは殺すなって言うから」
 遺言──。
 香奈ちゃんが、なんて? あたしだけは殺すな、って? そんな──。
 力なく首を振りながら、梨沙は俯いた。まぶたがじわじわと熱くなる。休む間もなく零れる涙が落ち、絨毯にしみこんでいった。
 涙の膜で歪んだ視界に、花井のスニーカーの爪先が見えた。小さく一歩進み、梨沙の前にしゃがんだ。
「……ハナシマ」
 花井が突然、言った。驚きのあまり、梨沙は顔を上げていた。花井の表情を見るためにまばたきし、なお溢れてくる涙を絞った。
「俺はハナシマの味方でいてやる」
 花井の目が優しげに細められた。梨沙はただ呆然とそれを見つめたままだったが、心には微かな変化が起こっていた。本当は「ハナ”ジ”マ」であるということもどうでもいい。悲しみに暮れている心には、優しい言葉ならなんでもよかった。香奈を殺した男の言葉であるというのに、寄り掛かってしまいたいと思うほどだった。
 この人が、あたしの味方……。
「それって……」
「だから」
 言いかけたところで花井が遮り、また梨沙との距離を縮めた。次いで腕を浮かせた。梨沙は体を縮こまらせたが、向かって来ると思われた腕は頭の上を通り、机上に伸ばされていた。
 見上げた梨沙の鼻先を掠めたのは、机の上にあったはずのマイクだった。花井はそのままマイクを引き寄せ、次に梨沙の口元にそれを近付けた。
 また理解できずにぼんやりとしている梨沙に向け、花井が笑んだ。だがそれは、先ほどの優しげなものとは正反対の表情だった。
「他の生徒が来るまでは殺しやしない。それまで俺たちは仲間だ。分かるか、ハナシマ」
 その言葉を数回反芻し、梨沙ははっとして息を止めた。
「さあ、お前の仕事だ」
 花井の長い人さし指が、マイクの電源ボタンを押した。



【残り4人+1人】

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