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awaking

 網膜にとらえる風景は次々変わっていくのだが、梨沙の意識は朦朧としていた。
 絶えず腹部に感じる痛みは揺れるたびに一層膨れ上がり、額に脂汗が浮かぶ。すぐ目の前に黒い背中があった。そこに触れる頬から温かな体温が伝わってくる。揺れに振り落とされないように、梨沙は無意識にしっかりと抱きついていた。
 
 ──梨沙、しっかり掴まってるんだよ。道がでこぼこだから。

 小さな囁き声が聞こえたような気がした。
 
 まだ小学校低学年だった姉と、幼稚園生だった梨沙。ようやく補助輪が外れたばかりで、嬉しかったのだろう。姉はよく梨沙を自転車の後ろに乗せて遊びに出かけた。姉の背中に頬をつけて、目を閉じて全身で風を感じた。目を開くたびに変わる景色を楽しみながら、梨沙はしっかりと姉にしがみついていた。
 いつだったかある日、大きな石を踏んでバランスを崩した自転車は、二人を乗せたまま倒れてしまった。膝を擦りむいて泣き出した梨沙を乗せ、姉は家に向かって引き返した。家について驚いた母の顔を見た途端、今まで冷静だった姉がわっと泣き出した。それからは反対に梨沙が慰めなければならなかったが、擦り傷だらけでも家まで我慢した姉を、心の奥で「強いな」と思った。
 ……お姉ちゃん、泣かないで。泣かないでね。
 あの日は確か、晴れだった。それにもかかわらず、思い出す姉の泣き顔と背景はいつもモノクロだった。自転車がどんな色だったかさえ、もう思い出せない。
 揺れに合わせ、梨沙の空想の中で姉の泣き顔が上下していた。
 
 しばらくして揺れと騒音が止まった。体に感じる不快なものが僅かに減り、梨沙は少しだけほっとした。それから、胸の下がきつく何かに縛られていることに気付いたが、それもすぐに解かれた。しがみついていた腕が掴むものを失い、梨沙は上半身を前に倒そうとした。
 また、人の体温を感じた。誰か、梨沙よりずっと大きな人間に抱え上げられたようだ。体が宙に浮かぶ感覚に次いで、腹部が再び悲鳴を上げた。どうやら腹のところで二つ折りにされるように、肩に担ぎ上げられているようだった。梨沙は呻吟を洩らし、何とか楽な姿勢になれないものかともがいたが、ほとんど体がいうことをきいてくれなかった。
 
 体が揺られている間、梨沙はまたほんの少し意識を飛ばしていた。
 逃げて、という女の子の掠れた声。逃げ出そうとして──その声の正体を探さなくてはと思った。辺りは真っ暗闇で、目の前には何の光も見えない。手探りでいくしかなかった。もどかしさに耐えかねて、梨沙は叫んだ。

 ──香奈ちゃん!
 
 何度目かの覚醒だった。視界が暗い。首を動かしてみて、頬がざらりと擦れるのを感じた。梨沙は灰色の絨毯の上に寝かされていたようで、首を動かせばここがどこかの部屋であるということが理解できた。
 見覚えのある光景だった。小さな穴の開いた壁が四方から迫り、ボタンのたくさんついた長方形の机に小さな回転椅子が寄り添う。高さ二十センチばかりのマイクから垂れたコードが、梨沙の体の側を通っている。
 放送室……。
 マイクを見上げながら、梨沙は数日前の体育祭のことを思い浮かべていた。
『体育祭委員の方はグラウンドに集合して下さい。時間過ぎてるので、大至急お願いします』
 なかなか集まってこない中学一、二年の委員のために放送をかけていた井上明菜の、苛立ちで赤みを差した頬が思い浮かぶ。その横で梨沙は、少しばかりはらはらしながら、明菜の顔とボタンの群れを交互に眺めていた。
 あれからどうなったんだっけ。体育祭──そう、もう少しのところで勝てそうだったんだ。来年は絶対に優勝しようって、泣いたりしたんだっけ。今から練習したら、絶対勝てるかなって、そんな話になったんだっけ──。来年──?
 学校の回想をきっかけに、梨沙の脳裏に断片的な映像が蘇ってくる。
 今、自分達は島に閉じ込められていること。殺し合いをしなければならないこと。もう何人も死んでいること。それから──。
 もうすっかり時差のなくなった頭に、重要なことが思い浮かんだ。中村香奈と一緒にいたこと。あの転校生に殺されそうになった梨沙に、香奈が「逃げて」と叫んだこと。転校生が香奈の方に歩いていったこと。香奈はそれから──。
 転校生の不気味な黒い影を思い浮かべ、梨沙は体を震わせた。それから、ほんの僅かな間を置いて、梨沙は声を上げそうになるような悪寒に襲われることとなった。
「ああ……」
 声を押し殺し、梨沙は目を閉じた。さっき感じた体温は、あの転校生のものに違いない。抱きついた黒い背中も、大きな体に抱え上げられたのも。
 頭の中が真っ白になっていく。一緒になって、香奈の顔と転校生の顔も交互に浮かぶ。
 腕に妙な感触があった。くすぐったく感じ、梨沙は自分の腕を見た。緑色の芋虫が腕の上を這っている。
 一気に腕から全身にかけての皮膚が粟立った。芋虫を払い落とそうと思ったが、腕が何かに固定されていて動かせない。金属同士がぶつかるような音に驚き、梨沙は視線を指先の方へ移した。
 この時初めて、自分が手錠を掛けられているのに気がついた。手錠の間の鎖は机の脚に引っ掛かっている。机を持ち上げて動かさない限り、梨沙はそこから離れられそうにない。
 そちらの驚きも大きかったが、体をうねらせている芋虫の感触に耐えられず、梨沙は悲鳴を上げていた。手を動かすたびに起こる金属音、更に芋虫が我が物顔で腕の上を這いずっている。頭が混乱してきた。
 背後から、ドアが開く音がした。梨沙はぎょっとして、肘を使って無理矢理体を起こした。机の下に隠れるように移動して、ようやく上半身を持ち上げることができた。
 振り向いたドアから、花井崇が顔を覗かせていた。
 今度はこちらに恐怖しなければならなくなった(今の騒ぎで虫はとっくに床に投げ出されていたが)。花井は右手に握っていた拳銃を降ろし、「騒ぐな」と一言だけ言った。
 どう答えていいのか分からずに、梨沙は机の脚をしっかり握りしめた。とりあえず、花井は銃を降ろしている。当座のところ、いきなり殺されるようなことはないようだ。
 花井はまだ、梨沙の様子を窺っているようだった。梨沙ももちろん、花井の顔をじっと見つめたままでいた。
 香奈はどうなったのか、どうして今自分がここにいるのか、ここはどこなのか。
 聞きたいことは山ほどあったけれど、どこから聞けばいいのか、また、どうやって聞けばいいのか分からなかった。そうして戸惑っているうちに、花井は踵を返して部屋から出て行こうとした。
「あのっ」
 言いかけて、梨沙は口を噤んだ。次の言葉に詰まったからではなく、ある別のことに気がついたからだった
 ぶーん、という音が静かな部屋に響き、振動が梨沙の太ももに伝わってきた。
 ……いけない!
「あのっ、あたしっ、どうして……えっと……」
 とりあえず数秒だけでも時間を稼がなければならなかった。めちゃくちゃに喋りながら、更に手錠を机の脚に擦りつけ、不快な音を出した。携帯電話のバイブの音をごまかせたら、そう思った。
 花井が振り返ったまま、梨沙の顔をつぶさに眺めた。
 悟られるわけにはならない。
「えーっと、どうして、あたしをここに連れてきたんですか?」
 振動が止まった。
 梨沙は大きく息を吐いた。バイブの音をごまかせた上、質問もできて一石二鳥だ。
 しかしほっとしたのもつかの間、少しばかりの沈黙の後、花井が早足で歩み寄ってきた。梨沙は抵抗する間もなく肩を掴まれ、机の下に潜り込むようにしていた体を引きずり出された。すごい力だった。
 バランスを崩したが、膝を打っただけで横様に倒れることは防げた。空気の動きを感じて首を捻ると、スカートがずり上がり、太ももがあらわになっている。そして更に、それを花井に向けてしまっていることに気付いた。
 花井の視線が梨沙の腰に落ちた。その目の中に感情の変化は見えなかったが、何とも言えない気味の悪さがあった。
 慌てて腰を落としたが、それと一緒になって花井の黒い影が梨沙に覆い被さってきた。



【残り4人+1人】

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