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abduction

 微かに聞こえていた怒号が銃声を最後にぷっつりと消えた。
 いつでも逃げだせるように構えていた井上明菜(1番)堀川純(29番)の間には、緊張と安堵の混じりあったような空気が流れていた。
 戦闘が行われているということを意識する緊張感と、それが”終わった”安堵感。終わったということは、誰かしらが死亡したと考えるのが妥当だが、そのことも考えればほっとした表情を見せるのは不謹慎かもしれない。それでも今、二人は確かに心の底で緊張から解放されていた。
「……静かになった」
「うん、静かになった」
 どちらからというわけでもなく、同じように荷物を持っていた腕を下げた。あれだけ長い間(とはいえ、三十分にも満たないものだったが)続いていた銃声と人の声が今ではすっかり止み、不気味な静寂だけが残っている。
 これも、ここで二人が出会ってから二回目のことだった。
 一度目は今から二時間ばかり前、遠くから放送のような音が聞こえた。担当教官の定時放送とは違い、音は霞んでいて内容まで聞き取ることができなかった。
 女子生徒の誰かの声だということは分かった。また放送がかかるかもしれないということで、二人は聞こえそうな場所まで移動してみようと思った。しかし、直後の激しい爆発音と銃声によってその計画は打ち砕かれた。
 明菜は隣にしゃがんでいる純の横顔を見た。きっちり結われている三つ編みに、茶色い葉っぱが付いていた。長いおくれ毛がセーラーの襟にまっすぐ垂れている。まだ緊張を残している顔が、明菜の方に向けられた。
「どうしようか」
 片方の膝を立て、体を明菜に向けた。その仕草から、歩き出したいという気持ちが見えかくれしているような気がして、明菜は心中、密かに嘆息した。
「どうしようかって言っても……」
 同じことの繰り返しだった。何か音がすれば見に行こうと急き立てる純を、明菜が止める。その度に重い沈黙が訪れるのだ。
 明菜からみれば不思議で仕方がなかった。戦闘に巻き込まれた経験がある純が、何故無防備にすぐ飛び出していこうとするのか。怖くはないのだろうか。また、行った先にいる生徒がこちらを攻撃しないという保証だってない。
 反対に、純からしてみれば、明菜の反応も予想外だっただろう。いつも教室でみんなを仕切っている明菜が、こんなに保身をはかっている。クラス企画のために率先して先生に抗議しに行ったこともあった。どちらかといえば向こう見ずなキャラクターに見られがちだった明菜は、プログラムでは正反対の顔を見せている。
 二人が出会ってすぐ、純は持っていた絆創膏を重ね合わせて明菜の手首に貼ってくれた。その絆創膏を眺めていると、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいになってくる。
 隠してきた本当のことを言うべきなのか──それともやはり、いきなりそんなに親しくなかった純に話すのは迷惑なことか。明菜はそのことばかりを考えていた。
「ここに座ってても、どうにもならないと思うの」
 純は鞄から眼鏡を取り出すと、それを掛けてから立ち上がった。明菜もつい反射的に立ち上がって隣に並んだ。ちょっと首を傾け、純は明菜の手を取った。癖なのだろう。これまでにも何度か手を握られることがあった。
「いいよ、明菜ちゃん。あたしが行きたいと思うから、一人で行く」
 ……愛想をつかされてしまったのだろうか。
 また、純は手をぎゅっと握り、押した。
「ちょっと様子を見てくるだけ。また戻ってくるから」
 手が離れた。急に指先がひんやりと冷たくなったような気がして、明菜は拳を握った。
 純の気遣いには本当に脱帽してしまう。明菜の腕を手当てし、何度も心配してくれていたし(彼女が鈍いだけなのか、古い傷については触れられていない)、こちらが俯いていれば明るく振るまう。そして、明菜が気に入らない素振りを見せれば、文句一つ言わずに一人で様子を見に行こうとする。
 嬉しいという以上に、明菜は鬱々とした気持ちになっていた。こんな状況でも自分を見失わず、いつも以上に人を気遣うことができる純と、自分を比べてしまうのだ。
 歩いていく純の背中を見つめていると、突然不安に襲われた。
 ……このまま純ちゃんが戻ってこなかったらどうしよう。死んじゃうのも怖い。だけど本当に怖いのは──。
 その先を頭の中で言葉にする前に、やめた。考えてはならない。どんどん悪い方向へ向かっていく想像を止めるため、明菜は頭を振った。
 やっぱり一緒に行こう。
 長く伸びた草を踏み分け、早足で純の背中を追った。純はもう、道路に出る分かれ道の前までいっている。意外と足が早い。よっぽど向こうの様子が気になっていたのかもしれない。
 追い付いてきた明菜を振り返り、純が微かに笑みを浮かべようとした。それに重なるように突如、また大きな音がした。笑みを引っ込め、純は首を左右に動かし、更に道路の真ん中まで進み出ようとした。
 とっさに腕を引き、明菜が止めた。音がだいぶ近いように思われた。そして、どこかで聞いたことのある音だったのだ。
 右手から迫る薮になった坂道を指差し、明菜が誘導した。手を引かれるままに純がついてくる。坂をのぼって上まで行けば道路全体が見渡せるだろうと思い立ったのだ。
 一気に駆け上がり、地面に手を付いてついてきている純の手を力強く引き上げた。
「何の音?」
 純の囁きに被さるように、何かの鳴き声のような大きな音が近付いてきた。二人の眼下数メートルのところを、バイクに乗った男が走ってくる。
 ……転校生!
 学ランを着た男。見間違えるはずもない。二人は体を寄せあいながら、近付いてくる男の姿を凝視していた。
「あれっ」
 突然、純が声を上げた。身を乗り出そうとするのを押さえ、背中を見せて走り去っていくバイクに目を遣った。
 もう一人いると理解するのと、それが探し求めていた花嶋梨沙だということが分かったのは、ほとんど同時だった。小さな体に肩までの黒髪、体つきは遠くからでもはっきり梨沙だと分かる。今度は純を押し退けるようにして明菜が身を乗り出していた。
「梨沙……純ちゃん、梨沙!」
 声に出しながら、坂道を走り降りた。道路の中央に躍り出た時には既に、バイクは消えていて、不気味なうなり声だけがどこまでも続いていた。
 やっと追い付いてきた純を振り返り、明菜は興奮気味に肩を掴んだ。
「見た? 見たよね? 梨沙だったよね?」
「うん、うん、梨沙ちゃんだった!」
 目を丸く開いて、純は何度も頷いてみせた。
 ようやく会えたという喜びが込み上げてきたが、もう梨沙の姿は見えない。
「もう音があんなに遠い……」
 舌打ちをした明菜の肩を叩き、純が手を引いた。
「何か手がかりが残ってるかもしれないよ。行ってみよう?」
 力強く頷き、今度は明菜が先に走り出した。
「ねえっ、梨沙ちゃん大丈夫かな?」
 背後から純が呼び掛けた。
「大丈夫って──」
「見なかった? 梨沙ちゃんの背中にね、ヒモがついてたの。縛られてるみたいだった」
 突然足を止めた明菜に遅れ、数歩進んだところで純が立ち止まった。
「本当?」
 明菜には分からなかった。梨沙がいるということを認識しただけで、すぐに頭に血がのぼってしまったようだ。それに、純の方が目がいいようだった(今では眼鏡もかけているし)。その情報は間違いないのかもしれない。
 明菜の眼差しにやや押され気味に、純は頷いた。
「見間違いじゃなければ……そう、セーター紺だから、背中に白い線入ってるわけないし、やっぱりヒモか何かで縛られてたとしか思えない」
 頷きながら、明菜はまた嫌な方向に向かっていく自分の想像を恨んだ。
 梨沙が無事でいる保証はない。既に暴行を加えられている可能性もある。もし今は無事だとしても、これから何をされるか分かったものではない。
 ぞっとして、明菜は目をきつく閉じた。その仕草に気付いたのか、純が「大丈夫」と囁いた。
「大丈夫、ね、大丈夫だよ。あたし見えたよ。怪我してたようには見えなかった。今から探しに行こう。助けられるかもしれない」
 どこからそんな自信がきているのか分からない。怪我をしていないというのも、もしかしたら、明菜を慰めるための嘘かもしれない。それでも今はありがたかった。
 ふと目を落とした腕時計は、放送の時間が迫っていることを示していた。
 どうか、そこに梨沙の名前が載ることがないように──。
 明菜は心中、祈り続けた。



【残り4人+1人】

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