65

ashes

 少しだけ名残惜しかったが、梨沙の身体を離した。人前であんな風に泣くのは初めてで、まだ赤みの引かない泣き顔を見られるのは恥ずかしかったが、梨沙と顔を合わせた。梨沙もほんの少し、鼻の頭が赤い。香奈は鏡を見た時のように、自分の鼻に手を当て、伏し目がちに頷いた。
 二人で支えあうようにして立ち上がりながら、海岸に出るために歩き出した。ここにはもういることはできない。銃声を聞きつけた生徒が他にもいるかもしれない以上、移動しなくてはならなくなった。
「大丈夫? 耳」
 不意に思い出して聞いた。梨沙はちょっと首を傾げ、それから力なく笑んで頷いた。
「平気。ちょっとぶつかっただけだから」
 梨沙の左耳は外傷はないが真っ赤になっている。とても平気そうには見えない。金属バットが当たったのだから、本当はかなり痛いのだろう。それでも梨沙は痛みを訴えなかった。
 砂利道を引き返しながら、梨沙が思い出したように言った。
「……そういえばあの人が言ってた」
 あの人──アイザワ。
 香奈は黙ったまま頷き、続きを促した。
「生きていくことは決して美しいだけじゃないって。自分を汚して、人を傷付けて、それでも生きていかなきゃならないんだって」
「その人も、あたしたちみたいな思いしたんだね」
 一度頷き、梨沙は声をひそめた。
「そう……あの人は身をもって分かってるから」
 香奈は想像してみた。自分の好きだったクラスメイトが死に、この国に復讐を誓う男。何ともドラマチックだ。しかし、彼が優勝するためには、どうしたって他のクラスメイトが死ななくてはならない。もし万が一、彼が一人も殺さず優勝したとしても、彼の生は他のクラスメイトたちの犠牲によって成り立っている。
 美しいだけじゃない──。
 どこか、”脱出”という言葉に甘美な響きを感じていた香奈にとっては、辛辣な言葉だった。現に香奈は一人殺してしまっている。人ひとりの命を奪って、まだ自分は正義であって美しいと言い張ることはできない。
 これが命の重みなのだ。梨沙が言っていた罪を、ずっと、死ぬまで背負っていかなくてはならない。でも今は一人ではない。いつかアイザワという男の手を借りて、この国を少しでも変えることができたらいいと思う。プログラムをなくして多くの悲しみを防ぐ。それができた時はほんの少し、この罪が軽くなったと思っていいのだろうか。
 香奈はふと、もう一つ思い出した。
「そういえばさ、さっき、どうしてあたしを信じたの?」
「え……」
 梨沙が言いかけて口を閉ざした。
「山科さんの言うことが正しいとは思わなかった? 本当は展望台でやったのも──」
「それは、分かるよ」
 微かに笑みを浮かべ、梨沙が首を振った。
「香奈ちゃん、千絵ちゃんたち好きだったでしょ?」
 言われるままに頷いた。
「だから泣いたんだよね、あの時」
 もう一度頷く。
「あたし香奈ちゃんが泣いたの、どうしても嘘に見えなかったから。それに、あの、あたしを撃とうとしたってこと、ごまかそうと思えばできたのに、しなかったし……」
「それも全部演技だとは思わなかった?」
 梨沙はちょっと驚いたような顔になり、それから一気に破顔した。
「そうだとしたらあたし、最初に会った時に殺されてるはずだよ」
 丸腰で飛び出してきた梨沙と対峙した時、香奈は梨沙を殺さなかった。妙に納得してしまって香奈は頷いた。
「それにやっぱり、香奈ちゃんはそういう人じゃないと思うから」
 梨沙がにっこり笑った。それで、「もう変なこと聞かないでね」と言った。香奈は嬉しいやら、妙に疑り深い自分がみっともないやらで、少し反省した。
 民宿の屋根と反対側の森に挟まれた空が、だいぶ色濃くなってきている。その細長い空を見上げながら、香奈は今の境遇に感謝せずにはいられなかった。こんな状況の中でもいい友達を見つけることができた。そして、その友達と一緒に生きて行けるチャンスはまだある。
 さっき二人が飛び越えた白い柵が、無惨に折られているのが見えた。二人はちょっと立ち止まり、それを退けてから階段に向かって歩き出した。
 階段の方に向いているガラス戸に、大きな赤い夕日が映っている。風に揺れた草が黒く映りこみ、夕焼けを撫でた。平和な美しい景色だ。
「そういえばあの人に返事──」
 返事出したの、と言おうとして、香奈は言葉を切った。
「うん? ああ、まだ……」
 梨沙が言い終えないうちにウージーを構えていた。
 ガラス戸の異変に気付いた。黒く揺れる草の影の下、ちょうど階段の辺りに動かない人型の影がある。黒い影がゆらめいた。
 香奈がウージーを持ち上げるのとガラス戸が割れるのは同時だった。割れたガラスの音に怯んだ隙をつくように、階段から影が飛び上がってきた。確かめる間もなく、香奈は引き金を引いていた。
 金色の火花が曲線を描いて走り、ガラス戸が大きく開いた。影が二人の前に降り立った。当たっていない──と気付いた時に、ウージーが鳴くのをやめた。
 弾切れ……!
 気付いた時には、影がすぐ近くまで来ていた。香奈はその黒い影を見上げた時にやっと、自分が思い描いていたのとは全く違う人物に遭遇したのだと分かった。
 花井崇との距離がほとんどなくなり、香奈は無意識に梨沙を背中に庇った。横田麻里と戦った時とは比べ物にならない恐怖が頭を支配する。
「……来るな!」
 精一杯声を張り上げて虚勢を張った。花井は驚く様子も見せない。梨沙と一緒に静かに後ずさった。壁が近付いてくる。逃げ場はあと数センチほどしかない。
 どうしたら──かなわない──銃は──。
 右手にぶら下げているデイパックを横目でとらえた。開いた口からベレッタM84のグリップが見えている。何でもいい。あれを一瞬で抜き出すんだ。
 左手で銃を掴み、抜き出した。右手に持ち替えようとした時、花井が眼前まで距離を詰めてきた。強張った指先からベレッタが弾かれた。しかし、追って右手を伸ばし空中で再び掴むことができた。
 右手に拳銃の感触を得た瞬間、思いきり突き飛ばされた。それでも離さなかった。立ち上がろうとした香奈に向けて、花井が銃口を向けていた。身構える間もなく、銃弾に身を貫かれた。肩が一瞬熱くなり、すぐに冷たくなった。沸き上がった痛みに生への貪欲な要求が萎えかけた。
「香奈ちゃん!」
 梨沙が叫んだ。おぼつかない手付きで先ほどデリンジャーを仕舞ったポケットを探っている。花井が梨沙の方に注意を向けた。それで、再び体を起こすことができた。
 花井が気付いた時には、香奈は正面から飛びかかっていた。頭を埋めた黒い学生服からつんと錆びた匂いがする。血の匂いに刺激され、花井の動きを封じようと腕に手を這わせた。だが、力の差は歴然だった。ほどなく花井が香奈の腕を引き離し、腹を蹴り飛ばした。香奈はそのまま、割れて開いたガラス戸の奥に転がっていった。
 強烈な痛みと吐き気に、体を丸めているほかなかった。暗い民宿のフロントには誰も助けてくれる者などはいない。差し込む夕日が頬をじりじり焦がした。
「いやあ」
 弱々しい叫び声が聞こえた。梨沙のものだと気付き、膝につけていた顔を上げた。夕日を背景に、花井が梨沙の首を締め上げていた。動くたび、二人の間からもれてくる夕日が目を射した。
 助けなければならない時に、助けることができない──このもどかしさを味わうのは二度目だった。弱っていく柴田千絵を見ていることしかできず、心臓の鼓動が感じられるのに小松杏奈を見捨てなければならなかった、あの思い。
 今度こそ助けなければならない。梨沙を助けなければ。梨沙が生き残れば──。
 花井が何か、光るものを取り出した。拳銃ではない。細長い何かを、梨沙の首に運ぼうとしていた。
 ナイフ。香奈は近くにあったガラスの破片を掴み、花井に向けて投げた。
 当然届かない。そうなることは分かっていたが、少しでも梨沙に逃げるチャンスを与えたかった。ガラスが地面で割れ、破片が花井のスニーカーのあたりまで飛び散った。
 花井の注意が逸れた。手を止め、香奈の方を振り向いた。表情は分からない。香奈は花井に向けてベレッタを構えた。
 左に握っていたらしい拳銃を持ち上げ、花井が冷静に引き金を絞った。白いセーラー服の繊維が目の前に舞った。不思議とゆったりした映像に遅れて、脇腹から、鼓動に合わせてどくどくと血が溢れ出した。
 全身からどっと汗が噴き出す。それでも香奈は前を向いていた。
「逃げて!」
 からからになった喉で叫んだ。花井はすぐに、身震いした梨沙を捕まえて腹部を一発殴った。力を失った梨沙がゆっくりと地に伏していく。
 クソ。クソ。クソ男!
 思ったが、もう叫ぶことはできなかった。それを眺めることしかできない自分に、また、腹が立った。
 花井が足をこちらに向けた。近付いてくる。ガラスを踏む音で入り口に差し掛かったのだと分かる。香奈は朦朧とする頭の中、言葉を紡ぎ続けた。
 あたしには──できる。
 自信があった。
 富ちゃんの仇を、千絵の仇を、みんなの仇を討ってやる。
 政府のやつらに一矢報いてやる。
 富永愛が死に、出発する時にそう誓った。あの憎たらしい教官にも”殺してやる”と宣言したというのに──。
 花井が目の前で立ち止まった。香奈は見上げることもなく、流れていく血で滑りそうになる体を壁に預けていた。右手にはまだベレッタを握っていたが、恐らくもう使えるだけの力はないだろう。
 大きな手が伸びてきた。花井の手を払い除ける力もない。右手に持ったベレッタを奪われ、花井の手が首に掛けられた。
 この時になってようやく香奈は顔を上げた。最後に、恨みのこもった目で睨んで、本当に呪いでもかけてやれたらラッキーだと思った。そして、今人を殺そうとしている男がどんな顔をしているのか、興味があった。
「……か、なちゃん……」
 遠く聞こえる梨沙の声が涙で滲んでいた。しかし、生きている。梨沙は無事なようだ。
 香奈の視界がぼんやりしているせいもあったが、表情がいまいち読み取れない。もう一度目を細め、近付いてくる花井の顔を見つめた。
 伸びた前髪の隙間に見える瞳が、ちょうど夕日を受けて形をあらわにした。風が花井の髪を攫った一瞬だけ、香奈はようやくしっかりと顔を見ることができた。
「あのこを、殺さないで」
 途切れ途切れになる声で囁いた。最後の頼みだった。
 花井は黙ったまま、それでも僅かに目を細めた。
 ……お願い。あの子だけは逃がしてやって。
 もう一度声を発しようとした喉に、花井の指が強く食い込んだ。
 苦しみ喘ぐ香奈の前に、花井は先ほど梨沙にしたように、細長いものを突き出した。首筋に熱を感じ、香奈の視界は暗転した。



【終盤戦終了 残り4人+1人】

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