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sin

 梨沙の目が見開かれた。単純に、突然現れた亜矢子に対する驚き、恐怖によって。また麻里の死体に目を落とし、青ざめた顔で首を振った。梨沙は誤解を恐れたのだが、亜矢子はまっすぐ梨沙の方へ進み、すぐ側にしゃがんだ。
「香奈ちゃんが撃とうとしてたんだよ」
 香奈にまで聞こえるような声に、心臓が大きな音を立てて跳ねた。一緒になって梨沙もばっと顔を上げた。青ざめた顔の中、丸い目と視線がかち合った。香奈は何も言えなかった。
「そん……なわけ、ないよ」
 もう一度、香奈の心臓が脈打った。意外な言葉だった。
「ねえ、香奈ちゃん?」
 口元だけ無理に笑いの形をつくり、梨沙が問いかけた。
「あたし今見てたんだから。梨沙ちゃんの背中に、あれを」
 ウージーを指差した。
「あれを、梨沙ちゃんの背中に向けてたんだから」
「そんな……」
 二人に同時に見つめられ、香奈は何も言えなくなった。片方からは、すがるような眼差しを向けられ、もう片方からは憎悪に満ちた視線を受ける。
 ”やっていない”と言えば丸くおさまるはずだった。やったという証拠はない。梨沙はまだ香奈を信じている。しかし──。
「そう、確かに……あたしは梨沙ちゃんに銃を向けた」
 ──言うな!
 思ったけれど、どうしても言葉が止まらなかった。
「撃とうと一瞬、考えた。でも……」
 梨沙の視線から逃れるように、目を伏せた。理由を聞いてほしかった。
「あっちいって! 人殺し!」
 香奈の言葉を遮って、亜矢子が叫んだ。梨沙の肩から力が抜けるのがわかった。
 遅れて、しまった──と思った。やっぱりあたしは間が悪い。
 それでも一つ、理解できないところがあった。いくら梨沙に銃を向けているところを見られたにしても、その時には既にウージーを降ろしにかかっていたはずだ。二人が敵同士ならば、梨沙が香奈に背中を見せているのは不自然ではないか? ──そんなところにまで亜矢子の思考が及ぶかは分からないけれど。
 とにかく、亜矢子が香奈に見せる表情は尋常でなかった。ずっと恨まれていたような居心地の悪さを感じる。もちろん香奈としては、思い当たる節がない。思い返してみても、亜矢子とは話したこともあまりない。そこまで毛嫌いされる理由が分からなかった。
 亜矢子がポケットから、銀色の金属の塊を取り出した。そのやや大振りな銃に気付き、香奈は目を細めた。何となく、見覚えがある銃だった。
 呆然として座り込んでいる梨沙に更に身を寄せ、亜矢子が囁いた。これもどこかで見たことがある光景だった。小学校の時、目の前で嘘の悪口を言われた時だったか──あるいは、ついこの前勉強した聖書の中の創世記、イブを誘惑する蛇のような──。
「あたし今朝、見たんだから。展望台で良ちゃんや杏奈を殺したの、見てたんだから」
 ……まさか!
 言葉を挟む間もなく、亜矢子が続けていた。
「みんなを殺して、銃を集めて──その銃で何人殺したの」
 香奈の脳が急速に回転しだした。亜矢子の憎悪の理由、所持している拳銃のことなど、一気に理解ができた。
 亜矢子は展望台の騒ぎを聞き付けてやってきた。その時には香奈以外全員死んでいた。武器を回収する香奈の姿だけを見て、誤解した。それから、展望台に残っていた香奈の支給武器を拾った──。
 しかしそれにしたって──ひどいでっちあげだ!
 香奈は拳を震わせた。予想外の言葉に、反論する気力も失せてしまった。
 動きを止めて睨み合う香奈と亜矢子の間に挟まれ、梨沙は首を伸ばして二人の顔を交互に見た。機械的に繰り返し、やがて香奈の方を向いたままになった。
 これだけは誤解されるわけにはいかなかった。心から信じていた千絵たちを殺したとだけは、思われたくなかった。
「小松さんたちの死体を見たんだね?」
「見たよ」
 顔を上げ、亜矢子が答えた。推理モノドラマの探偵のような、堂々とした言い方。犯人の供述を心待ちにしているような、得意げな表情だった。
「じゃあ、あの子たちの手が組んであったのは見たでしょう? 殺したのがあたしだったら、そんな手間かけると思う?」
 展望台を出る時、余裕がないなりにも努力した。死体を背負ってどこかに行ける時間はなかった。全員はできなかったが、捲れ上がったスカートの裾を整え、手を胸の上で組ませたのだ。これがこんな時に助けとなるとは思わなかったけれど。
 亜矢子の目線が宙を泳いだ。そこまで確認できなかったか、予想外の反撃に焦燥しているのか──。
「確かに、みんな、あたしの不注意で死んだ。死ぬほど後悔したよ。みんなが死んで、どうしていいか分からないってのに、人を……勝手に人殺しになんかするな」
「嘘だよ、騙されないで」
 梨沙の肩を掴み、根気よく亜矢子が説得する。その光景を眺めながら、香奈はぽかんと口を開けた。精一杯の主張すら、嘘だと言われてしまった。それもこれも、全部、イメージなのだろうか。そんなにあたしは、人を殺しそうな顔に見えるのだろうか。
「……ふざけんな!」
 声を振り絞って叫んだ。震えた叫び声が響き渡り、亜矢子と梨沙が息を飲んでこちらを見ている。二人が驚くのも無理はなかった。
 いつもつんとしている香奈が、背を丸めて泣いている。それだけでも宇宙人のように珍しいのだろう。香奈は静かに息を吐き、両手を膝についた。
 沸き上がった怒りが休息に冷え、悲しみに変わっていった。友人達の死の悲しみから抜けだせずにいるというのに、今度は自分が疑われてしまった。たまらなく悔しく、悲しかった。
 がちっ、と音がした。嫌な音だった。香奈は上半身を戻し、前方を見た。
 目の前の光景が、一枚の絵のように見えた。それでいて複雑で、どのようになっているのか瞬時に理解できなかった。
 亜矢子が銀色の銃を香奈に向けている。引き金に掛かっている指は今にも曲がろうとしている。そのすぐ隣で、ポケットから小振りな銃を抜き出している梨沙──。漫画のコマの寄せ集めのような映像の断片が、香奈の頭をよぎった。展望台。香奈が置いてきた銃。その銃は──!
「梨沙ちゃん! 待っ……」
 空気が抜けるような音がするのと同時に、香奈の胸に鈍い痛みが膨れ上がった。そこを押さえようとして、今度は、ぱんぱん、と大きな音が響いた。再び顔を上げた香奈は、自分の足元がぐらつくのを感じた。
 梨沙がしりもちをついていた。両手にしっかりと握られたデリンジャーの銃口から白い煙が上り、そのすぐ隣で亜矢子が倒れている。こめかみから流れ出す亜矢子の血が、浴槽に不気味な模様を描いている。
 目の前の状況に目眩がした。香奈は緊張からの解放により、水浸しになった板の上に膝をついた。
「……香奈ちゃん!」
 梨沙が少しよろけながらも立ち上がり、胸を押さえたまま呆然としている香奈の側に駆け寄ってきた。
「怪我は!」
 強く握りしめてきた両手に汗が滲んでいる。香奈はぼんやりしたまま、左右に首を振った。
 香奈の手を胸から引き剥がし、梨沙は目を見開いた。
「撃たれて、なかったの?」
 もう一度胸を擦りながら、香奈は足元を見た。すぐ側にオレンジ色のBB弾が一つ、転がっていた。
「あれはあたしが最初に支給されてた武器で、実銃じゃない」
 喋っている香奈をよそに、梨沙がやや大袈裟に座り込んだ。目はぼんやりと地面を見つめている。また、顔色が悪い。
「あ、あたし、香奈ちゃんが殺されるって思って……」
 すぐ眼前にある小さな肩が震えていた。香奈は思わず、その背中に両手をまわした。助けようとしてくれたのだ。さっき、香奈がしたように。
 ぎゅっと抱き締める腕に力を込めた。嬉しかった。梨沙は信じてくれていた。しかし、亜矢子の銃がエアガンだと知らなかった梨沙は、彼女を撃ってしまった。震える身体が、その後悔と恐怖を物語っている。
「山科さんは、あたしを殺すつもりだった。だから、梨沙ちゃんがしたことは正当防衛だよ」
 梨沙が弱々しく首を振った。どうすればいいのか分からなかった。ただ、香奈は梨沙を抱き締めることしかできなかった。
 自分があの時、あんなバカなことをしなければ──亜矢子を煽るようなことをしなければ──エアガンだということを口にしていれば。
 正当防衛ならばと割り切っている香奈とは反対に、凶器を向けられてもなおクラスメイトを信じようとした梨沙は、今、自分がしてしまったことに怯えて震えている。
「……あたしを信じてくれたの?」
 梨沙の耳元に口を寄せ、囁いた。梨沙は黙ったまま、首を縦にも横にも振らない。
「さっきの、嘘じゃないんだね」
 質問には答えず、呟いた。さっきの──亜矢子が言っていたこと。梨沙の背中に銃を向けようとしていたこと。香奈はまた、言葉に詰まった。
「でも、撃たなかったんだよね」
「そう……撃たなかった」
 少しだけ、梨沙の声が強くなった。香奈もそのことだけは、自信を持って答えられた。
「梨沙ちゃんが、信じて一緒にいてくれたのが嬉しかった。だけど、梨沙ちゃんのこと守ろうとしたのに、責められて、よくわからなくなって、でもやっぱり……それも、全部あたしの勘違いで、結局は……梨沙ちゃん、あたしを信じててくれたのに──」
 腕の中で梨沙が、微かにため息をついた。
 急に、今度は香奈の指先が震えてきた。喋っているうちに、状況を理解するに連れ、恐怖が込み上げてくる。自分の早とちりで人が死に、更には梨沙の手を汚させてしまった。失敗ばかりだ。あの展望台でも、自分がいなければ杏奈たちは死ななかったのではないか──?
「ごめ……ごめ、なさい。梨沙ちゃんに、人を殺させてしまった──」
 今度は梨沙の方から、ぐっと力を込めて抱き締められた。香奈よりずっと小さな身体で、第三者から見たら梨沙がしがみついているように見えたかもしれないけれど──香奈にとっては大きな暖かい応えだった。
「あたし怖かった。麻里ちゃんが死んだ時ね。殺さなくたってよかったのにって思ったの。でも、いざ香奈ちゃんが撃たれそうになったら、そうは思えなかった。助けなきゃって、それだけで」
 震えてしまった語尾を濁すように、大きく息を吐いた。
「だからさっき香奈ちゃんがどんな気持ちだったか、よく分かったから。あたしも同じ罪を背負うよ」
 こんな風に誰かと抱き合うのは初めてのことだった。初めて他人と心が通っていると確信できた。同時に、生き残らなくてはと、梨沙を守らなければと強く思った。



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