63

a blind alley

 背後から物がぶつかりあうような音がした。麻里が柵を壊しにかかっているのだと分かった。大きな音が続き、ぐしゃりと嫌な音がした。二人は思わず顔を見合わせていた。
 砂利道が終わり、竹でできた仕切りが現れた。端にある小さな入り口に二人は体を滑り込ませた。そこは開いていた。
 今度は外に出られただろうか──その考えは虚しく崩れ去った。二人は竹の壁に覆われた狭い空間の中にいた。低い柵からは海が見える。二人の足元には、水がたっぷり入った四角い溝があった。──”海を眺める絶景露天風呂”、だ。
 香奈はおかしくもないのに、自然に口元が弛んだ。ある意味最高の皮肉だった。外に出られるだろうとまわってきたのは職員用の通路で、その裏道から露天風呂まできてしまったというわけだ。逃げ出すことを望んでいながら、逃げ場のない四角い部屋に入り込んでしまった。こんな時に絶景──ある意味絶景だよ、最高。
「開かない!」
 梨沙は客用の露天風呂入り口に貼り付いていた。それももう、しっかり施錠されてしまっている。
 砂利を踏む音が近付いてきた。ホラー映画よりもずっと恐ろしい。梨沙が諦めたようにガラスから手を滑らせ、視線を上げた。
 香奈の方はまだ余裕があった。右手にはウージーがある。しっかりと握りしめ、二人が入ってきた入り口に銃口を向けた。
「何してるの……撃たないで」
 梨沙が声を震わせた。
「話し合えば分かってもらえる、ってこと?」
 香奈が先手をうって言った。とげのある言い方だったかもしれない。梨沙が口を一度開きかけ、黙った。
「大人しく殺されるつもりなの?」
 言わない方がいい、と思った。それでも言ってしまった。香奈も緊張から、だいぶ神経が波立っていた。梨沙が苦しそうに首を振った。
「そういうんじゃない……でも……」
 言いかけた梨沙が、口を噤んだ。香奈から視線を逸らした。その先には麻里がいた。
「麻里、あたしたちね──」
 梨沙が言い終わらないうちに麻里が向かってきた。ウージーを降ろしていた香奈は、よけるので精一杯だった。左に避けた。第二弾が来ない。香奈が振り返った先、麻里と梨沙の影が重なって見えた。
 ガラスの割れる音が大きく響き渡った。腰を落とした梨沙の頭の上、入り口のガラスに大きな穴が開いている。唇まで真っ青になっている梨沙の頭に、麻里は今にもバットを振り降ろそうとしている。
 頭に一瞬、ウージーのことが浮かんだ。しかし走りながら、梨沙に当たるからダメだ──と思った。麻里の背中に体当たりすると同時に、今度は梨沙の背中の辺りのガラスが割れた。
 声にならない叫びを上げ、梨沙は体を丸めている。よろけた麻里の背中を更に押し、梨沙の手を引いて救出した。
 麻里はすぐに体勢を立て直した。再びバットを振りかざして向かってくる胸に向け、香奈はウージーを撃った。震えと発砲の勢いで狙いが定まらず、腕が上下した。壁に穴があき、被弾した箇所がささくれ立ち、粉をまきあげた。最後の数発だけ、麻里の脇腹に当たった。
 ぱすっ、という乾いた音にようやく気付いたのか、麻里が立ち止まって自分の脇腹を見下ろした。大きく呼吸するたびに血が勢いよく噴き出す。それでも麻里はまだ、立っていた。
 そんな──当たったのに!
 死なない殺人鬼。そんな言葉が頭に浮かんだ。まるでこちらの思考を読んでいるかのように、麻里は香奈の方を向いてバットを構えた。
「麻里! お願い……やめて!」
 梨沙がまた叫んだ。もうやめるも何も──とうに説得できる状況は過ぎている。
 説得むなしく、バットが梨沙の頭を掠め、竹を叩き割って壁を貫通した。
 一瞬の判断で香奈は湯舟を飛び越え、柵に掴まった。
「梨沙ちゃん!」
 涙をいっぱい溜めた梨沙が、ふらふらと浴槽に近付いてくる。背後にいる麻里はバットを抜くのに苦戦していると見えたが──計算が狂った。するっとバットが抜けた。
 叫んだ。
「飛んで! こっちに!」
 飛んできた梨沙を抱き止めるのと同時に、麻里が振り返った。間一髪だった。浴槽を隔てて、両者は黙ったまま睨み合った。
 水の入った浴槽を超えてこなければ、麻里は二人に触れることはできない。同時に、こちらからは梨沙に当たることを気にせずに撃てる。
 撃てる──? しまった!
 判断が鈍っていた。香奈は自分の右側に梨沙を受け止めていた。左手で柵を掴み、右手で梨沙の体を支えるのでやっと。浴槽の端は人が安定して立てる幅はない。足は今にも滑り落ちそうだ。右手が使えると思い込んでいたが、梨沙を抱えたままウージーは撃てない。本当の意味で袋小路に入ってしまった。
「……掴まれる? 腕じゃなくて、体に」
 囁いた。梨沙はそろそろと腕を動かし、香奈の胴に抱きつき、胸に頭をつけた。
 少しくすぐったかったが、ウージーを握り直した。しかし、力が入らない。その上、肩から伸びたベルトが梨沙の体に引っ掛かっているのか、自由に動かすことができない。この状態で発砲すれば、二人とも落ちる──。
 麻里がゆっくり動き出した。浴槽に近付いてきたところで足を滑らせ、湯舟の中に落ちた。飛沫が二人のいるところにも届き、梨沙が抱きつく腕に力を入れてきた。自分の体重と梨沙の体重を支える左腕が冷たくなり、痺れて震えだす。これ以上長引かせるわけにはいかない。
 水中から両手が伸びてきた。梨沙の足首を掴み、麻里がずぶ濡れになった上半身を持ち上げた。
「きゃああ」
 梨沙の金切り声が鼓膜を震わせる。突然の出来事に、香奈の心臓も跳ね上がった。
 どうする──!
 足首を掴まれた梨沙の体が、ずるっと滑った。香奈の左腕も限界に近付いている。それでも右手で梨沙の腰を支えた。ふいに、右手の先に固いものが触れた。香奈は右手で梨沙のポケットを探り、感触の正体を取り出した。
「けっとばせ!」
 思いきり叫んだ。梨沙が苦しそうに胸にしがみつき、掴まれた足を振った。麻里の手が容赦なく足を引きずる。
「いいから、けっとばせ!」
 右手に握った物体に力を込めた。同時に、梨沙の足が麻里の顔面を蹴り飛ばし、手が離れた。それを見計らい、香奈は右手から火花の散る黒い箱を放り投げた。
 ついに左手が滑った。しかし、反射的に伸ばした右手が角隣の壁を掴んでいた。梨沙を胸にくっつけたまま、香奈は垂直に接する壁に飛びついていた。
 背後から激しい叫び声と、水が噴き上がるような音がした。振り返ろうとして──抱きついた壁が軋んでいることに気付いた。
 二人を乗せたまま、壁はゆっくり反対側に倒れていった。香奈が先ほど撃ったウージーによって蜂の巣になった壁は、ずいぶん脆くなっていたようだ。地面に近付くにつれ加速し、ついに壁は向こう側へ倒れた。
 
 地面に叩き付けられると思った瞬間、全身がさっと冷たくなった。頭から水に突っ込んでいることに気付き、慌てて立ち上がった。頬に貼り付く髪を払い、香奈は辺りを見渡した。
 倒れた壁は、先ほどと同じような浴槽に突っ込んでいた。つまり──麻里に襲われた露天風呂の壁を突き破り、隣のもう一つの(男湯か女湯かは分からない)風呂にきてしまったということになる。
 立ち上がり、香奈は梨沙の姿を探した。さっきまで掴まっていたはずだが、今は見当たらない。振り返ると、へし折れた壁の境に梨沙が立っているのが目に入った。
 よかった、無事だった──。手を伸ばそうとしたが、梨沙はその場に座り込んでしまった。
「麻里……どうして……」
 ──え?
 香奈は自分の口元が歪むのが分かった。
 湯舟の中で、麻里は浮き沈みを繰り返している。その水中には、梨沙のスタンガンが沈んでいた。
 とっさの判断だった。梨沙のポケットの中にはスタンガンが入っている──それを知っていたから、水に浸かっている麻里を感電させられるかもしれないと思った。そしてその通り、水が一瞬で麻里の全身に電気を通した。それだけで死ぬのかは分からない。しかし、既に腹をマシンガンで撃たれているのだから、助からないだろう。
 狼狽している香奈を見上げ、梨沙が唇を噛んだ。”どうして殺したの”。そう言いたげな目をしていた。
 そんな──だって、梨沙ちゃんは、殺されそうになって──。
 梨沙の目から涙が溢れた。責められているように感じ、香奈は胸が圧迫されるような窮屈な気持ちになった。
 ……ばかばかしいよ。自分を殺そうとしたやつの死を悲しむ? どうして? そんな顔されたら、あたしが悪者みたいじゃないか。
 思いのたけ口にしようと思った。だが、それは香奈にとっては当たり前の考えだったので、喉の奥から声が出ることはなかった。ただ、苦々しい笑みを浮かべることしかできない。梨沙からみれば、やはり恐ろしい人殺しに見えるのかもしれない。
 言葉を失った梨沙は、もう一度息絶えた麻里の体に手を伸ばし、静かに肩を震わせていた。──そりゃあ、この二人が仲良く話しているところは見たことがあるし、その友達が死ねば悲しいと思うのも当然だが──だが、麻里は、こちらの命を狙ってきたのだ。
 ……わからない。
 仕切りが倒れたおかげで潮風が容赦なく吹き付ける。黒髪に照りつける太陽が、妙に熱く、香奈の意識を波立たせた。
 小さな、しかしはっきりとした声が聞こえた。本来なら考えるべきではないし、無視しなければならない声。しかし今の香奈の状態はあまりに悪かった。疲労と暑さでぎりぎりまで削られていた人間としての理性が、ぷつりと音を立てて切れようとしていた。聞こえた、小さな声。
 ……冗談じゃない。
 頭の中、こんどは大きく響き渡った。冗談じゃない。そう、冗談じゃない。
 声は続いていた。
 ……終わらせなければならない。こんなことは。
 そう、そうしよう。香奈は右腕にぶら下げたウージーを肩にかけ、グリップを握った。梨沙の嗚咽が空気を通して鼓膜を震わせる。香奈はそのままトリガーに指を掛け、梨沙に向けた。
 不思議とためらいはなかった。むしろ、何も感じなかった。
 思った。梨沙は、あたしを「信用できる」と言った。「ちゃんと伝わってる」、そうも言った。その時思ったのだ。あたしを分かってくれる人は、他にもいたのだと。しかし、最後の最後、結局のところ梨沙はあたしを信じていなかった。梨沙を守ろうとしてしたことなのに、分かってもらえなかった。──そう、分かりあうことなど、はじめからできていなかった。
 香奈が平常心を保っていたなら、その考えは自己愛の塊のようなものであって、理解されることだけを求めるからだと思い改めることができたかもしれないが、もう、正常な判断を下すことはできなくなっていた。理解されない、誤解されてきた辛さが込み上げ、梨沙に向かっていた。
 人さし指に力を込めるわずか一刹那、ふと、その長く伸ばした爪の中に残った赤褐色の跡を見た。自身のものではない、出発地点で死んだ富永愛の乾いた血の跡。
 夢の一コマのごとく、記念館で最後に見た愛の泣き顔が、断片的なイメージとなって浮かんだ。実際その時、視線など合わなかったはずが、イメージの中ではお互いの目を見つめあうように、こちらを見ていた。その瞳が、悲しげに揺れていた。
 泣き腫らした瞳の奥に、静かな絶望の色が見えた。このゲームに対して──いや、他の誰でもない、あたしに対して?
 イメージがふっと消失し、梨沙の姿を再び認め──そして、手中のウージーが彼女の背中に向いているのを認めた時、香奈の体がぶるっと震えた。一瞬にして全身に、恐怖と衝撃が広がった。
 あたしは──何を──すごく、恐ろしいことを考えていた。
 からからに乾いた喉に生唾を飲み込んだ。
 そうだ。何を……何を、やっているんだ。早くここから逃げなければ。とにかく。
 ウージーを下げようとして、梨沙のすぐ向こう、入り口に女子生徒が立っているのが見えた。香奈は体を硬直させ、ウージーをぎゅっと握り直した。
「梨沙ちゃん、危ない!」
 叫んだのは香奈ではなく、突然現れた山科亜矢子(37番)の方だった。



【残り6人+1人】

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