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rave

 実際、思考停止していた時間は数秒ほどだったが、香奈にはその時間がとても長く感じられた。
 耳元で、梨沙がはーっと息を吐いた。死んでいた者が息を吹き返すような、不思議な重みに満ちた一呼吸だった。梨沙にとってそれは、声にならない叫びだったのかもしれない。今では思い出したように息を荒げている。
 驚いたのは香奈も同じだった。グロテスクな死体を見つけてすぐ、顔に妙なお面を付けた殺人鬼が現れる──また、まさかいないだろうと思っていたところから幽霊が登場する──映画ではお馴染みの展開だ。ただ映画のヒロインは、耳をつんざくような叫び声を上げて逃げまどう。現実では梨沙のように、息を吐くのも忘れ、動くことすらままならないというのに。
 心臓が激しく脈打ち出した。梨沙と触れあっている部分すらも脈打っているような錯覚に陥る。
 トイレのドアから現れた麻里がゆっくり踏み出した。
 目の前にある現実が映画のワンシーンのようで(あまりにタイミングがよすぎるので)、香奈はまだ正常な判断を下すことができないでいた。麻里の左手が入り口に掛かったところで、梨沙が香奈の腕を引いて後ずさった。梨沙の方がずっと、香奈よりしっかりしていた。
 このまま逃げるか──。
「ま、麻里……だよね……」
 梨沙の声が震えていた。話し掛けたのも意外だったが、”だよね”と付け加えたのも意外だった。見れば分かるのに──そう思ったが、改めて見てみると、香奈まで混乱してきた。
 血走った目、赤く汚れた夏服、血の付いた金属バットを握っている──果たしてこれは、本当にあの、同じ教室にいた、横田麻里なのだろうか。
 香奈自身はあまり麻里と付き合いはなかったが、今の様子が明らかにおかしいことは分かる。大声を出して笑う、ちょっと豪快なイメージの彼女は、生気が抜けた人形のようにこちらを見据えている。麻里とたくさん喋ったことがあるであろう梨沙は、もっとそのギャップに困惑しているだろう。
「あたし、分かるよね? 梨沙だよ。ほら……」
 麻里は答えない。まるきり記憶喪失になった人間を相手にしているか、動物を手懐けようとしているような言葉だった。
 ただこちらを凝視していた麻里が、ふと足元にある砂川ゆかりの死体に目を落とした。一刹那、麻里の目が更に見開かれたような気がした。
「あの、よくわからないんだけど……」
 梨沙は続けていた。恐らく砂川ゆかりの死体についてのことだろう。顔が潰された死体に、血のついたバット。すぐに答えは分かるはずだが──。
 何か嫌な予感がした。なお語りかけようとする梨沙の腕を掴もうとして、目の前に金色の光が広がった。
 ──!
 間一髪、と思ったが、こめかみの辺りに痛みが走った。状況を確認しようとして目線を上げた時、背後から激しい音が聞こえた。金属の音だった。書道の時に誰かが文鎮を落とした時のような──そんな平和な回想が頭をよぎった。振り返った先に、金属バットが転がっていくのが見えた。まだなお、カラカラと耳障りなノイズを残している。
「痛っ……」
 声が聞こえた。それで再び顔を戻すと、隣にいた梨沙が耳を押さえて中腰になっていた。
 麻里に視線を戻す。麻里はこちらを見たまま、先ほどまで金属バットを握っていた右手を中途半端に宙に浮かせていた。麻里が投げた金属バットが、二人の間から後ろに飛んだのだと分かった。香奈のこめかみを掠め、梨沙の耳にぶつかって。
 麻里の目を見たが、彼女は何も見ていなかった。怒りを込めて見つめる香奈の視線など、まるで存在しないかのような、どこか遠くを見ているような目。ぞっとした。どうかしている!
 同時に思い出した。展望台の近くで遭遇した筒井雪乃にラケットを投げ付けられたこと。
 そうだった──こういう相手には容赦すべきじゃない。
 ウージーを握るのと、梨沙が顔を上げるのはほぼ同時だった。また、急に麻里も動きだした。
 香奈の動きが麻里を刺激したのはいうまでもなかった。まっすぐ突進してくる麻里を、二人が左右に分かれることによって躱した。そのまま勢いをつけて、麻里が金属バットに手を伸ばしたのが見えた。
 梨沙が香奈の手を取り、二人して元来た方へ駆け出した。
 振り返ると、バットを握った麻里がこちらを追い掛けてきている。香奈は繋いでいる手と反対の、右に持ったウージーを持ち上げた。
「だめ!」
 梨沙が叫び、香奈の手を強く引いた。走っていたこともあり、銃弾は曲線を描きながら岩肌を削り取る。煙が上がった銃口の向こう、麻里は臆することなく追い縋ってきた。
「撃たないで!」
「なんで!」
 香奈も負けずに叫んだ。梨沙は言い返そうと口を大きく開けたが、ただ、短く息を吐き出して言葉に詰まったようだった。
 梨沙の体が左に揺れた。凹凸の激しい岩場に足をとられたようだ。それでも走り続けた。
 このままだと追い付かれる。
 香奈の目に民宿”泊屋”の看板が飛び込んできた。とっさに梨沙の腕を引き、階段の方へ誘導した。梨沙も了解したのか、香奈の動きに応じた。
 ”民宿・お食事処 海を眺める絶景露天風呂”。呑気な看板を横目に、階段を駆け上がる。ほとんど何も食べていないのがよくなかったのか、頭も足もふらふらした。二人の荒い呼吸が、狭い階段に響いた。
 上がりきったところに入り口があった。無理だと分かっていながらも、二人は押したり引いたりしてみた。鍵がかけられている。体当たりもしたが、入り口は振動を跳ね返してくるだけで開く様子はない。
「どうしよう!」
「わからない!」
 二人とも当り散らすように大声で会話した。頭を左右に動かしていた梨沙が、「あっち!」と声を上げた。白い柵があった。それを登って逃げようということだろう。
 梨沙の背中を押した。香奈の身長ならば何とか登れそうだが、梨沙は一人では厳しそうだ。先に下から押してやろうと考えた。一瞬ためらうような表情を見せたが、無理に柵に押し付け、腰を支えた。梨沙が両手で柵を抱え、脚を掛ける。見届けてから一度、香奈は階段に駆け寄った。
 十メートルばかり下から麻里が見上げていた。香奈の姿をとらえ、バットを握る手に力が入ったようだった。
「来ないで」
 声を上げた。麻里の体がびくっと震えた。説得は苦手だったが、何とか来ないでくれればと香奈は思った。麻里は黙っている。落ち着いてくれただろうかと思った時、麻里の体がぐるっと階段に向いた。
「香奈ちゃん!」
 背後で梨沙が叫んだ。同時にだめだ、と頭の中で諦めの声が聞こえた。あっという間に駆け上がってくる麻里の姿に圧倒されながら、香奈は柵に飛びついた。
 膝までのスカートが風でめくれた。梨沙からは中身が丸見えだっただろうが──気にしてはいられなかった。麻里が階段を上りきったのが見えたと同時に、香奈は梨沙のいる柵の向こうに飛び下りていた。後ろを気にしてはいられない。二人は細い道をかけ出した。



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