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unseen danger

「ここの奥に商店街が?」
 中村香奈(20番)が前方を指差した。花嶋梨沙(26番)は一度頷き、「ほら、看板」と言った。
 二人はC=2エリアに差し掛かっていた。梨沙は一度この場所を望月操と通っていたので商店街だと分かっていたが、寂れた家並みを見て香奈が首を傾げるのも無理はない。
「へえ、ああ……ほんとだ」
 通り過ぎる際、香奈は”イカの丸焼き”と書かれている旗の端をつまんだ。頭上には土産物屋だと分かる看板がいくつも掲げられている。これが修学旅行か何かで、土産物を楽しんで物色することができたら──そんなことを想像して、腹の奥がつんと痛んだ。ただ単に腹が減っただけかもしれないし、来るはずのない修学旅行に対する思いがその痛みを引き起こしたのかもしれない。痛みを紛らわせるために、梨沙は右手にぶら下げていたペットボトルから水を飲んだ。
「昨日の今頃さあ、まだ寝てたんだっけ」
 少し上から香奈の呟きが聞こえた。
「うん……そうかな、でももう五時過ぎてるから、香奈ちゃんがあの部屋を出発したくらいじゃない──」
 そこまで言って、梨沙は口を噤んだ。はっとして、丸めていた背を伸ばした。
「そっか、そんな経つか」
 すぐに香奈が返してきた。
 梨沙は気まずく思って顔を上げることができなかった。香奈が出発するすぐ前に、富永愛は処刑されたのだ。あの時振り返った香奈の泣きそうな、どこに怒りをぶつけていいか分からないような表情は忘れられない。
 ──あたし、意識していなかっとはいえ、何てことを。
 沈黙が胸を締め付けた。香奈が今、またあの時のような顔をしていたら──。
 思いきって謝ろうと決心し、梨沙は目を上げた。そして、ちょうどこちらを見つめていたらしい香奈と視線がぶつかった。
 どきっとした。香奈は泣くどころか、微かに笑んでいる。
「気、使わないでいいよ。みんな大変な思いしたんだから」
 背中に温かい、香奈の大きな手が降りてきた。二度ばかり軽く叩き、心地よい体温が遠ざかっていく。梨沙は思わず顔を上げた。
 急に色々なことが恋しくなり、香奈の手が離れていくのを悲しく思った。何故だか梨沙の方が泣きそうになってしまっている。
「どうかした?」
 先ほどと変わらない香奈の笑みを見て、少しだけ落ち着いた。
「ううん、大丈夫。ただ、やっぱりこういう時って涙腺緩くなっちゃうものなんだね」
 苦笑しながら、目尻に残った涙を拭いた。香奈には二度も涙を見られてしまったことになる。梨沙は恥ずかしく思いながらも、僅かに心が軽くなっていくのを感じていた。
 もう一度香奈は背中を叩き、梨沙に向かって微笑んだ。
 
 商店街を抜けたところで二人は足を止め、地図を広げた。恐らく現在、C=3からD=3あたりにいるのだろう。禁止エリアであるC=2が近い以上、下手に動き回ることはできない。
「廃墟……」
 梨沙は独り言のように呟き、左右を見渡した。それらしきものはない。まわりは草木に覆われた崖や獣道もある。ここから見えないのも無理はない。
「どうする?」
 地図から視線を上げ、香奈が聞いた。
 廃墟に行くか──? ということらしい。梨沙は暫く間を置いて、首を振った。
 相澤祐也が言っていた。地図に名前のない建物に隠れていた方がいいと。地図に名前が載っている廃墟には、誰かがいる可能性が高い。それが信用できる友達ならば、今すぐに飛んでいきたい。しかし、ゲームをやる気になっている生徒がいる可能性も同じくある。今、死んでしまうわけにはいかない。香奈が言ったように、梨沙が死んでしまっては誰も助からなくなってしまう。
 香奈も了解したようだった。
「そう、じゃあ別の場所を探すか。海岸の方はまだ禁止エリアになってない。そっちに行ってみよう」
 海岸で操と出会ったことを思えば安心はできなかったが、行ってみるほかないだろう。とりあえず、隣には香奈がいる。それから、この島のどこかには祐也も。梨沙は首を縦に振り、香奈に同意を示した。
 海岸へ抜ける道に飲食店があった。この島でとれる海の幸をメインにしたメニューが店の外にも出ている。入り口は固く閉じられているが、水槽は出しっ放しになっている。今はもう、店主も客もいない。水槽の中身も当然乾ききっていた。
 視線を転じると、青い自動販売機と島の地図が並んで立っている。二人はそのまま歩を進め、地図に近付いた。現在地を示す赤い丸の記号の側に先ほどの店の名前が挙がっている。現在地の左側には民宿、またその隣にトイレがあるらしい。
 しばらく二人は地図を眺めていたが、先に香奈が「行こうか」と行った。どこへとは敢えて聞かなかった。多分、見ているところは同じだと思ったので。
 進んでいくうちにコンクリートの道路が細くなり、ごつい表面をさらす岩場へ出た。風は強かったが、景色は最高だった。沈んでいく橙色の日とすっきり晴れた青い空。二人は目を細め、しばらく日を見ていた。
 梨沙はそっと香奈の横顔を盗み見た。瞬きするたびに睫毛の影が長く、頬に影を落とす。梨沙はまた、小さな不安を覚えて口を開いた。
「これでおしまいじゃないよね。また、これからもこういう景色、見られるよね」
 香奈が視線を梨沙に向けた。オレンジ色に染まる頬にまた、睫毛の影が上下した。
「見られるよ」
 少しの間流れる、沈黙。
「多分、もう嫌ってくらい見られる」
「嫌ってくらい……」
 梨沙はおうむ返しに呟き、それから頷いた。
 疲れているせいか、だいぶ自分が弱気になってしまっていることは分かっていた。香奈の言葉で安心できたかというと、完全には無理だった。それでもやはり、気づかってくれる誰かの存在があるだけでも違う。香奈には秘密を全て話してしまったせいか、特に甘えてしまっているような気がする。
 香奈に向かって微笑みながら、時間を確認しようとペットボトルを持ったままの右手を上げた。その途端、ちょうどいいタイミングでスカートの脇から振動が伝わってきた。風にはためくスカートの裾を引き寄せ、ポケットを探り、携帯電話を取り出した。
 明るくなった画面を香奈と二人でのぞきながら、梨沙はメールを開いた。
 
 >場所、方法はまだ言えない。こっちから行く。居場所を教えてほしい
 
 目を細めている香奈に見えるように、携帯の画面の向きを変えた。
「……教えるの?」
 香奈がやや不満げに訊ねた。どう答えていいか悩んだが、「そうするしかない」とだけ言った。これには香奈は何も答えず、先に歩き出した。
 返信画面に切り替えながら、梨沙は祐也が何を考えているのか、送られてきたメールから少しでも分からないかと頭を悩ませた。
 今この場所を教えたら、祐也はすぐにでも来てくれるのだろうか。あの時──四年前、姉の墓の前で出会った時のように救いの手を差し伸べてくれるだろうか。
 姉がいなくなってから、ずっと兄のように慕ってきた。会うことはできなかったが、梨沙が寂しい時には電話やメールで相手をしてくれた。忙しい日もあったかもしれない。それでも、嫌なそぶりも見せずに話を聞いてくれた。
 嘘をつくような人だとは到底思えない。事実、今までは一度だって嘘をつかれたことはない。
 画面に集中していた梨沙は、前で立ち止まっている香奈に気付かず、その背中に頭をぶつけた。
「あ、ごめんね」
 言いながら、顔を上げた。しかし香奈は振り向かない。
「香奈ちゃん」
「何かある」
 呼び掛ける声と重ねて、香奈が囁いた。風の音でよく聞こえなかったが、多分、そのように言ったのだと思う。梨沙は伸び上がるようにして、香奈の視線の先を目で追った。
 白いポールから垂直に上に伸びた階段の上、大きな建物があった。先ほど地図で見た民宿らしい。そこから少し離れたところに小奇麗な小屋のようなものが建っている。民宿の隣はトイレのはずだったが、梨沙にはどうも、何か別のもののように感じられた。
 岩肌を目で追っていく。目を奪われていた小屋の入り口の近くに、黒い鞄が落ちていた。
「あ……」
 梨沙が声を上げるのを待ちわびていたかのように、前にいた香奈がまた歩を進め出した。梨沙はきょろきょろと辺りを見回し、それから当然香奈にも目をやった。
 香奈も緊張しているのか、右肩から下げているウージーをしっかり握っている。まさかとは思うが、もしあの鞄が罠か何かだったら──ぞっとして、止めようと背中に手を伸ばした。
 またちょうどいいタイミングで香奈が足を止めた。少し進んだことによって、段差で見えなかった岩のくぼみが姿を現した。その上に鞄と同じような色の制服を着た女子生徒が寝転がっていた。
 夕日を受けて長い影を伸ばす身体は、ただ静かだった。
 死んでるの──? 誰が、どうして──?
 香奈も足を動かすのをためらっているようだった。二人の他に人の気配は全くなかったが、どこかで悪意を持った──その、寝転がっている少女を殺した誰かが見つめているような、気持ちの悪い想像を拭い去ることはできなかった。
 もし物陰からやる気になっている人物が見ていたとしたら、とっくに遠くから攻撃されていてもおかしくはない。今は誰もいない。そう、分かってはいたが、足が竦んでしまっていた。
 香奈がちらっと振り返った。梨沙の方に向けられた頬は影で黒くなっており、表情はよく分からなかったが、引き結んだ唇から緊張を読み取ることができた。
「……行ってみる?」
「どうしよう……」
 思い返してみると、さっきから行くかどうかばかり話し合っている。
 梨沙は思いきって自分から先に歩き出した。
 ゆっくり近付き、距離が十メートルもなくなったところで梨沙は足を止めた。止めたというよりは、もうそれより先に近付けなくなっていた。
 少女の死体は脚を投げ出し、またぴんと伸びた腕の先で、何か強烈な痛みに耐えているかのように拳が握られていた。着衣は乱れていないが──問題はその上だった。顔面が完全に陥没している。ケチャップをぶちまけたような顔の中、鼻の頭はなくなり、左右の目は傾き、白い歯が抜けて頬に乗っている。当然ながら、誰であるかは分からない。
 震えて膝を付きそうになった梨沙を、いつの間にか追い付いてきていた香奈が支えた。涙を溜めた目で見上げると、香奈の夕日に照らされた顔が妙に血色がよく、場違いに思えた。
「砂川さんだ……」
 香奈が死体が履いている上履きを指差した。”砂川ゆかり”、と書かれている。そういえば体つきは彼女のようだ。髪型も確かめようと思ったが、潰れた顔を見るのはもう嫌だった(ゆかりにはとても悪いと思ったけれど)。
 砂川ゆかりはクラスでは大人しく、梨沙もほとんど話したことはなかった。ただ、見ていて悪い感じはしなかった。いつも原田喜美の側にいて、ただにこにこ笑って話を聞いている──そんな彼女が、こんな姿になってしまったことがショックだった。とてもゲームに乗るとは思えない彼女が、こんな無惨な死に方をした。梨沙は体を震わせた。
「もう、行こう」
 香奈が梨沙の肩を掴み、半ば強引に向きを変えさせた。その時、小屋の奥で光が揺れたような気がした。
 突然体を強張らせた梨沙に気付き、香奈も小屋に目を向けた。小屋の奥──トイレの個室が開いていて、おかっぱ頭の女子生徒がこちらを睨んでいる。手にした金属バットが眩しい光を放ち、その先は茶色く汚れていた。
 古い木戸を開けるような嫌な音が響き、トイレのドアが開いた。完全に姿を現した横田麻里(38番)を前に、二人は動くことができなかった。



【残り7人+1人】

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