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muddy water

 午後五時過ぎ、条ノ島内某エリア。
 生暖かい風を頬に受け、相澤祐也は時計に視線を落とした。
 ちょうどD=6が禁止エリアに加えられたころだ。そして、放送まではあと一時間もない。どちらのことも今の祐也にはあまり関係がないことだったが、一度でもプログラムを経験した人間としては、どうしてもチェックせずにはいられない。
 島の様子は調べた通りで安心した。地図にない建物も含め、この島のことは頭によく叩き込んでおいてある。祐也は既に、この島を充分歩き回っていた。梨沙がどこにいると言えば、すぐに駆け付けられる自信がある。
 梨沙に伝えた到着時刻には若干、嘘があったが、それでも島への潜入はスムーズにいった。予定通りにことが進んでいる。やや思い掛けないアクシデントもあったものの、自分は無傷でここにいる。それだけでも奇跡だった。
 彼女を救出するだけの知識と力を、様々な方法で手に入れることができたのは本当に幸運だった。何も知らないままなら、梨沙がプログラムに選ばれたことを後から知って、あるいはもっと遅く、姉と同じように死体になって戻ってきてから再び悲しみを味わうはめになっていただろう。
 当時小学生だった梨沙が、今はあの時の自分と同じ歳になっている。顔を合わせて話したら、どこか蘭に似ている部分はないかと探してしまいそうで、それだけは少し怖かった。
 だが、自分はそんなことのためにここへ来たわけではない。蘭の妹として大切に思っている梨沙を救う。それだけだ。
 実際に二人はあれから一度たりとも会っていなかったが、梨沙から写真を貰ったことはあったので、彼女の顔が分からないといった間抜けな事態に陥ることもきっとない。
 強運を喜ぶ一方、自分はここで死んでしまうかもしれない──そんな予感もあった。一度ならずとも、もう一度プログラム会場に潜入して生還するというのは、どのぐらいの確率なのだろうか。あまり数学が得意でなかった祐也にも、その確率がとても低いことは容易に分かる。
 ──そうだとしても、引き返すわけにはいかない。
 梨沙から届いたメールを再び開いた。”今どこにいるんですか? 衛星があるのに大丈夫だったんですか?”と、機械的な文字が浮かんでいる。その中にも、梨沙の焦りと不安が見えた。こちらからは決して姿を見ることができない神に手を伸ばすような、そんな気持ちに違いない。
 祐也は何度も動きかける指を止め、頭の中で文章を再構成した。
 ある種の駆け引きのようだった。祐也の居場所、潜入方法は秘密。それでいて向こうの情報が欲しい。梨沙は当然納得しないだろうが、そうする他はなかった。完璧に目的を遂行しなければならない。そのためにも、情報の漏洩は命取りになる。
 
 ”場所、方法はまだ言えない。こっちから行く。居場所を教えてほしい”
 
 メールを送り終え、祐也は決意新たに深呼吸を繰り返した。どこもかしこも鉄臭い。プログラムの終盤は四年前とちっとも変わらないようだ。ただ、最後だけは──最後だけは、同じ結末を迎えさせるわけにはいかない。
 早く梨沙ちゃんと友達を探さなければ。
 思いは募るばかりだった。祐也は二人の姿を求めて歩き出した。
 
 
 同時刻、エリアB=6内、水産試験場前。
 先ほどの戦闘から一旦逃れ、花井崇は水産試験場前を歩いていた。歩調はしっかりしていたが、それでも微かに疲労を滲ませ、一歩踏み出すごとに身体が揺れていた。
 とりあえず全く手を下す間もなく大勢の生徒が死んだが、花井はその場にいながらも運良く命を落とすことはなかった(彼が”助かった”と思ったかどうかは、およそその表情からはわからない)。
 工場へ向かった道を戻りながら、花井の足はちょうど、ついさっきまで花嶋梨沙(26番)中村香奈(20番)が潜んでいた洞窟の前で止められた。
 迂闊にも、花井はこの時まで洞窟の存在に気がついていなかった。静かに上半身を折り、薄暗い穴の中を覗き込んだ(香奈の判断は正しかった。当の二人は知る由もないが)。洞窟は人が奥に歩いていけるほど深くない。そして、誰かがいたとしてもほとんど隠れるスペースはない。それは明らかだったが、もうしばらくその中に目を凝らし、花井は洞窟から水産試験場の方へ注意を移した。
 どこへともなく視線を彷徨わせていた花井の目が、ある一点で止まった。
 強い日射しに乾かされたはずの地面に、点々と黒いしみができている。花井はしゃがんで、その指先でしみに触れた。指の腹に泥が残る。
 次に、そのしみの出所を探るべく辺りを見回し──また、見つけた。水産試験場脇にある水道の下に大きな水たまりができていて、そこから花井のいるところまで濡れた足跡がいくつか残っているのを。
 泥がついた指先をズボンに擦り付け、立ち上がった。それからまっすぐ、西の方に向いた。花井の足元から先には、水がこぼれた跡がずっと続いている。
 地面に残った薄い足跡を爪先で消し、花井は目印となる点に沿って歩き出した。



【残り7人+1人】

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