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flash back

 銃声がした方にゆっくり歩を進めながら、長谷川紗代(25番)は幾分複雑な思いを抱いていた。
 今、自分の背中に顔を埋めるようにしてついてきている望月操(34番)を連れてきたことにより、自分の運命はだいぶ変わってしまった。
 一人だけだったらすぐに工場に戻ってきて、一緒にあの世行きだったかもしれない(見たわけではない。だが、こんな焼け野原を見たら、そう考えるのが自然だ)。操の話を聞き、花井崇がやってくるかもしれないという危険を考え、放送の間に工場の周囲をまわり、高見瑛莉(16番)が見張ると言っていた東側の林に身を潜めることにした。
 これはある意味、裏切りなのかもしれない。そう思った。放送の途中、側に行って危険だと告げる間にあの男はやってこないか? ──そんな恐怖が、紗代の足を止めた。そしてそれは結果として、正しかった。
 今まで一緒にいた友人たちはいなくなり、今度は泣いている操を守らなければならない。そして、どうしていいのか分からないまま、もしかしたら誰か生き残ったかもしれないと希望のもと、銃声が聞こえた方角に向かって歩いている。
 
 しばらく歩いていった林の中、そこだけ木がまばらで広場のようになっている場所に、四人いるのが見えた。仰向けに寝ているものが一人──顔は見えないが大東亜女学園の制服を着ている。そして恐らく死んでいる。もう一人もクラスメイトのようだが、顔は俯せになっているため分からない。体は傷だらけで肌が露出している部分が黒く汚れている。こちらももう、息はなさそうだ。
 記念館でのことは別として、プログラム開始から初めて見る死体だったが、それよりも、紗代の目は残りの二人の方に向けられていた。
 仰向けに横たわる金髪の女子転校生。顔は青白くなっており、体の下に敷いた土が血を吸ってどす黒くなっている。死んでいるのが疑わしいほどに穏やかな表情だ。
 そして──すぐ側に、いた。こちらはまだ生きている。それどころか、佐倉真由美の死体の着ているブラウスに手を掛けている。もう一人の転校生、花井崇は死体を貪るハイエナのように背を丸め、佐倉真由美の死体の側にしゃがんでいた。
 言い表わしようのない嫌悪感でいっぱいになり、目を背けたかった。それより何より、その場から逃げるべきだった。しかし──できなかった。
 両手に汗が滲み、背中に抱きつくようにしてついてきている操のことも、気持ちがいいくらいに抜け落ちていた。眼鏡のレンズを通して入ってくるのは、花井の大きな手と、その下にある佐倉の白い肌だけだった。
 
 まざまざと思い出すのは久しぶりのことだった。思い出さないように努めてきたのだから、今ここで思い出すのはばからしいことにも思える。だが、止めたいと思う紗代の意志にはお構いなしに、目の前に広がる光景に引きずられるようにして記憶がよみがえってくる。
 
 小学三年生の夏休み前、いっぱいの荷物で手提げ袋を膨らませながら自宅へ向かっていた紗代の前に、一人の少年が話し掛けてきた。
 少年は近所に住む中学生で、ショウタという名前だったと思う。もっと長谷川姉妹が小さかった頃からの付き合いで、「ショウちゃんショウちゃん」と二人で取り合うようにくっついていたこともあった。
 ショウタが中学に上がってからは、めっきり会う機会がなくなっていた。勉強が忙しいのだ、と紗代は思った。実際紗代には兄がいたが、一回りも歳が離れていたからどうしても親子のような関係になってしまう。ショウタと遊んでいるとその点、本当の兄弟に近いような気がして楽しかった。
 その、ショウタがいつもの調子で紗代を遊びに誘った。久しぶりにショウちゃんと遊べる──無邪気にそう思い、紗代はついていった。
 着いたところはいつもの公園だったが、ショウタは更に紗代の手を引き、敷地の端の方にある倉庫の裏へ連れていった。不思議に思ったけれど、疑う気持ちは微塵も起きなかった。ただぼんやりと、木の葉の隙間から見える黄色い太陽に目を細め、じわじわと響いてくる蝉の声に耳を傾けた。
 誰かが捨てたような、ぽつんと一つだけ置かれている小さな椅子に腰掛け、ショウタが手招きした。
 意図が分からず、紗代はぼんやりしていた。こちらへ来いと促すように手を伸ばし、ショウタが笑った。その、頬の辺りを引き攣らせたような笑みに、ようやく何か違うものを感じ取った。
 紗代の表情に怯えが表れたのに気付いたのか、ショウタは立ち上がって紗代の手を取った。それから脇の下と腿の間に手を入れて抱え上げ、もう一度椅子に座った。
 その後の記憶は曖昧だった。行為よりも、その時の知覚が断片的に頭に残っている。大きな手と、ショウタが着ていた黒い学ラン。それから土の湿った匂いに、じりじりと絞るような蝉の大合唱。
 目を大きく開き、口元を緩ませているショウタの顔は、見たことがないようなものだった。
「誰にも言っちゃだめだよ」
 怖い。
「また遊ぼうね」
 怖い、怖い、怖い──。
 何をされたのかよく分からなかったけれど、それがよくないことなのは分かった。恥ずかしくて、不安で、親にも言えなかった。
 それから何日かして、妹の佳代が青ざめた顔で帰ってきた。それで、ショウタだと直感で分かった。このことは、紗代と佳代だけの秘密になった。その後一度、またショウタの姿を近所で見たけれど、二人で走って逃げた。向こうは”あのこと”がばれるのを恐れたのか、それからは二人に近付かなかったし、長谷川家も丁度よく隣の街へ引っ越した。
 小学校高学年になった時、ようやく、”あのこと”の意味がおぼろげながら分かった。自分が──おまけに、兄弟のように信頼していたショウタに──そのような対象としてみられていたことがショックだった。そして、まだずっと自分は子供だったのだ。そのような子供を相手にしようとする人間がいることが、たまらなく気持ち悪かった。
 二人は地元の小学校を卒業して、大東亜女学園に入学した。中学受験をする子は少なかったけれど、二人はどうしても、男子がいるところには行きたくなかった。
 女子校に入ってからは毎日が幸せだった。制服のスカートは少し苦痛だったけれど(家ではもっぱらズボン。スカートなんて穿かない)、同級生の女の子たちは優しく、あの嫌な思い出がよみがえってくることもなかった。
 
 ──それなのに。

 紗代は、自分の背中がすっかり汗でびしょびしょになっていることに気がついた。
 せっかく女子校に来たのに。なんだって、また、男が──。
 操が言っていた通りだった。目の前にいる男は、死んだ転校生(おまけに前がはだけている)に触れている。これで誤解なんて言われたら、大笑いだ。
 スミスアンドウエスンM29を握る手に力がこもった。いつの間にか、ショウタと花井がだぶって見えた。喉が干上がって声が出せない、恐怖で凍り付いた自分の心を容赦なく削り取っていったあの男を、許すわけにはいかなかった。
 消してしまいたい。
 紗代は両手でスミスアンドウエスンM29を構えた。その時になってようやく、背中にくっついていた操が顔を上げた気配がした。それで、自分のあの忌わしい回想が一分にも満たないものだったと分かった。
「きゃあ」
 背中で操が声を上げた。死体に驚いたのか、花井の行為に驚いたのか──とにかく、やっと目の前の状況に気がついたようだ。紗代としてはもう、そちらはどうでもよかったのだけれど。
 花井が叫び声に反応し、ぱっと顔を上げた。その時に、ちょうど目が合った。ぎらついた目に見えた。あの時見た幼馴染みの顔に、そっくりなようにも思えた。
 佐倉真由美の手からCz-75をもぎ取り、紗代の向ける銃口から逃れるように右に体を捻った。紗代は両手に力を込め、握った。ぱあん、と派手な音がして、銃を持った両腕が上がった。同時に、身体の左側が急に重たくなり、そちらの方によろけた。
 すぐにまた、似たような破裂音。今度は花井が撃ったものだったが、よろけたおかげか当たらなかった。音の余韻を受け止めながら、紗代はどっとしりもちをついた。音と一緒に、自分たちを吊り下げていた糸が裁ち切られたようだった。
 突然の重みは隣にいた操のせいだった。花井が銃を拾ったのを見て、何とかしようと紗代を引っ張ったのだろう。
 それも今は素直に感謝できなかった。冷静に考えれば助けてもらったと分かっただろうが、紗代にそんな余裕はなかった。むしろ、花井に狙いを定めていたところを邪魔されて、いら立ちでいっぱいになっていた。
「さーちゃん!」
 再び立ち上がった紗代に向け、操が叫んだ。
「だめ! 逃げるの!」
 もう一度紗代の左腕にしがみついた。
「うるさい!」
 一喝して腕を振払った。操が小さく悲鳴を上げ、その場に倒れたのが横目に見えたが、注意は完全に花井の方に向けられていた。
 睨み付ける紗代の顔から転がっている三人の死体まで順に見回し、花井が舌打ちした。──そう、全部、わかってる。あんたがやった。あたしが来なかったら、その子たちに何してた?
 もう一度顔を上げた花井が、何かに気付いたように身を低くした。すぐにぱぱぱぱ、という激しい音が聞こえ、紗代の身体がぐらっと揺れた。
 あれ──何──。
 音は一度途切れ、もう一度響いた。その時には紗代の両手、両足は意志と関係なく、軽やかな踊りでも踊るようにそれぞれ好き勝手な方向に動いた。そして、地面に横倒しになった。
 視界が次第に暗くなってくる。一体何が起こったのか、自分は今、どうなっているのか──そんなところを考えたいのだが、言語中枢がうまく働いてくれない。そうしているうちに目の前の光の筋がきゅっとすぼまり、微かな音の余韻と永遠の闇を残して消えていった。



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