57

moving

 水産試験場前の洞窟から十メートルばかり離れたところに立ち止まり、花嶋梨沙(26番)は竦み上がった。
 中村香奈(20番)の制止を振り切って飛び出したはいいが、梨沙は突然起こった爆発音に驚き、その場に棒立ちになったまま動くことができなくなった。香奈もきっと同じだったのだろう。だが、梨沙よりは回復が早かったようですぐに隣に駆けてきた。
「なに……」
 転び出た声が震えていた。
「なにが……誰が……」
 工場に誰がいて、誰がやってきて、どうなったのか。頭の中であらゆる疑問が渦巻き、うまく口では表せそうになかった。
 隣に立っていた香奈もぼんやりと立ち上る炎と煙を見つめていたが、しばらくして右手で口元を覆って梨沙の方に顔を向けた。
「なんか、ガスくさい」
 梨沙は慌てて大きく空気を吸い込み、それから香奈にならって口を両手で隠した。音と映像に夢中になっていた梨沙は、今ようやく何が起こったのか理解しはじめていた。煙の匂いの中に、ガスの匂いが混じっている。
「やばいわ」
 香奈が呟いた。
「何が爆発したのかわからないけど──や、だからやばいんだ。ヘンなものが漏れてたらまずい」
 上目遣いで見上げた梨沙の腕を掴み、香奈が洞窟の方へ歩き出した。
「ヘンなもの、って?」
「わかんない。ヘンなものだよ、とにかく」
 梨沙は香奈の謎かけのような言葉に困惑しながらも、自分ではどうしたらいいのかまだ見当がつかず、引っ張られるままに香奈の後ろをついていった。
「どういうこと?」
「あそこにあるのが何の工場かわかる?」
 梨沙は首を横に振った。香奈がそれをちらと見て、洞窟の中に身を屈めて入った。
「あたしもわかんない。そこがただのお菓子工場とかだったら問題ないんだろうけど、何か人の体に影響あるようなガスが爆発したんだったら、離れた方がいいかもしれない」
 いいかもしれない、と言いながら、香奈の手は荷物をまとめにかかっている。考えには少し感心したが、梨沙はやはり、気になることがあった。
「待って香奈ちゃん。もしそこで誰か、仲間になってくれる人がいて、怪我してたら……」
 梨沙の言葉を最後まで待たず、香奈は首を振った。それに合わせるように遠く微かに銃声が聞こえた。もちろんここから見えるわけもない。だが無意識に二人とも洞窟の入り口に視線を注いでいた。
 しばらく静かになったかと思うと、また銃声がした。間を置いて、まとまった銃声が再び響く。今度こそそれを最後に静かになった。
 梨沙は蒼白になった顔を香奈の方に戻した。香奈も緊張に顔を強張らせている。
 だがその蒼白な顔を見て、香奈は少し誤解したのかもしれなかった。
「やっぱり移動しよう」
 工場へ行きたいということを匂わせた途端に銃声が響き、梨沙はもし行っていたらどうなっていたかと肝を冷やしている──香奈はそう捉えたのかもしれない。
 半分は正しかった。だが梨沙は自分のことだけでなく、井上明菜や西村みずき、相澤祐也のことをも考えていたのだ。先ほどの爆発に巻き込まれたのがそのうちの誰かで、その後の銃撃戦に巻き込まれた中にもいたかもしれない。そう考えて、頭の中が真っ白になりそうになった。
 もうすっかり荷物をまとめてしまった香奈が、ウージーを肩に担いで振り返った。
 さあ。
 そう促すように一歩、梨沙の方へ歩み寄った。
「あたし……」
「気持ちは分かるけど、敢えて危険がある方に行くっていうのは賛成できない」
 香奈が先回りして言った。言葉に詰まった梨沙をしばらく見つめた後、視線を外してため息を一つついた。
「この中にいても、工場に行っても、確実に死ぬと思う。転校生二人がさっきので死んだとは思えないし、そうなるとさっき通った道を戻ってくる可能性もある。さっきは向こうが急いでたから助かったけど、次に通る時は洞窟を警戒するはずだよ。入ってこられたら多分、勝てない」
 花井崇が洞窟の前を通り過ぎた時のことを思い出す。もう一度あの男と対峙しなければならないかと思うと──ぞっとした。香奈の言うように、あの男が死ぬとは到底思えない。
「梨沙ちゃんが死んだら、誰も助からないんだよ」
 梨沙ははっとして、丸めていた背筋を伸ばした。
 見下ろすようにして立っている香奈と、しばらく見つめあうような形になった。
 脱出の方法は相澤祐也しか知らない。その彼を知るのは、梨沙しかいない。その梨沙が死んでしまえば、全てが終わりになる。まさか、残された者だけで祐也と連絡を取り合ってうまくいくなどとは考え難い。
 ここまで決死の覚悟で潜入した祐也のことを思えば、自ら危険の中に飛び込んでいくことはできない。梨沙が巻き込まれたとなれば、彼もきっとやって来る。そして自分だけでなく、祐也の命をも危険にさらしてしまうことになる。
 工場では今まさに死にそうになっているクラスメイトがいるかもしれない。それを思えば、逃げるのはよくない。しかし──香奈が提案しているのが一番安全な策だ。今はとりあえず生き延びる。生き延びて、相澤祐也と連絡を取る。その上でまだ残っているクラスメイトを救うことは充分可能だ。
 ……あたしの命は今、あたしだけのものじゃない。
「わかった、香奈ちゃんと一緒に移動する」
 香奈の表情が和らいだ。何も言わずに梨沙の肩に手を伸ばし、ぽんぽんと叩いた。急に肩の荷が下りたような気分になり、梨沙はほっと息を吐いた。
 
 洞窟から外に出ると、もうだいぶ日が傾いているのが分かった。
 この島に来てから二十四時間ばかりしか経っていないとは思えない。もう何十日もここで過ごしているように錯覚してしまう。実際、普通の人生では経験し得ないようなことばかりが起こっていたせいでもあったのだけれど。
 香奈が空になったペットボトルを取り出し、水産試験場脇の水道に向かって歩き出した。梨沙の水もほとんど残っていなかったので、香奈の隣に並んで順番を待った。
 ペットボトル一杯まで水を注ぎ、香奈が梨沙に水道を譲った。梨沙も同じように空の容器を水で満たしていく。
「あっ」
 背後で香奈が短く声を発した。
「漏れてるわ……どこで傷付いたんだろ」
 香奈の右手にぶら下がったペットボトルから、透明な雫がゆっくり滴っている。どこかでカバンの中のものと擦れて傷付いたのか、あるいは梨沙とぶつかった時に穴が空いてしまったのかもしれない。
「大丈夫?」
 一杯になったボトルの蓋を締めながら、梨沙は香奈に歩み寄った。
「このくらいなら何とか」
 香奈は頷きながら濡れた手を振り、また漏れ出しているボトルの底に手をあてた。
 
「忘れてた」
 歩きながら、香奈が梨沙の方を向いた。空いた方の手でデイパックの中を弄り、デリンジャーを取り出して梨沙に見せた。
 先ほどこっそり盗み見てしまったせいか、梨沙はまたどきっとして、香奈の顔と小さな銃を見比べた。そのうち香奈は、受け取らない梨沙に痺れをきらし、顔の前に突き出してきた。
「はい。これだったら小さいから扱いやすいと思う」
「持っててもいいの?」
「あたし一人じゃ守れないこともあると思うから」
 ようやくそろそろと手を伸ばし、デリンジャーを握った。ずしりと重い。支給されたスタンガンとはまた違った重みに、梨沙は息を飲んだ。
 自分が望んだ、香奈からの信頼の証。香奈が自分のことを信じて銃を預けてくれたのは純粋に嬉しかった。しかし、これはまぎれもなく、誰かの命を奪うこともできる当たり武器なのだ。
「これを、どこで?」
「小松さんの武器だったんだけどね。彼女が死んだ後、千絵がこれで──あたしを危ないとこで助けてくれたんだ。二人とももう、いないんだけど」
 香奈は小松杏奈と柴田千絵の名前を挙げた。久しぶりに思い出す彼女たちの顔に混じって、一緒にいた香奈の笑顔も浮かんでくる。今、一人残された香奈の顔に笑顔はない。
「杏奈ちゃんの……」
 呟きながら梨沙は、ひどく虚しくなった。今口にした名前のクラスメイトはもういないのだ。実感はわかないけれど、これが彼女の遺品、というものになるんだろうか。
 終わらせなければならない。友人たちを奪ったこのゲームを。
 そして、まだ恐怖の中にいるクラスメイトたちを救わなければならない。
 右手に乗せたデリンジャーを強く握りしめ、梨沙は朱に染まる空を見上げた。



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