56

happy-ending

 気がついた時、真由美は高見瑛莉と対称になるように横たわっていた。
 体が異様に重く感じられた。起き上がろうと全身に力を入れているはずが、びくとも動かない。それどころか喉からは、声にもならない程の弱々しい呼吸が漏れるだけだった。
 高見瑛莉に弾丸を撃ち込まれた右胸と背中がひどく熱く、そこに熱を吸い取られたかのように全身が冷たかった。

 ──おんなじだ。

 ぐったりと地面に横たわりながら、真由美は思った。
 おんなじだ。あの時、好きだった男子に斬り付けられて倒れた後と。
 皮肉なことにその時の感覚とそっくりだった。ただ、今回は助かりそうにない。それだけはもやの掛かったような意識の中でもはっきり分かっていた。

 あー。終わりかあ。これで。随分あっけないや。

 薄れて行く意識の中、真由美は唇を歪ませて笑った。笑っていたつもりが、急に涙が溢れだした。恐れていた死が間近に迫っている。それをたった一人で受け入れなければならないのが、たまらなく怖くなった。
 ずっと自分は独りだと強がっていたが、やはり、こんな時は誰か側にいて欲しい。恐怖を追い払うように、真由美は人の顔を思い浮かべようとした。
 一番はじめに浮かんできたのは自分の顔だった。しかし、一瞬それが自分だと気付くのが遅れた。今と全く正反対の、黒髪にポニーテールの少女。

 ──あたしは、どうしてこんなに変わってしまったんだっけ?
 
 プログラムから生還し、東京に引っ越すことになった。両親とはそれからうまくいかなくなっていたけれど、真由美自身は新しく生きて行こうという気になっていた。
 高校では友達が沢山できた。しばらくすると、恋人もできた。友達には話せなかったけれど、彼にはプログラムのことを明かそうと思った。
 ある、雨の日だった。彼を家に呼んだ時、ちょっといい雰囲気になった。その時に言ってしまおうかと思った。しかし、相手は真由美が言い出す前に強引に事を進めようとした。それで──見られた。胸から腹にかけてある大きな傷。
 彼ははじめ、それが何かの冗談だと思ったのだろう。じっと目を凝らしていたが、それが本当に傷跡であると分かると、情けない声を上げて真由美を突き飛ばした。ずっとかっこいいな、と思っていた彼の驚愕の表情は、真由美の心に大きな傷を残した。
 大きな悲しみが去り、しばし呆然とした後、真由美の足はバスルームに向かっていた。そこで、自慢だった黒髪がぎすぎすになるまで色を抜いた。それからは苦手だったメイクで雰囲気を変え、制服も改造した。
 鏡をのぞいた時は、昔の自分がすっかりいなくなってしまったようで悲しかったけれど、あの忌々しいプログラムのことを思い出させる昔の雰囲気を全て消してしまいたかった。
 それから間もなく、噂。
 ”佐倉は遊んでる、めちゃくちゃやばい女”。
 傷を見た恋人が言いふらしたのかもしれないし、もしかしたら、突然雰囲気を変えたせいかもしれない。
 しかし、それで、いい。綺麗なふりをしたって、あのプログラムで傷を負って、それでも生き残った事実は変わらない。絶望されるくらいなら、はじめから何もかも汚い女になってしまおう。そうすれば、だれからも、これ以上、失望されずにすむ。
 それから更に荒れた生活を送るようになった。家にも帰らず、売春もした。汚れた街の一角で、自分と同じような派手な格好の男たちといるのはそれなりに心地が良かった。居場所を見つけたような気になったこともあった。しかし、やはり、心の中に燻っていた孤独感は消えなかった。どんなに荒らんだ生活をしていようとも、誰も真由美と同じ傷を抱えている者はいなかった。みんなそれなりに幸福で、緩慢な平和の中で刺激を求めているだけだった。──寂しいな。みんなの中で一人。あたし以外みんな、いなくなっちゃえばいいのに。
 いつだったか正確な日は覚えていない。ある時、いつものように道ばたに座っていた真由美のところにスーツを着た男がやって来た。年令不詳の、眼鏡だけがいやに目立つ男。汚い街にはおよそ似合わない、高そうな革靴をはいていた。真由美は確か、「援交したいの?」と睨み付けた。それに対して男は笑顔で首を振った。「お話しがしたいだけだよ」、と。
 男は渡辺ヨネと名乗った。政府の役人で、ベテランのプログラム担当教官。真由美がプログラムの優勝者であることも知っていて──いや、知っていたからこそ、探して声を掛けたのだという。そしてヨネから特殊訓練を受けることを勧められた。全てに嫌気が差していた自分は、素直に従うことにした。
 訓練は辛かったが、道ばたでぼんやり座っているよりは張り合いがあってよかった。腕が上がると次第に自信がわいてきて、自分がとんでもなく偉大な人間になったように錯覚することさえあった。人を殺すことへの禁忌も薄れ、やがて、自分が死ぬことも怖くなくなった。その矢先、この女子校のプログラムの話が舞い込んだ。ヨネは強制はしない、と言ったが、真由美は自分から喜んで受け入れた。ヨネの強力なバックアップもあって(あまりに彼が親切なので疑問に思ったが、たずねるとヨネは「真由美ちゃんは俺の昔の生徒によく似てるから、助けてあげたくなるんだよ」と答えた。本当かどうかは、わからない)銃器の扱いには慣れていたし、それを試してもみたかった。それから──長い間苦しめられたことに対する怒りの鉾先が、何も知らずに生活している生徒たちに向けられだしたこともあった。
 
 ──それで今、あたしはここでこうして寝ているわけだ。

 現状を考えると、全てが可笑しかった。どんなに違う人間になったつもりでも、訓練を積んで腕を上げたつもりでも、自分はやっぱり自分だ。肝心なところで爪が甘くてどんくさい。こんなところに来るべきでは、なかったのかもしれない。
 目を閉じた真由美のまぶたの裏、幻覚が迫ってきた。
「佐倉、こっちこい」
 遠くに見える男の姿。目を凝らすまでもなく、よく見知った顔だった。ぼろぼろになりながらも探していた、ずっと会いたいと思っていた男友達。会うことができたら、命があるうちに告白の一つでもしておきたいと思った相手。真由美は吸い寄せられるように男に駆け寄っていた。
 次に現れたシーンは、歪んだ視界一杯に見える、大きな刀だった。その刃先からは、佐倉の血が滴っている。優しく微笑んで手招きしていた男友達は、今や恐怖と興奮に顔を歪めて佐倉を見下ろしている。男は真由美を裏切った。呼び寄せてから斬り掛かったのだ。
 幻覚の中で真由美は声を上げた。──いやだ。どうして。あたしは、あなたと殺しあう気なんかなかった。
 
 ぎゅっと革の擦れるような音がした。それから、人の声。引き戻されるように真由美は覚醒した。
 うっすらと開いた目に、男の顔が大きく映し出された。一瞬、自分が誰で、どこで何をしているのか分からなかった。やはりまた、その男の顔と好きな男子生徒の顔が重なった。だが目の前にいるのは花井崇だった。
「佐倉」
 さくら──。
 紛れもなく自分の名前だった。花井は繰り返し呼んだ。いつの間にかまた、目を閉じてしまっていたようだ。花井が立てていた膝の位置を変えた。真由美のブラウスを遠慮なく剥ぎ取り、傷口に目を落とした。
「だめでしょ」
 真由美は目を閉じたまま言った。花井は何も言わずにブラウスから手を放した。今、花井の目には、つい先程の傷と、二年前の傷が見えているはずだった。古い傷は深く、細長い爪のように伸びて茶色くくすんでいるはずだ。本来なら絶望し、恐怖に打ちのめされるのだろう。しかし、真由美は不思議とそれらを感じなかった。体が浮いて行くようで気持ちがいいとさえ思った。
「ごめん」
 花井の掠れた声が聞こえた。花井の顔が、苦しそうに見えた。何について言っているのか分からなかったけれど、真由美は無理に唇を横に引いた。
「あたしは、死ににきたんだよ」
 だから、花井君のせいではない。残念、ここでゲームオーバー。佐倉真由美選手、惜しくもリタイア。それだけなんだよ。
 続けたかったが、言葉を紡ぐ気力も失われつつあった。
 ぽつぽつと内から語りかける声があった。花井に言いたいことはまだたくさんあった。
「花井君、のは嘘」
 花井が瞬きを繰り返し、真由美の顔を見下ろしている。
「あなたの理由、ほんとは違うでしょ」
 喋っている自分の体と意識が、全く別の場所に行ってしまったようだった。それでも続けた。
「死にたいってのも、殺したいってのも、嘘でしょ」
「……嘘なんかじゃない」
 花井が囁いた。真由美の声に比べ、ずっと強かった。それでまだ花井はずっと生きられるのだ、と確信した。
 ここに来て後悔がなかったわけではない。だが、あのままずっと繁華街を彷徨う生活を続けるよりは、ずっといいような気がした。
 花井と出会ったことで、少しだけ気持ちが楽になった。あの明け方の事務所、花井は何の見返りも求めることなく気持ちごと抱き締めてくれたのだ。
 それに──来てくれた。最後の最後に。
 今にも死にそうだというのに、頬が緩んでしまう。彼がここを偶然に通りがかったにすぎないとしても、今だけは自惚れていたかった。
 男なんて最低だ。あたしを慰めてくれた人はみんな体目当てだった。だけど──三度目の正直。花井崇の抱擁はきっと、真心からくるものだった。信じている。
 ──だから、よかったんだ。花井君に会えて本当に良かった。
 花井の言葉を否定するため、ゆっくり首を振った。
「あたしは、そう、信じてるよ」
 真由美は力なく笑って花井の顔を見つめた。花井に何か反論があるなら聞いてやってもいい。そう思って待つのだが、その一方でひどく眠たかった。──花井君は答えるのが遅いから、それから、時々無視するから……あたしが寝る前に、間に合わないだろうなあ……。

 ……。
 
 暫くの沈黙の後、真由美は静かに息を引き取った。死に顔は、柔らかく笑んでいて、とても穏やかだった。
 傷をさらしたままの真由美の上半身に、花井は再びブラウスを巻き付けた。
 その亡骸の側で、花井は項垂れたまま目を閉じた。



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