53

Jude

「さっ、早く」
 呼び掛けの声に被ってよく聞こえなかったが、蓮見優子(24番)はそう言って河野幸子(5番)を立たせた。
 ハンドマイクで拡張された館山泉(17番)の声が頭上を通り過ぎていく。優子は、さきほどの穏やかな笑顔が嘘のように表情を張り詰めている。
 まだガスタンクの下に突っ立っている幸子を残し、優子は上にいる泉が見える位置まで移動した。
「大丈夫。早く、こっちに」
 招かれるままに優子の側に駆け寄った。泉は、今二人が立っているちょうど反対側の階段にいるようだ。姿が見えない。
 幸子の手を取り、優子が走り出した。

『お願い! いる人、集まって!』

 五十メートルばかり離れた建物の陰に一旦身を隠した。いつもは何ともないであろうこの距離だが、二人の息は弾んでいた。
「優子ちゃん、これ……」
 外してもらった手錠を持ったままだったことに気付き、幸子はそろそろと優子にそれを渡した。優子は一度、手を伸ばして受け取るようなそぶりを見せたが、首を横に振った。
「これは幸子さんが持っていて。はい、鍵も。また誰かがあんなふうな目にあったら嫌だから」
 苦笑したその顔を見て、幸子は少し胸が痛んだ。優子はやはり、瑛莉のことを信じてはいない(それはそうだ、仲間の前で強制ストリップショーをさせる子を、信じられるか?)。
「……そろそろ、あたしは戻らないと」
 優子がまた、寂しそうに笑って幸子の肩を押した。
 だいぶ迷ったが、優子のその顔を見て、思いが口をついて出た。
「優子ちゃんも──」
「え?」
 行こうとしていた優子が振り返った。
「優子ちゃんも一緒に逃げようよ」
 自分に親切にしてくれた子だからか──それとも、どこかで嫌な予感がしたからか。何故か、優子と離れたくなかった。
 両腕を捕まえてきた幸子に笑いかけ、しかし──優子はまた首を横に振った。
「行きたいけど、無理。見張りに行った紗代を一人で置いていくわけにいかないし、今二人でいっぺんにいなくなったら疑われちゃう。ごめんね、ありがとう」
 幸子は泣きそうになりながら首を振った。ごめんね、ありがとう──それは、優子ちゃんのせりふじゃない。あたしが言わなくちゃならない言葉だ。
「ありがとう、ありがとう」
 幸子は何度も礼を述べた。
「ごめんね。あたしが瑛莉とかとこんなんじゃなかったら、迷惑かけずにすんだのに」
「え? そんな……」
 優子は首を振った。ちょっと黙って、それからぽつりと言った。
「あたしは幸子さんが羨ましいよ」
「え? 優子ちゃんの方が羨ましいよ。わたし、いじられてばっかりだし」
 幸子は驚いて顔を上げた。優子は頷いて続けた。
「そうかな? あたしは、そうやって人に構ってもらえる方がいいな。大人しいからとか、遠慮されて距離を置かれるよりはずっといいな。無難な対処しかされないって、ある意味仲間外れみたいで寂しいものだよ」
 言い終わってまた、寂しそうに微笑んだ。幸子はその言葉に大きな衝撃を受けた。全く逆の立場の人間の本音を聞いて、がんと頭を殴られたようだった。
 確かに、全く幸子の立場からは想像し得なかったことだけれど、大人しい子だけ特別に優しくしたり、無難な会話になってしまうというのは、あったかもしれない。そしてそれは、優子が言うように、向こうからしたら距離を感じて寂しいことだったのかもしれない。
 幸子は思いきって、優子に抱きついた。こういうことも、自分と似たタイプの騒がしい子にしかしたことがなかった、気がする。
「わたしは優子ちゃんに遠慮なんかしてないよ」
「ありがとう。嬉しい。……じゃあ、そろそろ行くね」
 優子はちょっと鼻を赤くして、幸子の背中を撫でた。ぽん、と一つ大きく背中を叩き、優子の体が離れていく。ゆっくり背を向けて歩き出した。
 と──不意に、優子が振り返った。
「また会ったら、その時はよろしくね」
 幸子の返事を待たず、優しい笑顔を残して走り出した。今度はもう、振り返らなかった。
 しばらくはそこから動くことができなかった。何がこんなに悲しいのか、幸子には分からない。しかし、涙が止まらなかった。
 ガスタンクに向かって走っていく優子の背中と、かつて出発点で見た仲沢弥生の背中が、だぶって見えた。
 
 そこからまた数十メートル離れたところで幸子は足を止めた。
 どこかで聞き慣れた音が、微かに聞こえたような気がした。夏の夜に微かに聞こえる、花火のような破裂音。

『えっ、何……』

 ハンドマイクを通して聞こえてくる、泉の狼狽した声。幸子は思わず建物の陰から飛び出していた。
 それから『きゃーっ』という叫び声。後半は音がだいぶ小さく、がん、とハンドマイクが何かにぶつかったような音がした。
 一体何が──。
 離れてはいるが、先ほど別れたばかりの優子の姿が見えた。優子も泉の声に反応し、一度上を仰ぎ、急いで階段をのぼりだした。
 ぱん、ぱん、という破裂音が途切れ、ガスタンク付近の建物から何かが飛んできた。幸子は目を細め、その物体を凝視した。
 黒く丸い塊のように見えたそれには、山吹色の棒がついていた。先端に付いた黒い部分を中心に回転しながら、ガスタンクに向かって飛んでいく。
 エメラルドグリーンのガスタンクを地球に見立てるなら、そこに引き寄せられて行く黒い塊は隕石さながらといえた。
 ぼうっとしていた幸子にも、これから先に起こることはだいたい予測できた。とにかく、あの黒いものはよくない。それだけは分かった。
「優子ちゃ──」
 届かないと思いながらも叫んだ。叫びに被さるようにドン、と音が弾け、コンマ数秒遅れて工場付近の空気がぐっと熱を帯びて膨れ上がった。ガスタンクにのぼっていく優子の小さな姿は一瞬で黒くなり、黄色い光の海に消えた。ハンドマイクがキイン、と断末魔の叫びを上げ、その不気味な音色に背中が粟立つ。
 幸子は傍観者よろしく突っ立っていたつもりであったが、遅れて自分の体が宙に浮き上がったことに気付いた。顔や脚、肌の露出している部分を中心に全身が焼かれるように熱くなり、吸い込む空気も燃えている。灼熱の地獄と化した場所では目を開けることすらできず、幸子は爆風にさらわれ、大きくバウンドして転がっていった。
 とうとう敷地内に植わっていた木の付け根に体をぶつけ、動きが止まった。ひどい日焼けをした後のようにひりひりする脚に、風に揺すられた木の葉が降り注いだ。
 ああ、死んだな、わたし──。
 横になったまま、幸子は思った。
 ゆっくりと深く息を吸い──だがすぐにむせ返った。
 吸い込んだ空気は熱く、そして、ガス臭い。多少離れているとはいえ、この距離でガスタンクが爆発したのだから、当然ともいえるけれど。
 幸子は両膝と左手を地面に付き、右腕で口元を覆った。この爆発は、出発地点での謎の煙とは桁外れだ。同じ人物によるものなのか、そうでないのか──。とにかく、一番最悪な事故に巻き込まれたのは確実だった。
 一度は死んだと諦めた体を起こし、幸子は木に寄り掛かるようにして立ち上がった。ガスタンクの残骸と、その近くにある建物は燃えている。地面は剥げ、ガスタンクを中心に不思議な模様を描いている。優子と泉の姿はどこにもない。
 吹き飛ばされる寸前に見た映像が頭にふっと浮かんだ。ガスタンクにのぼって行く優子が黒く焦げ、一瞬にして空気に散ったこと。幸子は痛む膝を手で擦り、ぼんやり立ちすくんだ。
 優子の死を悲しむ余裕はなかった。自分が生きていることを確認することで精一杯だった。
 生き物の気配が全くない焼け野原に立ち、幸子は震えた。──少しでも遅ければ、わたしも危なかった!
 右前方、先ほど黒い塊が飛んできたところとは逆方向に動くものが見えた。幸子は足を引きずりながらも建物に隠れ、現れたものに目を凝らした。そして──大きく目を見開いた。
 高見、瑛莉──。
 セーラー服を熱風にはためかせ、右手にはグロック19を握っている。じっと壊れたガスタンクに視線を注ぎ、すっと目を細めたかと思うと、微かに口角を上げて笑った。
 ”瑛莉さん、何か別の目的があるんじゃないかなって”。
 ぞくっとして、思わず両腕を擦り合わせた。優子のその言葉が、今まざまざと脳裏によみがえってくる。
 理解できない問題の答えをこじつけるように、だが、確かに分かった。瑛莉の計画はこれだった。残った生徒を集めて、まとめて殺すこと──。
 瑛莉がくるっと踵を返し、元来た東の方へ走って行った。
 瑛莉が遠ざかって行くにつれ、幸子の中に熱いものが膨れ上がった。ぼんやりしていた頭に直接差し込まれるように言葉が浮かぶ。
 ──許さない。
 許さない。許さない。優子ちゃんを、殺した! みんなを騙した!
 幸子は拳を握りしめ、走っていく瑛莉の後ろ姿を追った。



【残り11人+2人】

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