52

shape of trust

 まどろみの中にいた意識を、小さな振動が呼び戻した。
 花嶋梨沙(26番)は小さく唸ってから身体を捩った。背中から尻にかけての固い感触が更に、夢の世界へ落ちかかっていた梨沙を現実に引き戻した。手を伸ばし、頭の後ろにある岩に触れた。ひんやりと冷たい。ゆっくりと確かめるように思い出す。
 ここは、水産試験場前の崖に空いた大きな穴。もう四時間ばかりここにいる。
 周囲の様子に気を配ってからようやく、梨沙は自分が起きる原因となった物体をポケットから引きずり出した。待ちに待っていた相澤祐也からの連絡──しかし、待ちくたびれて疲労がたまっているせいか、はじめの頃のような高揚感を持ってメールを開くことはできなかった。
 ゆっくりとメールを開いた。

 >おそくなってごめん。
 >島についた。
 >無事? 怪我はない?


 梨沙はそれでようやく少し元気が出た。携帯電話を両手で握りしめ、胸に抱くように引き付けた。──ああ、やっぱり、相澤さんだ。相澤さんは嘘をつかない。きっと助けてくれる。
 満面の笑みを浮かべながら、梨沙より少し奥の方に座っている中村香奈(20番)を振り返った。心無しか、自分の声が弾んでいる。
「香奈ちゃん、聞いてあのね──あれ?」
 さっきまで黙って地図とにらめっこしていたはずの香奈が、目を閉じて項垂れていた。梨沙はその安らかな表情にぞっとして、思わず香奈の肩を掴んで揺すっていた。宿泊所で見た死体の顔がぐるぐると頭の中でまわっていた。
「香奈ちゃん? 大丈夫?」
 重そうに閉じていたまぶたを持ち上げ、香奈の瞳が梨沙を捉えた。
「ん? ああ……ちょっと、ぼんやり……」
 香奈は言いかけ、途中で口を微かに開き、手の甲でそれを隠した。あくびの後に一息つき、右手で両目を擦った。
「眠いの? 少し寝る?」
 香奈が首を振った。
「いいよ。平気」
 その姿にほっとして、梨沙は苦笑いした。
「そっか。疲れたんだったら言ってね。そろそろ交代で寝た方がいいかもしれないし。そうそれで──」
 思いついて、香奈が握ったままになっていた地図をとった。相澤祐也のことは、口に出すわけにはいかない。これから先は筆談だ。

 ”アイザワさん、島についた!”

 香奈がまだ眠たそうな目を開き、梨沙の顔をちらっと見た。香奈の視線に促され、続けて書いた。

 ”そろそろここの場所を教えた方がいいかな?”

「それとも別のとこに行く?」
 最後は口に出して筆談をさぼった。大丈夫。このくらい、聞かれたってどうってことはない。
 香奈が手を伸ばし、梨沙からペンを受け取った。文字が並んでいく。寝起きだからか、先ほどのものよりも字が崩れていた。

 ”島のどこに? エイセイに写らないでここまで来れる方法があるの?”

 梨沙は何か言おうとして──返答に困った。握った拳を唇に押し当て、香奈の顔を見た。香奈はちょっと首を傾げてから、「ねえ?」と言わんばかりに唇の片端を釣り上げた。
 確かに、その通り。少なくともまだ明るく晴れている今、どのようにして島にやってきたというのだろう。おまけに、よく考えてみたら相澤祐也はこちらからの質問に答えていない。どこにいるのか、どうやって来るのか、全く分からない。
 それはもしかしたら、祐也が警戒に警戒を重ねてのことかもしれない。梨沙たちがうっかり口にしてしまった時のことを考えているのかもしれない。しかし──正直に言ってもう限界だった。脱出という言葉が現実味を帯びてこない限り、心穏やかではいられない。不確かなものをずっと信じていろというのは、そろそろ無理が出てきた。

 ”もう一回きいてみるよ”

 そう書くことで精一杯だった。香奈は曖昧な表情で頷き、また、洞窟の少し奥に下がった。
 
 祐也からのメールを待っているうちにまた、数分が過ぎた。
 梨沙は一つ息を吐いて、香奈の方に目をやった。また、香奈は腕を組んで下を向いて眠っていた。
 白い額に汗が浮かんでいるのを見ながら、梨沙はまた不安になった。ひんやりとした洞窟の中にいられるだけまだいいが、外の気温はやや高い。睡眠も食事もろくにとっていない状況で、体が異常をきたしはじめているとしたら──。
「香奈ちゃん」
 やはり我慢できなくなり、香奈の肩をそっと突ついた。
 香奈はぱっと顔を上げ、何事もなかったかのように(授業中に居眠りがばれた時のようだ。実際、香奈はよく教室でも寝ていた)梨沙の顔を見た。「なに?」と問いかけた声が掠れている。
 明らかに無理をしている香奈に苦笑しつつ、梨沙は香奈の隣に座った。
「ねえ、何も食べてないんじゃない? あたしもだけど……。せめて水だけでも飲みなよ。体、おかしくなっちゃうよ」
 香奈が小さく首を振った。梨沙は香奈の言葉を待ったが、香奈は黙ったまま、また静かに肩を揺らしはじめた。
「香奈ちゃんてば……」
 痺れをきらし、香奈のデイパックを開いた。何か食料があれば無理にでも食べさせようと思ったのだが、梨沙はすっかり体を硬直させていた。
 デイパックの中に、拳銃が二丁入っていた。小振りなものと、少し大きなもの。その他に厚紙に包まれた予備の弾薬、マガジン。
 梨沙はそっと香奈の寝顔を盗み見た。
 これだけの拳銃を所持していることは知らなかった。香奈の武器はてっきり、はじめて遭遇した時にぶら下げていたウージーだけだと思っていた。
 どうして──こんなに。
 言い表わしようのない不安が胸に沸き上がった。そりゃあ、香奈は大勢の生徒が死んだところを見ているのだから、武器を回収していたっておかしくはない。しかし──。
 香奈がうっすらと目を開いた。梨沙は何か、いたずらが見つかった子供のように縮こまってデイパックを閉じた。
「ごめん……」
「えっ? 何?」
 聞き返す声が裏返っていた。だが香奈はその変化には気付かず、あくびを噛み殺して梨沙の顔を見た。
「ごめん、やっぱダメだ。少しだけ、寝てもいい?」
「うん。それがいいよ。あたし、見張るから……」
 喋っている途中で既に、香奈の頭は再び沈んでいた。今までずっと緊張状態が続き、よっぽど眠かったのだろう。
 目の前で眠るということは、梨沙を信用している証拠かもしれない。しかし、梨沙にはどうもそうは思えなかった。現に香奈は、拳銃を所持していることを梨沙に言っていなかった。今もウージーを抱くようにして眠っている。
 話して欲しかった。見張りをすると言った時に、銃を渡して欲しかった。保身のためでなく、信頼の証として。
 だが、香奈が梨沙に警戒を解けないのも無理はなかった。存在するのかも分からない”アイザワ”の、何一つ確かなものがない計画。もし梨沙の出任せだったら──という疑心が、香奈の心のどこかにあるのかもしれない。
 ──だめだめ。あたしも疲れているんだ。
 梨沙は首を振ってため息を吐いた。その音に被さるように、耳鳴りのようなキインという音が微かに聞こえた。

『あー……』

 とっさに腕時計を見た。まだ、放送までは二時間弱ある。それにその声は、担当教官のいきいきしたものではなく、疲れ切ったようなクラスメイトの声だった。
 隣で香奈がぱっと顔を上げた。二人の視線がかち合った。

『今生きてる人、工場に来て! 瑛莉も一緒! 一緒に、何とかしよう!』

 突然声の主が叫んだ。工場──ここからすぐ、水産試験場の隣のエリアだ。
「誰……?」
「わからない。だけど、高見さんが一緒にいるっていったら……」
 香奈が何かに気付いたように言葉を切った。と、思った時、入り口まで出て行こうとした梨沙の頭を抱きかかえて地面に突っ伏した。梨沙は一瞬のことに、窒息しそうになった。香奈のスカートの腰の辺りを握りしめると、ぐんと恐怖感が増した。何が起こったのか分からない。
 頭にまわった香奈の腕の隙間から入り口を覗き見た。金髪の女が、洞窟の前を走り抜けていった。梨沙はすっかり体を硬直させ、香奈の腕の中で息を殺していた。
 
 実際は三分ばかりしか経っていなかったが、何時間も過ぎたようだった。香奈は入り口に目を遣り、それから梨沙の顔を見た。しばらくして大きく息を吐き、梨沙を解放した。梨沙は上半身を持ち上げた。
「今の……」
 今度は梨沙から言葉を切った。気がついた。また、洞窟の中に響いてくるような足音。だんだん近付いてくる。香奈が手招きして再び伏せた。梨沙もすぐに横になった。
 また、ちらっと入り口を見た。今度通り過ぎたのは、黒髪の男──花井崇だった。通り過ぎる瞬間、足音が洞窟の中の空気を震わせた時、一緒になって梨沙も震えた。ほどなく足音は遠ざかっていき、放送の声が再び響いた。

『お願い! いる人、集まって!』

 花井は佐倉真由美を追っていたようにはみえなかった。ただ、それぞれが放送に反応したのは確かだった。 どうか──こんなことを願ってはいけないのかもしれないけれど、あの二人が殺し合ってくれればいい。残っている子たちも助かるし、相澤祐也が危険にさらされることもなくなる。
 残っている子たち──。
 梨沙は勢いよく起き上がって入り口まで行こうとした。すぐに香奈がその腕をとらえた。
「行くの? 梨沙ちゃんも見たんでしょ? 皆川さんが殺されるところ。高見さんの計画だとしたら、行かない方がいい」
「危ないってわかるけど……もし、明菜やみずきがそこにいたら……」
 香奈は黙って俯いた。しかし、首を縦に振ることはなかった。



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