50

two

 木々の隙間から漏れた日光の斑点がちらつき、コンクリートの上を漂い、時折幸子の上履きにも這い上がってきた。少し離れたところに、瑛莉と泉と優子がいる。何か話しているようだったが、幸子のいるところからは内容まで聞き取ることはできなかった。
 まるきりスカートの上にノースリーブだけ着用しているような格好でいるのは落ち着かない。だが、すぐ隣に置かれている上着を取ろうにも、両手が手錠によって拘束されているためにそれを着ることはできない。
 丸いガスタンクに背中を預けていると、かんかんという金属音と微かな振動が体に伝わってきた。見上げると、ガスタンクのまわりをぐるりと囲むように付いている細い階段を泉が登っていっていた。
 幸子の横に突然、優子が姿を現した。驚いて身じろぎした幸子に微かに笑いかけ、優子は静かに隣に腰を降ろした。
「瑛莉は?」
 優子が振り返り、目を細めた。
「今、見張りに……あ、大丈夫、もう行ったみたい」
 何度も瑛莉が行った方角を見遣り、それから白い手の中から小さな鍵を出した。
「手を出して。外してあげる」
「え……」
 ”いいの?”と聞きたかったが、やはり、外して欲しい気持ちの方が先行していた。言われるままに手を伸ばし、優子に手錠の付いた両手を渡した。すぐに、かちっと音がして両手が自由になった。
 両手首に赤い痕が残っている。幸子は両手を握ったり開いたりして、両手の自由を確かめた。
 優子が上着を渡してきた。
「大丈夫なの? 着ても」
 優子が頷いた。ちょっと、申し訳なさそうに、何度も。それで幸子は、改めて上着を着用することができた。奴隷から急にランクアップした気分だ。
 暫く、沈黙がおとずれた。あまり人見知りしない幸子のことだから、きっと、教室で優子に話し掛けたことも何度かあるに違いない。だが、こんな状況で二人きりになると、何を言っていいか分からなくなった。
 そういえばなぜ、先程、優子は自分を庇ったのか。助けてもらえるだけの恩は売ったつもりはない。それとも、幸子が忘れているだけで、優子に感謝されるようなことをしていたのだろうか。
 色白の、どちらかといわれれば薄い顔立ちの優子の横顔を見ながら、幸子は思いを巡らせた。健康的な肌色で、それぞれのパーツがはっきりしている幸子の顔とは、正反対だ。
 優子が幸子の方に振り向いて、口を開いた。
「なんか……変なことになっちゃって、ごめんね」
 反射的に首を振った。とんでもない。優子の言葉がなければ──。
「ううん。優子ちゃん止めてくれなかったら、きっと殺されてたよ」
「そんな……」
 否定しかけて一度黙った。また、言った。
「……泉さんたち、少し、ひどいよね」
 どきっとして、思わず優子の顔を見た。心臓が早く脈打っている。今まで、自分のグループ以外で彼女たちを批判しているのを聞いたことがなかったので。人の悪口で嬉しくなるのはよくないが──今だけは、嬉しかった。
「色々、されてたんでしょ?」
「知ってたの?」
 丸い目を更に丸くして、幸子は身を乗り出した。突然顔を近付けたのに驚いたのか、優子が微かに体を引いた。二度ばかり頷いて、そのまま俯いた。
「見てたらわかるよ。部活でのこととか、聞いたことあるし。教室で泣いてるの、見たよ。あたしもぶっちゃけると、泉さんとか苦手なんだ」
 思い出し、幸子は苦笑した。はっきりと覚えている。事実を知った時の、自分の時間がかちっと止まるような感覚と、遅れてやってくる苦々しい思い。机の上の黄色い筆箱が涙で滲んで、隣にいた海老名千賀子(2番)が驚いて顔をのぞきこんできたこと。

 ある日、部員全員で食事をしたことがあった。食事が終わって日が暮れ出した頃、集まりは解散になった。駅前まで一緒だった高見瑛莉と別れ、幸子はそのまま家に帰った。
 しかし、実は、二次会があったのだ。瑛莉は幸子を帰らせてから他のメンバーと合流し、カラオケに行っていたのだ。何日か経ってそのことを知った時、思わず泣き出してしまった。──なんで、わざわざ、そんなことまでして。どうして。ひどいよ。──そんな風に思った。つい、一ヶ月ばかり前の話だ。

 そこまで思い出して、また悔し涙が出そうになった。一緒に帰った時、瑛莉は全く普通だったのだ。以前のような関係に戻ることができたのかと喜んだのもつかの間、ほどなくどん底まで突き落とされた。あの時の嬉しかった気持ちと、裏切られた気持ちを突き合わせると何とも言えなくなる。
「みんな瑛莉の味方なんだ。向こうはからかってるだけなんだろうけど。ほら、あたし、授業とかで目立つことあるじゃない? 委員に推されたりとか。そういうちょっとしたことで目をつけられたんじゃないかな。それに、大勢集まれば誰かを標的にするってことは、よくあることだし」
 優子は頷いたり、またちょっと、幸子の自信に溢れる発言に首を傾げたりしながらも聞いていた。
「普段は何もされないから、まあそんなに気にしてないよ。弥生とかと一緒にいれば──」
 弥生と一緒にいれば──。
 振り返った後、自分を見て逃げていった弥生の姿がちらついた。随分久しぶりに思い出したような気もするし、ずっと考えていたような気がしないでもない。弥生が昼の放送で呼ばれた時、幸子は呆然とスピーカーを仰ぐことしかできなかった。涙は何故か、出なかった。疲労困憊していた幸子の脳は、それ以上多くの情報を受け付けてはくれなかったのだ。
「どうしたの?」
 急に静かになったのを不思議に思ったのか、今まで黙って聞いていた優子が声を掛けた。はっとして、幸子は一度首を振った。
「これが始まってすぐ、弥生と会ったんだけどさ……逃げられちゃった」
 優子が眉を顰めた。おぼつかない手付きで鞄から、ついさっき泉に割られてしまった鏡を出した。鏡の表面にはいくつか、幸子と弥生が二人だけで写っているプリクラが貼られている。ヒビをつなぎ止めるように貼り付いているそれを撫でながら、幸子は続けた。
「あたし、そんなに信用されてなかったのかな。一年の時から一緒だったのに、疑われちゃったのかな」
「違うよ。そういうんじゃない。弥生さん、きっと怖かったんだよ」
 横からすっと優子の手が伸びてきて、幸子の手を握った。それからゆっくり両手で包んで鏡から手を放させた。鏡の破片で怪我をしないようにという配慮からくるものだったのだが、ただ、幸子はぼんやりとされるがままになっていた。
 視線だけはなお、写っている弥生の上に注がれていた。大きく口を開けてポーズをとっている幸子に対し、写真が苦手な弥生はそれでも精一杯笑顔をつくっている。鏡にこれを貼ると言った時、ちょっと嫌がって、それから照れくさそうに弥生は笑った。彼女とはもう、学校の帰りに寄り道することも、一緒にこうやって笑い合うことすらできないのだ。
「弥生、放送で呼ばれたよね。あの時無理にでも追い掛ければよかったなって……もう、遅いんだけどさ」
 優子はただ、ぶるぶる首を振っていた。その、少し青ざめた顔を見て、幸子は急に我に返った。さっきから優子には、ずっとこんな話ばかりしてしまっている。場違いであっても辛くても、いつものように明るい雰囲気に戻さなければならない。
 目尻にたまった涙を拭い、顔を上げた。
「ごめん、暗いこといっぱい言っちゃった。そういえばさっき、仲間を集めるって言ってた? なんのこと?」
「ああ、そう。瑛莉さんたち、この緑の丸いのの上から、仲間になってくれる人を探すために呼び掛けるんだって」
 優子も少し明るい表情を取り戻した。人さし指を空に向けて立て、ガスタンクを見上げた。幸子も一緒になって、上目遣いで空を仰ぎ見た。
「でも、なんかおかしいんだよ。瑛莉さん……うまくいえないけど、何か別の目的があるんじゃないかな、って。苦手だから勘ぐっちゃうのかもしれないけどさ。さっきだって仲間を増やすっていいながら幸子さんのことを……」
「それはあたしだから」
「ううん。違うよ。そうじゃない。自分で言うのもなんだけど、あたし、そういうのわかるんだ。勘が、えっと、スゴイっていうか……」
「鋭い、ね」
「あ、しまった、そう。勘が鋭いの。だから分かるの」
 くすりと笑った幸子の肩を叩き、優子がかっと顔を赤らめた。見た目の真面目な雰囲気と違い、ちょっと天然なところがあると聞いてはいたが──こんな時にこんな風にそれを笑ったりできるとは思わなかった。それで急に、優子を身近に感じることができた。
「たとえば、どんなことが気になったの?」
 笑顔を半分ばかり引っ込め、幸子が聞いた。
「そうね……うまく言えないけど、呼び掛けを提案したのは瑛莉さんなのに、自分はやらないで見張りに行っちゃったりさ。ほんとは集まってくる人のこと信用できないんじゃないかなって」
 頷きながら、幸子は考えた。優子の予想が正しいとしたら、瑛莉は残った優子と泉を実験台にするつもりなのだろう。だとしたら──。
 考えている途中で、優子が肩を突ついてきた。にっこり笑って、またガスタンクと幸子を交互に見た。
「呼び掛けが始まったら隙を見て逃がしてあげるから、もう少しまってね」
「そんなことしていいの?」
「大丈夫、大丈夫だって。放送が始まって誰か集まってきたら、うまくごまかせるよ」
 優子の提案はありがたかった。優子とならば一緒にいてもよかったが、瑛莉や泉がいるとなればそうもいかない。ここから脱するチャンスが巡ってきたなら、その通りに逃げ出そう。
 しかし、優子の話と瑛莉のことを思うと、果たしてうまくいくだろうか──と、疑わずにはいられなかった。


【残り13人+2人】

Home Index ←Back Next→