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identity

 時計の針が進むにつれ、風が強さを増してきた。海から吹き付ける風は商店街のシャッターを揺らし、がたがたと大きな音をたてている。砂川ゆかり(14番)がついさっきまでいた料理店の先も例外ではなかった。
 ゆかりはプログラム開始からずいぶん混乱していた。クラスメイトたちからは大人しく、落ち着いているという印象を持たれているようだが、当人としては全く迷惑な話で、顔に出なくとも緊張からパニックになってしまうことはよくあった。
 その証拠に今回も、ゆかりは出発してから何も考えずに道の続くままに歩き続け、商店街の一つの店の中にもぐりこんだ。説明を聞いている時は、原田喜美(27番)を待った方がいいかもしれない、と思っていたにもかかわらず。
 ゆかりが出発した時、周囲に人の気配があった。対象はゆかりではなかったようだけれど、誰かを待っているようだった。そこで待つ気まずさと、万が一襲われたらという恐怖から、気が付けばそのまま出発地点から離れ、島の西側へ向かっていた。
 日が落ちてから、ゆかりはようやく落ち着きを取り戻した。喜美を探さなければならない。そう思い、店から出ようとして──悲鳴が聞こえた。
 声はすぐ近くから。女の子の甲高い声。ただし、一度きりだった。それだけでは何が起こったのか分からなかったけれど、ゆかりはそれですっかり、出ていく勇気を挫かれてしまった。
 丸一日近く店の中に潜んでいたことになる。外がいくら騒がしくとも、店には誰も近付いてくる気配はなかったし、食料も十分あった。しかし今、ゆかりはそこに留まるわけにはいかなかった。その快適な場所から出るのには、もちろん理由があった。
 今日の昼の放送の時だった。死亡したクラスメイトの名前が終わり、禁止エリアの途中まで聞いた時、がん、と部屋の奥で音がした。ぼんやりと生ぬるい時間を過ごしていたゆかりを、一気に現実に引き戻す音だった。メモを取るペンを止め、神経をそちらに向けた。恐る恐る近付き──厨房の近くにある窓が薄く開いていることに気が付いた。そこから吹き込んだ風に押され、掛かっていた小さな鍋の蓋が床に落ちたのだ。ほっとするのもつかの間、最後の禁止エリアを全く聞いていなかったことに気が付いた。確か、Cというのは聞こえたような気がする。Cといったら、ここも入っているじゃないか。Cの後は、何と言っていたんだろう?
 無理矢理思い出そうと頭を抱えていたが、とうとう無理だった(そして、最後の禁止エリアはCではなくD=6だったが)。仕方なくゆかりは、Cの付くエリアから出ることにした。

 役に立ちそうなものは、店から調達した果物ナイフ一本だ。もちろん、他にもっと大きな魚をさばくような包丁も見つけたのだけれど、自分が扱えるかどうか怪しいところだったので、そちらは持ってこなかった。だが、どちらにせよ、ゆかりに戦意はほとんどなかった。ナイフを持ち出したのも、ただの景気付けくらいのものであった。
 ゆかりの支給武器は柄付手榴弾というものだった。映画などで見る丸い手榴弾とは違い、その形はマイクか何かのようで、ゆかりにはいまいちピンとこなかった。相手に接近されてからでは使えないし、一つしか入っていないのも痛かった。どちらかといえば、鈍器として使った方が有効かもしれない──そう思う程に。
 岩だらけの海岸に出た。あらためて果物ナイフをしっかり握り、周囲を見回す。見る限りは誰もいないようだ。
 左手に、荒れた海岸には似つかわしくない風貌の建物が見えた。建物というには小さく、どちらかといえば小屋に近い。やたら小奇麗なつくりのそれは、公衆トイレだった。
 森の中のお菓子の家を見つけたヘンゼルとグレーテルか、ゆかりは不思議とそれに誘われるように歩み寄った。本当にトイレなのかどうか、近くで見て確認したくなったのだ。さっきまでいた店の様子からも分かったが、観光名所にもなっているこの島だから、客のために綺麗なつくりのトイレが設置されたのかもしれない。
 忍び足でトイレに近付くと、微かに物音が聞こえる。風のいたずらか──いや、中に誰かが潜んでいる可能性もある。油断はできない。果物ナイフを握る手に汗が滲んだ。
 生理現象は状況に関係なく起こる。他のみんなだっていくら要求にせっつかれたからといって、草むらの中で用を足すのは嫌だろう(ゆかりは民家のトイレで用を足していた。水は流れなかったが、とにかく)。今、トイレの中に誰かがいたとしても不思議ではない。
 じゃあ、これは、チャンス? トイレごと吹き飛ばしてしまおうか?
 ゆかりの頭にふと、残酷な提案が持ち上がった。──いや、それでも確かめる必要がある。誰もいなければ武器は無駄になるし、新たな危険をも呼ぶことになる。
 それに加え、ゆかりは戦いたくなかった。唯一心を許していた原田喜美は昼の放送で名前を呼ばれた。喜美を通して、多少交流があった堀川純(29番)はまだ生きている。今、頼りにできそうなのは彼女しかいない。もし、トイレの中にいるのが彼女だとしたら──。
 彼女という当たりでないにせよ、もっと妥協して、大人しめで安全そうな──とにかく、いきなり攻撃してこないような子なら一緒にいたい。聞きそびれた禁止エリアを聞く必要もある。
 ふと、思い立った。一緒にいたいと思う相手は、ゆかりと一緒にいたいと思ってくれるだろうか。
 自分を振り返ってみる。普段、喜美以外とはほとんど会話しない。授業中にペアを組まされた相手が、授業が終わってから「やりづらいなあ」と他の子に言っているのを聞いたことがある。自分は確かに、井上明菜(1番)高見瑛莉(16番)のように、ぱっと目を引くようなことをしたり、言ったりはできない。身長も体重も平均で、成績まで平均だ。全てが平均で、それ以上でもそれ以下でもない。”普通なだけでは魅力がない。個性がなければ意味がない”。テレビか何かでそんなことを聞いたような気もする。敵になり得るとは思わないが、仲間にするには不十分。だから──だから、出発地点にいたクラスメイトは自分に声をかけなかったのではないか?
 考え事をしているうちに、随分近くまで寄ってきていた。それどころか、トイレの洗面台の前まできてしまっていた。ゆかりの中の自分が、揺らいでいた。自分が何か、見失ってしまいそうだった。顔が見たかった。自分の顔。自分にとっては見慣れている顔。特徴を思い出そうとして──それすらもはっきりと浮かばなくなっていることに絶望した。
 鏡にうつる顔に両手で触れた。知っている顔に少しほっとさせられた。消えかけていたゆかりのアイデンティティはここで復活した。
 鏡の隅にうつった個室のドアが静かに開いた。キッ、と小さな音をたて、ドアが内側に窪む。その隙間からのぞく丸い目が、鏡越しにゆかりと視線を合わせた。
 ゆかりははっと息をのみ、振り返った。果物ナイフを握ったままだった。それが、まずかった。
 ドアが勢いよく開かれ、中から女子生徒が飛び出してきた。おかっぱに近く切りそろえられた髪──それだけ見れば喜美とあまり変わらない──だが、幾分がっしりとした体に金属バットを握っていたのは、横田麻里(38番)だった。
 何か言うより早く、麻里がバットを横様に振った。黄金色の残像がゆかりの頭上を掠め、さっきまでのぞいていた鏡が砕け散った。同時に、ゆかりの取り戻しかけた自信もどこかへ消え去ってしまった。
 ガラスの破片を避けながら、見た。麻里の掛けた眼鏡の奥、黒目をぐるりと囲む白目が血走っているのを。
 麻里が今度は、正面からバットを振り降ろした。ゆかりは短く悲鳴を上げ、果物ナイフを握った腕を前に出した。手に伝わる確かな感触に遅れ、ゆかりの右肩を重りで叩き付けられたような感覚が襲った。ナイフを握る指先まで痺れが伝わり、ゆかりはトイレから転がり出た。麻里がすぐに追った。
 麻里の腕が赤く染まっている。感触の正体はそこだった。だが、動きを止めるほどのダメージにはなっていない。
「待ってっ……なんで……」
 ようやく言葉が出た。麻里は黙っている。荒い息を吐きながら、ゆかりの頭部に狙いを定めている。
 殺される──なんで──あたしは何も──。
 この状況の下、麻里は精神に異常をきたしてしまったのかもしれない。ゆかりを見つめる血走った目が、彼女の狂気を物語っている。怯えて一人でトイレに隠れている時に、ゆかりがやってきた。ゆかりはナイフを向けている。それだけで充分だったのかもしれない。しかし──。
 嫌だ。死にたくない。狂ったクラスメイトに、何の感情も抱かれずに、無個性なものとしてなぎ払われて行くなんて!
 ナイフを握った右手を振り上げた。麻里が大きく体を捻ってそれを躱し、逆にバットでナイフを叩き落とした。キイン、という金属の触れあう音が、ゆかりの目の前を暗転させた。次に現れたシーンは、目の前一杯の光だった。それが夕日を浴びた金属バットが迫っていたのだというところまで、到底理解することはできなかった。ゆかりの顔面にめり込んだバットを持ち上げ、麻里はデイパックを拾い上げようと屈みかけた。
 鋭い銃声が麻里の動きを止めた。二十メートルほど向こうに立つ金髪の女子生徒の姿を認め、麻里は一目散に駆け出した。
 
 顔面を奇妙なお面のように歪ませたゆかりの死体からデイパックを奪い、佐倉真由美は中を開いた。柄付手榴弾一つを自分の荷物に移し替え、デイパックを放り投げた。
「あんた、頑張ったのにね。惜しかったね」
 ほんの少し、苦笑いを浮かべた。意志だけでは生き残れない。いい例だ。
 風に吹かれた金髪を押さえ、真由美は歩き出した。



【残り13人+2人】

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