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eccentric combination

 数十分ほど経った。井上明菜(1番)は廃屋の前にしゃがんだままじっと周囲の様子を窺っていた。
 遠くから聞こえる微かな銃声や爆発音に混じり、すぐ側に人の気配があった。はじめの動きから考え、すぐにここからいなくなるだろうとも思ったが、それはどうやら違ったようだ。向こうも、明菜と同じようにこの辺りに腰を落ち着けようと思ったらしい。
 立ち上がって逃げるわけにはいかなかった。動きを止めたからには、相手も周囲の音に敏感になっているはずだ。
 カッターで傷付けた手首の皮膚が突っ張っているような気がした。ほんの数分のつもりが、何十分も経ってしまっていたらしい。ぎこちない動きで右に付けた腕時計を見ると、もう午後二時をまわっている。
 ああ、もう、なんなの。早くいなくなってよ。
 苛立って腹の中がちくちくしてきた。こうなったらこちらから大きな音を立ててしまった方がいいかもしれない。向こうにやる気がなければ驚いて逃げていくだろう。しかし──やる気だった場合のことを考えると賢明な方法ではない。
 カバンが肩から落ち掛かっていた。直そうと右腕を回した時、痺れた足がいうことをきかなくなり、明菜はふらりと後ろに傾いた。草の生えた地面に手を付き、ひっくり返るという事態を防ぐことは出来た。しかし、付いた右腕からカバンが滑り、勢い良く落ちた。
 明菜は目をつぶり、カバンが立てた音の中身を思い浮かべた。お弁当箱、筆箱、それからこっそり持ってきていた漫画──。
 十メートルほど前の茂みから、ひょこっと小さな頭が飛び出した。頭の高い位置から二つの三つ編みが垂れている。きょろきょろと左右に視線を飛ばし、ついに明菜の方へ振り向いた。
「明菜ちゃん……」
 振り向いた堀川純(29番)の目が驚きで大きく開かれた。ざっと茂みから立ち上がり、そろそろと明菜の方へ寄ってきた。
 純の右手に握られたブローニング・ベビーを認め、明菜はすぐにルガーP08を握りしめた。
「よかった、あたし……」
 純が続けて喋っていた。その表情に敵意は微塵もなかったが、明菜は痺れた足に力を入れて立ち上がり、ふらふらと後ずさって距離を置いた。警戒心をあらわにした明菜を見て、純は一瞬困ったような表情を浮かべたが、すぐにその左手首に目を落とした。
 あ──傷が──。
 視線の動きで分かった。明菜は、背中の辺りがひやりとするのを感じた。
「手……大丈夫? 怪我したの?」
 純の言葉は、明菜が想像したものではなかった。
「平気」
 伸びてきた純の手が触れるより先に、明菜は手首を庇った。純が行き場をなくした手を、ゆっくりと降ろした。目はまだ心配そうに傷の辺りを見ている。
 急に気分が悪くなり、明菜はまた純から距離をとった。今度は純も明菜の態度に気がつき、続けようとしていたらしい言葉を飲み込んだ。
 沈黙が落ちる。
 一秒、二秒……十秒。
 体の前で交差させた両手を動かしながら、純が静かに頭を上げた。何か言うのだろうと思って待っていたが、何も言わない。明菜は頭を垂れたまま沈黙に耐えた。
 今、目の前にいる堀川純について考えた。編んでいても胸より下まで伸びている長い髪に、まっすぐそろった前髪。身長は明菜と同じくらい。だが、明菜と並ぶと男女ペアのようだ。純は山科亜矢子(37番)と同じグループで、ロックやフリフリのレースの付いた服(ゴスロリ、というやつだ。あたしには縁がないけど)が好き。クラスでは明菜と同じく、目立つ方。クラスを仕切ったりしているわけではないのだが、存在感がとてもある。怒ると怖いと聞いたことがあるけれど、明菜からみると優しくて女の子らしい──そんなイメージがある。
 しかし、純と話すのはこれが初めてだ。大人数で会話したことはきっと、ある。だが二人きりで話したと言う記憶はない。──いや、それよりも、こうしているのは実に妙だ。こんなに近くにいてお互いの顔色をうかがって黙っているというのは、居心地が悪いことこの上ない。
 顔を上げた。何か言おう。
「あのさ」
「あのね」
 ほとんど同時に言った。純も驚いたらしく、目を丸くしている。
 明菜は手を前に出し、続きを促した。本当は自分から言うつもりだったのだけれど、いざとなると譲ってしまった。純は少しためらった後、にこりと笑んで頷いた。
「あのね、明菜ちゃんがよかったら、一緒に他の子を探さない?」
 どきっとした。しかし、純の様子からはだいたい予想できたことだ。
「他の子って、例えば? どういうこと?」
 純が考えこむような仕草をしている。聞き方が悪かったかもしれない。
「梨沙ちゃんとか……お昼前くらいに一緒にいたんだけど──」
「梨沙と会ったの? どこで?」
 さっきまでの憂鬱が嘘のように、熱が込み上げてくる。驚いた純が上げた両手を握り、明菜は勢い込んで迫った。梨沙に会えるかもしれない! ──そんな希望を持って。
 しかし、純の表情から、それがほとんど叶わない希望でしかないことが分かった。
「最初、喜美ちゃんや梅子たちと一緒にいたんだけど……急にみんながお互いを疑いだしちゃって、麗未ちゃんが撃ったの」
 表情を強張らせたまま、明菜は黙って聞いた。今、名前が出た者はみんな死んでいる。
「梨沙ちゃんが、撃たれそうになった梅子と千賀子ちゃんを庇って……それ見てあたし、何とかしなきゃって思って、麗未ちゃんと撃ち合いになった。どっちも当たらなかったけど、梨沙ちゃんはすぐ、逃げた。だから今どこにいるのかは分からないんだ」
 また、気まずい静寂が訪れた。さっきまで強く握っていた純の手から手を放し、放す間際、その手が汗で濡れているのが分かった。
 その話は明菜の希望を突き崩すのに充分な破壊力を持っていた。最初から最後まで、悪いニュース。誰か一人が悪いんじゃない。誰もが混乱に陥った時、相手に武器を向ける。
 だが、その悪いニュースの中にも救いはあった。純の話がその通りなら、梨沙は生きている。そして理性を持って行動している。純も、梨沙を助けようとした。
「お昼前だっけ? ならまだ近くにいるかもよ。そこに行こう。梨沙に会えるかも──」
 明菜はそこで黙らざるを得なかった。純が苦しそうに首を振っていた。
「あの後すぐに、転校生の女の子が来たの。あの、金髪の人ね。あたしはすぐ逃げたけど、後ろからずっと銃声が聞こえてた。だから梨沙ちゃんもきっと、どこか遠くへ行ってる」
 新しい希望が目の前で潰され、それを受け入れようと明菜は心の中でもがいた。そんなに物事がうまくいくとは思っていない。だが、いざ知らされると頭から冷静さが抜けていき、やり場のない憤りに身体を固くさせることしかできない。
 つい、一日もしない前、梨沙は明菜の隣で笑んでいた。しかし今はその友達の生死すら自分は分からない。自分の生命も、もちろん。学校をさぼった日を思い出す。どうしてまじめに行かなかったんだろう。こんなことになるなら──それが今、日常の幸せを乞い願う自分に対する罰のような気さえした。
「だけどね……ごめん、明菜ちゃん、泣かないで」
 純が困ったような顔で言った。いつの間にか、泣きそうになっていたらしい。
「ごめんびっくりして……それで、何?」
 ハンカチを取り出し、純は明菜の目もとを拭った。女の子だ、と、場違いにも感心してしまう。明菜は大人しく目を閉じ、純の言葉を待った。
「梨沙ちゃんは生きてるでしょ。だから、きっとまた会えた時には仲間になれる。梨沙ちゃん以外にも、一緒の考えの子、いると思うし」
 頷きながら、明菜はふと、また、先ほど純について考えたことを思い浮かべた。
「純ちゃんは、あたしを信じられる?」
 一瞬、きょとんとして、純はすぐににこりと笑った。
「うん。信じるよ」
「あんまり喋ったことないのに?」
 これはいじわるだったかもしれない。しかし、事実だ。さっきから話していて、どうも純は警戒心が薄すぎると思う。銃を手にして警戒している明菜の傷を心配するくらいだから、相当だ。
「そうだね、だけど──信じるよ」
 辛抱強く、純は頷いた。それで明菜もちょっと笑みを見せた。心を完全に許せたわけではなかったけれど。
「他の子を探してどうするの? 逃げられる計画とかは、あるの?」
 無理と思いながらも聞いた。明菜自身、何度も脱出を考え、その度にそれが不可能だと思い知らされた。まだ中学生の、何の知識もない女の子には何も思いつかないのも無理はなかった。
 純が爪先に目を落とした。明菜も追って地面を見た。青い草とその上に並ぶバレエシューズが、薄汚れて見えた。
「……わかんない。今まで脱出者が出たのって一度だけって聞くし、あたしたちに脱出のチャンスが巡ってくるとは思えない。でも、あたしはこのクラスの子と戦いたくない──絶対殺せない」
 明菜と全く、同意見だった。
「そう……あたしもそう思う」
 今度は明菜から、純に手を差し伸べた。純はすぐに笑顔で手をとってきた。
「やろう。あたしたちに、できるだけ」


【残り14人+2人】

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