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depression

 青く茂る木々の間からの光に目を細め、井上明菜(1番)は頭上に手をかざした。
 島は静寂に包まれていた。それがいつ再び銃声によって引き裂かれるかは、今はわからないけれど。
 明菜は直方体の石の上に降ろしていた腰を引き上げ、スカートについた砂を払った。目の前には白いマリア像が染みだらけの顔をこちらに向けて微笑んでいる。明菜はやはり、それを気味悪いと思ったけれど、移動をしようとは思わなかった。
 D=2とD=3の境に記されている廃屋。鬱蒼とした木々の中にぽつんとある木造一階立ての小さな家。明菜はその玄関先にいた。その家の雰囲気や、前に置かれている石膏はなんとも気味が悪い。しかし、プログラム開始から誰もここを通る者がいないので、ついつい長居してしまっている。
 あたしはみんなを信じてる、か。
 その宣誓を聞いた者が見たら笑うだろう。一人きりで隠れて──それこそ、誰も信用してない証拠と言われたって文句は言えないじゃないか。
 明菜はカバンを探った。必要な物は全てまとめて入れてある。荷物になるのでデイパックは空にして捨ててしまった。カバンからルガーP08を取り出した。
 しばらくルガーの銃口を睨み、それをこめかみの辺りに持ち上げた。トリガーを引いた。かしっと音がしただけで弾は出なかった。
 こうしてしまえたらきっと楽なんだけど。
 弾はまだ入れていない。夜の間から何度かこんなことを繰り返していた。
 明菜は一つ息を吐いて、いつもカバンに忍ばせているピルケースを出した。中にはもう、ほとんど薬が入っていない。こんなことになるとは思ってもいなかったため、薬は最低限しか持ち歩いていなかった。

 明菜の家には弟がいた。その弟が一年ほど前から突然、不登校になり部屋に引きこもるようになってしまった。元来積極的でプラス思考の持ち主だった明菜には、明確な理由もなく部屋に閉じこもっている弟の気持ちが解らなかった。
 ただ家にいるだけならば良かった。しかし弟は、彼の鬱々とした気持ちを家族に当たるようになって来たのだ。最初は気を使い、我慢していた明菜もとうとう黙っていられなくなった。しかし二人が喧嘩になった時、母親が全面的に弟を庇った。あの子は繊細だから、心無い言葉で傷付けてはいけない、と。
 ならば母親が面倒を見ればいい。明菜はそう思うことにした。しかしすぐに、今度は母親の方が精神的に追い詰められていくようになった。
 辛かった。家族がばらばらになっていくことが。そして何もできない自分が、歯痒かった。
 ある時を境に、明菜も精神安定剤や抗鬱剤を飲むようになった。そして誰にも相談できない思いを、自分を傷つけることで解消した。
 リストバンドで隠れた左手首は傷だらけだった。しかし誰も気がつかなかった。リストカットしていること、薬を飲んでいることが知られるのが怖かった。弟のように疎まれ、関わる人を不幸にさせてしまうことが怖かった。
 薬を飲んでいたから学校では気丈に、いつものように振る舞えた。時折ふっと思い出して憂鬱になりそうな時は、トイレで薬を飲んだ。
 花嶋梨沙(26番)は、学校で過ごしている時の自分とそっくりだった。明るくて、積極的でしっかりしていて。しかし彼女もふと、不思議に思いつめたような顔をする時があった。それで──同じ匂いを感じていた。
 何でも言ってね、といつか自分が梨沙に言った。梨沙は「何もないよ、あたし、悩み抱えるほど繊細じゃないよ」と笑った。梨沙がもし自分と似たような闇を抱えているとしたら、分かり合いたいと思った。傷を舐め合えればと思った。しかしその梨沙の返答で、その機会は永久に失われてしまった。

 明菜は手の中で弄っていたピルケースを仕舞った。長期戦になる以上、薬はこれから大切になってくる。慌てて使い切ってしまうことは避けなければならない。それに──今は一人なのだから。無理に明るい気持ちになる必要なんてない。
 たった一人でぼうっとする時間が心地よかった。そういえば、学校と家を往復するだけでいつも人の顔色を窺っていた気がする。
 空いた指が無意識に、吹奏楽部で担当しているフルートの指使いで動いた。
 そうだ。あたしは、卒業したら音楽の学校へ行って、家を出て、一人で暮らす。そうしたいと思っていたんだ。そんな話も梨沙にはしたかもしれない。
 けど、その願いはきっと叶わない。自分を含む家族のほとんどが病んでしまった今、専門学校に行くお金を作る余裕なんてない。それどころか、明菜が職を見つけて家計を助けなければいけなくなるかもしれない。

 それより何より──こんなプログラムに引っかかってしまった。

 ふと、放送で聞いた名前が頭をよぎった。人数こそは多かったけれど、梨沙の名前は呼ばれていない。安堵したがまた、遠くから何度も聞こえるマシンガンの音を思い浮かべた。
 あれは誰だろう。一体誰が、あれを使ってクラスメイト達を死に追いやっているのだろう。
 怒りが込み上げた。D組は意見の衝突も多かったし、去年は色々と荒れていたこともあったけれど、一人一人が思いやりのあるいいクラスだ。喧嘩はしたって、平気で誰かを傷つける人がいるなんて──。
 こんなところに座って怒っていたって、何も変わらないのに。
 ふと頭が冷静さを取り戻した。セーターを着た体が火照っている。明菜はセーターを脱ぎ、伸びた左腕にある赤いリストバンドに目を止めた。
 リストバンドをずらすと、茶色くなった引っ掻き傷が幾重にもできている。他人の腕ならば目を逸らしたくなるところだが、明菜は冷静にその傷跡を眺めていた。
 だめだなあ。あたしは。
 傷を撫でながら、気分が段々また鬱々としてきた。
 誰かを助けに行くこともできなくて、死のうと思ってもできなくて。
 いっそ──。
 右手がカバンの中にあったカッターを探り当てた。チチチ、と刃が出てくる音が耳に届いた。それに重なり、静かだった左手の薮が揺れて音を立てた。
 明菜はびくっと震えて後退した。刃が左手首を掠め、血が滴り出ていたが気にならなかった。周囲を見回し、カバンを手にとった。
 誰かが近くにいる。


【残り15人+2人】

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