39

belief

 薫が右へ駆けるのと同時、雪乃の手の中から火花が飛んだ。薫は一瞬、つい数秒前まで自分が立っていた場所を見た。地面が蜂の巣になっている。頭から爪先まで一気に戦慄が駆け抜けた。
 不幸か幸いか、日下部麗未の死体を見たショックと一緒になり、薫の混乱していた頭は冷静さを取り戻していた。
「雪乃」
 薫はデイパックを持った右腕を持ち上げ、手のひらを雪乃の方へ突き出した。
「真央を探してる。あたしは何も──」
 雪乃は返事の代わりにマシンガンを掲げた。薫も踵を返した。
 ぱぱぱ、と音がした。背中の辺りが熱くなった気がしたが、当たってはいなかった。もはや説得は無理そうだった。
 針葉樹の並ぶ通りから引き返し、脇道に入った。コンクリートの道が緩やかな曲線を描いて伸びている。このまま進むと、枝分かれしている獣道に辿り着く。
 薫は走るのをやめないまま、振り返った。また、雪乃の手元のキャリコが吠えた。左手に生えていた多肉植物の分厚い葉が千切れ、水しぶきが上がった。薫は顔を前に戻した。
 先ほど、振り返った時の光景を思い浮かべた。距離をこれ以上縮められたら確実に当たる。他の生徒ならば逃げ切れる自信はあるが、雪乃は薫と同じリレーの選手だ。速さは互角。マシンガンを抱えて走っている分、雪乃の方がわずかに遅い。しかし薫も、先ほど擦りむいた足が気になって走りに集中できない。
 松──。
 不意に思い出した。本当はもっと早く、その顔を思い浮かべなければならなかったのだが。
 あたしは、最低だ。まっちゃんを巻き込んで、まっちゃんが殺されるって聞いても、一番最初に思い浮かべたのは真央だった。
 松は茶色いフレームの洒落た眼鏡に黒髪で、ぱっと見ると地味で大人しそうに見えた。しかし彼はとても知識豊富で、話していて会話が途切れることはなかった。顔も決して悪くはなく、背も薫と並ぶとちょうどいいくらいで、ほとんど付き合うのには申し分のない相手だった。その彼がある時、何度目かのオフ会というやつの帰りに、薫に言ったのだ。「俺、コウちゃんのこと、好きだ」。
 銃声に遅れてデイパックが跳ね上がった。掴もうとした薫の腕をすり抜け、デイパックが前方に飛び、中から穴の空いたペットボトルが舞い上がった。
 道の端にゆっくりと落ちていくデイパックはうっちゃって、薫は走った。邪魔な荷物がなくなった。かえってせいせいするってもんだ。
 獣道が目の前に迫っていた。とっさに薫は左を選んだ。新緑の香りに混ざって濡れた土の匂いが風に乗ってきた。
 また、振り返る。雪乃はキャリコを下げ、左手に持ったデイパックを探っている。──弾が切れたのだ!
 薫は突然足を止め、それに遅く気付いた雪乃がぎょっとしたように目を丸くした。すぐに雪乃は、薫の胸に顔を埋めるようにぶつかった。しかし、薫は後ろに伸ばした右足で止めた。傷がまた痛んだが、それも堪えた。
 キャリコに掴み掛かった。雪乃も必死に自分の方に引き付けようとし、暫く二人はその場で押し合いをした。薫はキャリコの先を握り、反対側を雪乃の腹に押し付けた。雪乃の顔が歪む。それで力が微かに緩くなった。
 一層力を込めると、雪乃の手は簡単に離れた。薫はキャリコを放り投げ、また走り出した。これで少し、時間が稼げる。
 十メートルほど駆け出してから振り向いた。雪乃は既にキャリコを拾い、片手にはマガジンを握っている。それを込め、再び発砲するまでにどれぐらい時間がかかるだろう。
 すぐにかしっと音がした。薫は振り返らず、それでも相手の準備が整ったことは分かった。マシンガンは距離が近く遮断物がなければ確実に当たる。このままでは背中を撃ち抜かれるだろう。だから──。
 薫は左手の土手に這い上がった。規則的な音と共に弾丸が地面から列をなして薫の後を追った。最後の一発が、まさに薮の中へ逃げようとしている薫の右ふくらはぎを捕らえた。
 撃たれ──!
 そう思ったのと同時に激痛が走った。風邪を引いた時とは比べ物にならない悪寒と震えが全身を包み、薫は薮の中に膝をついた。その時にまた傷付いた膝小僧が痛んだが、やはり、ふくらはぎの比ではなかった。右足が震え、風が吹くたびに傷口から体温を奪っていった。
 背後に気配がした。
 薫はそれで痛む体を起こし、右足を引きずりながら、それでも精一杯前に進んだ。
 逃げる。逃げ、ないと。あたしは死ねない。真央を、守らないと。
 薮をかき分け、海岸線に向かって突き出た崖に出た。足の下が柔らかい土から硬い岩に変わっている。
 突風が薫の体を押した。それで、崖の下を覗こうとしていた薫の体が揺らめいた。踏ん張って体を引こうとしたが、震える右足を折って前に倒れた。
「……っああ!」
 声を上げたのも一瞬だった。体が宙に浮かび、眼下に黄銅色の岩が横たわっている。
 視界が変わった。水色の空に太った雲が浮いている。薫の手が掴む物を探して宙を泳いだ。右手に触れた確かな感触。しかし、脆くなった岩の一部を削り取り、薫は落ちていった。
 崖から覗いた雪乃の顔。空に伸びた自分の汚れた上履き。それから──。
 痛みから逃れるための幻覚か、薫はまた松の顔を思い浮かべた。

 それで──それで、あたしは、何て、言った? 彼に、何て答えた?

 まっちゃんのことは好きだけど、なんていうか、そういう風にみれない。
 多分、そのように答えたと思う。
 何故? なんでだめだった? まっちゃんは、ほとんど理想的な相手だったじゃないか。
 場面が変わった。
 共同ロッカーの内側に腰掛けている薫と、それを覗き込んでいる落合真央。二人の手の中には弁当があった。教室の騒がしさから逃れ、二人だけでよく廊下で食べた。
「断っちゃった」
 薫が、松との出来事を話していた。真央はジャージ姿であぐらをかき、ちょっと考えてから言った。
「なんで? もったいないなあ」
 この時、薫は幾分複雑な気持ちで笑んだのだ。

 なんで? ──そんなことは。ああ、そうか。

 どん、と背中に強い衝撃を受け、薫は目を開けた。
 空を背景に見下ろしている雪乃が、六、七メートルほど上に見えた。落下時間は十秒にも満たないものだったろうが、薫には随分長い時間に感じられた。
 雪乃は一度薫に狙いを定めたが、暫く考えてキャリコを降ろした。すぐに姿が見えなくなった。
 助かった。早く逃げないと。真央を探さなきゃ。
 手の平に硬い感触があった。背中に岩を敷き、薫は横たわっている。何とか持ち上げた右手の爪は割れ、無事な爪の間には岩を掴んだ時に挟まったと思われる土が詰まっていた。
 立ち上がろうとして頭の奥がとろけるような目眩を感じた。何か、音が聞こえた。誰かが何か喋っているようだったけれど、プールで潜っている時のようにくぐもったようにしか聞こえない。
「薫!」
 薫の名前が呼ばれた。今度ははっきり聞こえ、薫は顔をそちらに向けた。
 真央が薫を覗き込んでいた。イメージの中のようにジャージは穿いておらず、セーラー服に身を包んでいる。
「薫……大丈夫?」
 真央。
 真央に向かって手を伸ばした。それを受け、真央が薫の手を握った。体が冷えている中、握られた手だけが暖かく、薫はそのまま目を閉じた。
「死なないでよ……やだ……薫」
 死なないよ。死ぬわけないってば。
 薫は笑んだけれど、声が出なかった。立ち上がろうとする意志を汲み、真央が薫の肩に手を回した。それで薫はふらつく体を真央に預けて歩き出した。
「あっちまで行けば大丈夫だからね」
 真央が指差した先、高さ十メートル以上もある岩が立っていた。その岩の真ん中にはぽっかりと穴が空き、遠くまで伸びた水平線が見えている。
「ずっと、ここに?」
 やっと口をきけた。
「そう。馬ノ洞門。カバンに入ってた双眼鏡で薫を見つけたんだ。薫は?」
 急な階段に差し掛かった。「大丈夫?」と新しい質問を投げかけながら、真央が先に立って薫の手を引いた。薫は痛む全身を引き上げ、考えた。
 水産試験場。パソコン。真央を助けられるかもしれない。けど。
 繋いだ真央の手をぎゅっと握った。ちょうど馬ノ洞門の上に差し掛かったあたり、真央が薫を見上げた。
「どうしたの?」
 薫が泣いているのに気付き、肩に手を置いた。
「どこか、痛い? 怖かったんだね?」
 ボーイッシュな外見とは反対に、真央の心遣いは優しく女の子らしい。そう思うことが普段からあった。
 いつもは「でかい」「チビ」と言ってふざけあうことばかりだったけれど、薫にとって、真央はかけがえのない一人の人間だった。恐らくその存在は、他の友人たちより、松よりも大きなものだった。
 あたしは、彼女がたまらなく愛しいのだ。助けたいのだ。しかしもし、それが叶わないとしたら?
 先ほどの崖から落ちていく真央。雪乃に撃たれる真央──あの、日下部麗未のように? ──嫌だ!
 今度は薫から真央の肩を掴んだ。真央はまた目を丸くしたが、薫が口を開いたのを見て黙った。
「真央、あたし……助かりたかったんだ。真央を助けたくて。なのに……失敗しちゃった。もう助けられないよあたし──」
「薫は頑張ったよ」
 興奮してしゃくり上げた薫の背を撫で、真央が首を振った。薫に何があったのか、きっと分かっていない。しかし何か手にしていた作戦がダメになった、ということくらいは伝わったのかもしれない。
 薫も首を振った。
「いや……あたしは、ダメ。真央が誰かに殺されるのなんて、嫌だ。だから……」
 言葉を切った薫を見上げ、真央が首を傾げた。薫のその、尋常ではない雰囲気を悟り、少し怯えたような表情を見せた。
 真央が誰かに殺されるなんて耐えられない。そうしたら。
 言った。
「一緒に、死のう」


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