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embarrassment

 薄暗い部屋の中、ブラインドから射しこむ光だけが関口薫(15番)に希望を与えていた。今チェックしたばかりの名簿に顔を寄せ、それから静かに顔を離した。
 どうも眠り過ぎてしまっていたらしい。最後に時計を確認したのが午前七時過ぎ。そして記憶が飛び、つい十五分ほど前の放送で目覚めた。
 長い間放置していたせいでマッキントッシュパワーブックG4はスリープ状態になり、インターネット接続も切れていた。慌てて再び接続したが、メッセンジャーに松の姿はない。
 薫は机に伏せ、いら立ちを抑えられずに拳で書類の束を叩いた。すぐにその山は崩れ、薫の伏せた頭の上に降ってきたがそのままでいた。
 朝の放送から六時間。十一人が死んでいる。幸いなことに落合真央(4番)の名前はなかったが、今まさに死にかかっているかもしれない。そして松は、薫が眠ってしまっていた間に戻ってきて、薫がいないのを見て諦めてしまったかもしれない。あるいは信じたくないけれど、やはり関わるのを恐れて逃げてしまったかもしれない。しかし──。
 少なくとも松は、彼は、まだ薫のことを好いている。ネット友達という以上に彼は、薫に入れ込んでいる。普段は決してこのことで驕ることはなかったが、今だけは確信が持てた。松は、あたしをまだ好きだ。こう考えたら傲慢だということは分かっているけれど、だから、彼は戻ってくる。あたしを助けにくる。
 薫は静かに溜め息をついた。
 そうだ。まだその問題が残っている。生きて帰ったなら、松になんと言おうか。あの、何度目かに会った日の帰り道、松の妙に張り詰めた表情が頭に浮かんだ。
 伏せた頭の近くで微かな音が聞こえた。音は続いていた。薫は飛び起き、被さっていた書類が滑って椅子の下へ落ちたが、構うことなく画面に見入った。その音はまぎれもなくメッセンジャーの開始を告げる音で、画面上には待ち焦がれた会話開始のボックスが開いていた。名前は──。

 松>ただいま

 松! ああ、松だ! 本当に?
 薫は泣きそうになるのを堪え、キーボードを叩いた。

 kou>まっちゃん!帰ってきてくれたんだ!それでどうだった?

 緊張しながら返事を待った。帰ってきたからには何か、可能性は低くとも何かしら案があると思っていいだろう。薫は汗がにじみ出てきた手の平を擦りあわせた。
 二分ほど経った。何か準備をしているのかもしれないが、薫は待ちきれずにメッセージを打ち込んだ。

 kou>まっちゃん?
 kou>おーい
 kou>ダイジョブー?落ちた?


 またしばらくの静寂。それから、ボックスの下に相手がメッセージを打ち込んでいるという表示が現れた。大丈夫。彼はいる。ちょっと、神経質になっていた。
 松からのメッセージが現れた。薫はそれを見て、思わず、息を飲んだ。

 松>助からないよ

 メッセージは続いていた。

 松>だけどね、一個だけ方法があるよ
 松>君が助かる方法
 松>知りたい?


 助からないと言われたこと以上に薫は、何か得体の知れない物に抱くような恐怖が膨れ上がっていくのを感じた。薫の返事を待たず、また、メッセージを打ち込んでいるという表示が出た。

 松>友達を殺して
 松>君が一人だけになった時
 松>おうちに帰れるよ


「まさか」
 思わず呟いた。キーボードの上に乗った手が震えだしていた。

 松>そのまさかだよ

 堪え切れずに立ち上がり、薫は狂ったように机の周りの荷物を倒し出した。
 見られている! 聞かれている!
 どこかに盗聴器やカメラが設置してあるはずだ。そして今、画面の向こうにいるのはあの──担当教官だ。
「なんで! どうして!」
 それは薫の理解を遥かに越えた問題だった。夜の間まで話していた松は担当教官に変わり、こちらの声は向こうに筒抜けになっている。
 また、画面から音がした。薫は恐る恐る、乱した髪の間からパソコンを覗いた。新しいメッセージが並んでいる。

  松>驚かせてごめんね
  松>君が手にしたパソコンにはある機能がついてるんだ
  松>君が外部と接触した時、送受信した内容は全てこっちのパソコンで見ることができる。
  松> 残念だけど、まっちゃんには死んでもらうよ
  松>かおるちゃん。殺し合いしようよ。
  松>殺し合いしようよ


 薫は半狂乱になってパソコンを閉じた。それから、コードを引き抜いて床に投げた。白いパソコンの中からはまだ光が漏れていて、遅れてメッセージが届いた音がした。薫は頭を抱え、腹の底から叫んだ。
 ああああああああ。
 駆け寄ってパソコンを踏み付けた。鈍い音と一緒に表面にヒビが入り、光が消えた。大きく肩で息をしながら、薫はその上に座り込んだ。
 暗い部屋の中は蒸し暑く、薫の乱れた呼吸の音が不規則に聞こえていた。
 ──真央。
 ショートカットに小柄な、少年のような姿。一つのイメージが薫の意識を覚醒させた。
 真央。真央。探さなきゃ。真央。
 薫は床に手を付き、立ち上がった。まだ脚が少しおぼつかなかったが、デイパックを取って肩に掛けた。それから急に思い立ったようにドアを開け、出口に向かって走り出した。
 一階のバリケードを壊し、割れた窓から飛び出した。水産試験場の入り口を抜け、条ノ島大橋の前から公園へ続く緩い坂道を駆け上がった。
 真央。あたしにはもう手がない。探して真央を守ることしか出来ない。
 駐車場の段差に躓き、薫は思いきり上半身を打ちつけた。滑らかなタイルの上を体が滑り、指先から薮の方に突っ込んだ。両肘に次ぎ、今度は膝が擦りむけるのが分かったが、それらを突っ張って立ち上がった。今、休んでいる時間はないのだ。
 公園の入り口を突っ切ろうとした時、白いタイルの床にどす黒い色が広がっているのが見えた。薫はちょっと足を止め、戻ってそれを確認し──すぐに目を逸らした。
 顔が穴だらけになった日下部麗未の死体が、すぐそこに寝ていた。吐き戻しそうになるのを抑え、薫は十二時の放送を思い出した。確か、麗未が呼ばれたのは最後だ。
 汗に濡れた背中がすっと冷えた。
 つまり──まだ殺した人間がこの近くにいる可能性も──。
「かーおーるーちゃん」
 突然降ってきた明るい声に、薫はびくりと体を強張らせた。振り向いた先、白い柱の脇から筒井雪乃(18番)がその可愛らしい顔をのぞかせていた。
 口を開けたまま、薫ははあはあと呼吸を荒げた。飛び上がった心臓を抑えるように胸に当てた手から汗が滲んでいる。
 敵意のない証なのか、それとも薫を油断させようとしているのか、雪乃の表情は場違いなくらいに明るい。
 雪乃はにっこり微笑むと、柱から全身を現した。その細い腕の中、キャリコM950がかしっと音を立て、薫の方を向いた。


【残り17人+2人】

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