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past

 香奈がぽかんと口を開けていた。「それは」と言いかけたところを、また梨沙が言葉を挟んだ。
「あたしが小学校の時だった。あの頃のこと、多分ショックで忘れたくて仕方なかったんだと思う。記憶は断片的なものばかりだけど、あたし、確かに死んだお姉ちゃんの顔に触ったの」
 香奈の口元が僅かに引き攣っているように見えた。梨沙は今、さきほどの香奈のように場違いに笑んでいるのだ。
「待ってよ、それじゃあ、姉妹でこのプログラムに……」
「そうだね」
 答えながら梨沙は俯いた。そうだった、姉妹でプログラム。ということは、今、両親はどうなっているだろう。あれだけ姉がいなくなった後頼りにしていた娘が消えて──。
 香奈は何か言おうとして、口を噤んだ。運が悪い、とでも言いそうになったのかもしれない。梨沙自身もそう思う。全く、姉妹そろってプログラムをやらされるなんて、ものすごい確率じゃないだろうか。
「この話するの、初めてなんだ。今までずっとひとりっこのふりしてたから」
 香奈は黙って聞いていた。
「ごめんね、なんか、暗い話になって──」
「いや」
 今度は香奈が遮った。
「どう言ったらいいか分からないけど……初めて知ったよ。すごく、大変だったね。一人でずっと我慢してたんだ。……辛かったんだね」
 香奈はそこまで言って、首の辺りに手を当てて擦った。梨沙はそれでまた、涙が溢れた。
 誰にどんな言葉を掛けてもらっても、過去が変わるわけではない。しかし、誰かに分かって欲しかった。辛かったね、と同調してもらえるだけでよかった。今ようやく、心の中で凝り固まっていたものが溶け出していくようだった。
 今までどんなに友達とはしゃいでいても、クラスが団結したと思っても、心から誰かと分かり合えたと思ったことはない。それは多分、梨沙が自分からラインを引いていたからだろう。話せない、分かってもらえない、そう思っていたのだ。
「ごめん、分かってるんだけど、どう言ったらいいかわからないや。辛かったのは当たり前だよね。ほんと、なんて言ったらいいのか……」
 梨沙はまた首を振った。それから香奈に向かってにっこり笑った。今は、悲しみよりも喜びの方が大きかった。
「ううん。ちゃんと伝わってる。香奈ちゃんに話してよかった。ありがとうね」
 それから思いついて、また香奈の方を向いた。
「悔しいけど、あの教官が言ったこと、間違ってないと思う」
 香奈が首を傾げて聞いた。
「何て言った?」
「ほら、”神様なんていません”、て。あのね、小さい時におばあちゃんがあたしとお姉ちゃんに言ったの。おばあちゃんは死んでも蘭ちゃんと梨沙ちゃんのこと見守ってるよ、悪い人に何かされそうになったら、助けてあげる、って。だけど──」
 一度切って、また泣き顔をつくりそうになる頬の筋肉を引き締めた。
「お姉ちゃん、殺されちゃった。おまけにあたしもこのゲームをやらされてる。だから霊的なもので、少なくとも、あたしたちを助けてくれるような神様や守護霊なんて存在しない。どんな宗教だって、死んだ人に会わせてくれるなんてもの、ないでしょう? せいぜい姿は見えなくても見守ってくれてるとか、この学校らしく言うなら、天国で会えるとか──気休めにしかならないよ。もう聞き飽きちゃった」
 香奈は静かに聞いているようだった。話しているうちにだいぶまた元気を取り戻してきたような気がする。
「だからあたしは信じない。もうそんなのに頼らないことにしたの」
 香奈の顔を見た。顔を上げた香奈と視線がかち合う。
「そのかわりに今は、生きてる人のことを信じることにしてる。こっちもなかなか、悪くはないよ」
 にこりと笑った。香奈もそれを受け、にっと厚めの唇を横に開いた。
「梨沙ちゃん、いいこと言うね」
 頷こうとし、外からぷつんと、スピーカーの電源が入る音がした。
 地図をカバンから出し、香奈が入り口の方に指を差した。梨沙は頷いて一緒に歩いた。

『どうもこんにちは。お昼になったよ。ええ、まず、死んだ人を言うね。三十五番、安原佳織、十番、後藤良子、九番、小松杏奈、六番、河野舞、十三番、柴田千絵』

 ここまでは香奈から聞いた通り。しかし、気分が悪いのには変わりなかった。
 続いていた。

『七番、茅房早苗、二十七番、原田喜美、二十一番、仲沢弥生、二番、梅田夏枝、三番、海老名千賀子、八番、日下部麗未……っはあー! たくさんいすぎて舌噛みそうになっちゃったよ!』

「嘘でしょ?」
 梨沙が顔を上げ、空に向かって呟いた。
「梅子と、チカも? それに麗未ちゃん……じゃあ、麗未ちゃんは、麗未ちゃんの武器は、誰が……」
 香奈はぼんやりしている梨沙を横目で見て、名簿にチェックを入れた。だいぶ迷って最後の最後、柴田千絵の名前の横に薄くチェックを入れた。

『禁止エリアは午後一時からB=2、三時からE=4、五時からD=6。以上。みんな、この調子だとすぐにおうちに帰れそうだよ! このまま頑張ってな。じゃあまた夕方にねー』

 放送が終わった。香奈は静かにチェックの数を数え、梨沙の方を向いた。
「もう残り十九人だ。半分切ってる。まだ一日も経たないのに」
 梨沙はそれを受け、溜め息をついた。六時間で十一人。いくらなんでもペースが早すぎる。二人の話を総合して考えても、やる気になっているのは転校生だけではない。少なくとも、今回の放送で呼ばれた生徒のほとんどは、生徒同士の戦闘によって死んでいる。今のところ危ないと分かっているのは転校生と高見瑛莉、筒井雪乃だが、きっとそれだけじゃない。まだ死んだ生徒の数に見合うだけの殺人者がいるはずだ。
 生きている人を信じ──られるだろうか。
「プログラムがこんなものだとは思わなかった」
 香奈が呟いた。半袖から伸びた二の腕にまだ、茶色い血痕が残っている。
「そうだね。あたしも、こんなひどいのだとは思わなかった。聞いてはいたけど……」
 そこまで言って、梨沙は顔を上げた。そして突然、ずっと疑問に思っていたことが口から出た。
「そういえば香奈ちゃん、一番にプログラムだって気付いてたよね。どうして分かったの?」
 香奈が口を開いたのを見て、紙を差し出した。筆談が必要かと思ったけれど、香奈は受け取ってから「大丈夫」と言ってそのまま紙を脇に置いた。
「うちの父親がまだ学生運動なんてやってた時に、プログラムに対する反対運動にも少し関わっていたんだ。ちょうどあたしの叔母さん──父親の妹が高校生ぐらいだったから、他人事に思えなかったんだろうけど」
「反対運動?」
 梨沙は目を丸くして口を噤んだ。反対運動──それが今でいう反政府組織のようなものだとしたら、聞かれたらまずいんじゃないだろうか?
 香奈は梨沙の考えに気付いたのか、笑って首を振った。
「あたしが生まれるずっと前の話だし、今あるような反政府組織じゃないよ。デモ行進を一度やったくらい、だったかな。それでも拉致する時の情報くらいならなんとか手に入るものだよ」
「今はやめてるんだよね?」
 梨沙が声を低くして訊ねた。香奈は頷いて、表情を引き締めてから続けた。
「最初熱かった父親が手を引いたのは、母親との結婚が決まってからかな。その頃から、反抗するやつに対しては堂々と路上で撃ち殺す、なんてことが当たり前のようになってたみたいだから。今は神奈川の高校で教師をしてる」
 ちらっと梨沙を見た。
「そうやって考えると、津川を恨めないな」
 梨沙は久しぶりに担任の津川の顔を思い出した。津川が自分達を引き渡すことに合意したと聞いた時には、腹が立ったのをおぼえている。
「あの人、子供生まれたばっかだったんだよね。そんな人に生徒を庇って死ね、なんて、言えないよ。うちの父親も、生徒のことはよく考えてるつもりだけど、やっぱり家族を助けるためならなんでもするって言ってた。それに、庇ったところで無駄に死ぬだけだしね」
 梨沙は頷いた。深く、何度も。自分は津川の態度に腹を立てた。普段、あんなに熱血でクラスのことになるとうるさくて仕方ないくらいだったのに、簡単に生徒を渡したと──でもそれはごく当然のことなのだ。
「そう、すっかり忘れてたけど、あたしもあの人だったらそう思う。ほんと、よくできた最低なやり方だよ」
 思わず吐き捨てるように言った。それで二人の間に少し沈黙が落ちた。
「そういえばさ、お姉さん、蘭……さんて言うんだ。可愛い名前だね」
 香奈が話題を変えてきた。梨沙もちょっとそれで気が紛れて頷いた。
「うん。そう。お母さんがね、花とかに関係する名前にしたかったみたいなの。だからあたしも──」
 香奈が考え込むような仕草をした。梨沙はそれでちょっと笑った。
「梨沙の”梨”、一応、ナシって漢字でしょ?」
「ああ、そこか」
 感心したように香奈が笑った。確か、子供の時は姉妹でよく喧嘩になった。何でお姉ちゃんがお花の名前で、あたしが食べ物なの、と泣いたことがあった気がする。
 思い出してポケットに手を忍ばせた。写真はいつもポケットに入れていた気がする。指先に確かな感触があった。
「これ、お姉ちゃん」
 香奈が写真を受け取り、それから梨沙の顔を見た。
「可愛い人だね。梨沙ちゃんに似てるな。やっぱり姉妹だ」
 可愛いと言われて少し気恥ずかしかった。梨沙は手をひらひらさせて笑った。
「やだな、お姉ちゃんは可愛いとかよく言われてたみたいだけど、あたしは全然だよ」
 香奈がちょっと首を振って、それからその写真に写っているもう一人の人物を指差した。
「この人は? お姉さんの彼氏?」
「そう……」
 相澤祐也。
 筆談では知人が助けてくれるとしか伝えていない。梨沙はそれからペンを取り、書いた。

 ”この人があたしたちを助けてくれる、相澤さん”

 香奈がそこでまた、目を丸くした。

 ”お姉ちゃんが死んだプログラムの優勝者”

「……信じられるの?」
 香奈が言いたいのはこうだろう。その姉を殺したのが、この男だという可能性はないか?
 梨沙は頷いた。

 ”この人は今、反政府組織に入ってる。ずっとあたしのことを心配して、助けてくれてる”

 ペンを握る手に力が入った。

 ”だから助けに来てくれる。ゼッタイ”

 香奈が頷いた。それからまた写真に目を落とし、ちょっと首を捻る仕草をした。
「どうしたの?」
「いやあ、なんか……」
 言葉を濁した。目を細めて写真に見入り、すぐに顔を離して写真を梨沙に返した。
「どっかで見た顔だなって。この人。多分勘違いだけど……誰かなあ、芸能人にこんな感じの人、いたかなあ」
 受け取ってポケットに仕舞った。
「知り合い、とか?」
 よくわからないが、不安がよぎった。香奈はまた笑って首を振った。
「違うね。勘違いだ。ごめん」
 すぐに地図を広げ出した香奈の隣、梨沙は黙って祐也の顔を思い浮かべた。四年前、姉の墓の前で見たのが最初で最後。梨沙はそれから写真を送ったりなどしたが、祐也はどんなふうになっているのか分からない。今はただ、写真でのみイメージするしかない。
 あたしは相澤さんに会ってすぐわかるだろうか──。
 幾分不安はあったが、大丈夫だ、と自分に言い聞かせた。それも不確かなことだけれど。


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