35

my sister

 一通り話が済んだ。香奈は小さく伸びをして、岩の上に腰掛けた。梨沙はその、どこか遠くを見ている香奈の顔をじっと見た。香奈は目を伏せて一つ、溜め息をついた。その顔の下、セーターを脱いだ。
 その中から現れたのは、夏服の上着──赤い絵の具で汚したような色のついたそれを見て、梨沙も目を伏せた。
 そのことも香奈は話していた。柴田千絵や小松杏奈のグループがみんな死んでしまったというのにも驚いたけれど、何よりそれを見ていたのは香奈なのだ。これで、普段香奈と親しくしていた者はいなくなってしまった。もうこれで、知っているだけで七人マイナスだ。どんどん減っている。銃声が続いているのだから、更に死者は増えていると考えて間違いない。
「そっちは? 誰か見なかった?」
 香奈が言った。顔はこちらに向けず、俯いたままだ。梨沙に話したことにより、千絵達が死んだところをまざまざと思い出したのかもしれなかった。
 梨沙が香奈に助けられる直前の話はした。しかし、その前の、夜のうちの話はまだだった。まだ誰にも言っていない、恐ろしい光景。少し迷ったが、言った。
「悠が……皆川悠が殺されるところを見た」
 香奈がぱっと顔を上げた。その顔はいつもより白くなっていた気はしたが、泣いたりはしていなかった。
「誰、に?」
「……エリ」
 更に目を丸くして、香奈が身を乗り出した。
「高見、瑛莉?」
「そう。信じられないよ。瑛莉があんなこと……一緒のグループだったのに、悠を……」
 香奈は暫く黙って、それから「そうか」とそれだけ言った。すぐに脱いだセーターを丸めて立ち上がった。梨沙の方を振り向いた。
「水産試験場の脇に水道があったから、ちょっとセーター洗ってくるよ。使えればいいんだけどなあ……」
 最後の方は独り言を言うように、香奈は喋りながら入り口の方へ歩いていった。気のせいか、少し不機嫌そうな顔をしていた。梨沙にはその原因は分からなかったけれど。
 梨沙は携帯電話を持った手を入り口の方へ掲げ、何度か振った。
 香奈と合流してから、相澤祐也からのメッセージはすっかり途絶えてしまっていた。
 もう一度こっちから送ってみようか──香奈ちゃんを仲間に、仲間を見つけたって送ったから、困っているのかな──いやもしかして──。
 ふと頭の中に浮かんだイメージが、梨沙の思考を凍り付かせた。先ほど死ぬ瞬間を見てしまった原田喜美のように胸を染めた相澤祐也の姿。その顔や体つきは、四年前のイメージのままだったけれど、それでも梨沙をぞっとさせるには充分だった。
 もし、もうこの島に来ているのだとしたら。もし、もし──見つかってしまっていたら。殺されてしまっていたら。
 寒くもなく、むしろ外は気が滅入るほど日が照っていたのだが、梨沙は両腕を組むようにして擦った。
 もう一度入り口の方に目を遣った。太陽に照らされた白いコンクリートが目に眩しい。洞窟の中にいるからこそ分からないが、日射しの下に出たら暑くてたまらないだろう。
 香奈ちゃん、遅いな。
 外から微かに水の流れる音が聞こえている。水道は使えたらしい。
 梨沙は伸ばしていた膝を胸に引き付け、そこに顔を伏せた。自分も、それなりに大変なことはあったけれど、また希望はある。仲間に会うことができる。井上明菜も西村みずきも生きている。しかし──香奈はあの時、どう感じたのだろう。たった一人、仲間達の死体に囲まれた時、一体どんな気持ちでそこに立っていたのだろう。
 話をしていた時の香奈の、憂いを含んだ目と、それとは対照的に笑んだ口元が思い起こされ、梨沙は溜め息をついた。
 香奈が泣いたところは見たことがない。富永愛が撃たれた時、振り返った香奈の顔は確かに泣きそうだったけれど、それ以外では。殊に、香奈は普段、仲のいい友達の前以外ではあまり笑ったりしない。だが、話をするようになって分かったのだ。香奈は何も感じていないのではなく、表現していないだけなのだと。
 似ているかもしれないな。あたしたち、背格好も、性格も違うけど。
 あたしはいつから、感情を抑えるようになったんだろうか──。

 真新しい畳の匂いのする部屋に、小さな梨沙が座っていた。目の前には大きな直方体の木箱があり、ふたは閉まっていない。中には白い布と、白い顔をした姉が寝ていた。
 青白くはなっていたが、姉の顔は綺麗だった。顔に傷がついていないことも大きいが、しかし、射殺されたはずが表情はとても穏やかで眠っているようにしか見えない。
 姉の顔に恐る恐る手を伸ばした。触れる決意が固まる前に、背中に何かぶつかってきて、梨沙の意志とは反対に指先が姉の頬に触れた。ドライアイスで凍った頬は冷たく、硬い。もっと小さかった頃に見たロウ人形にそっくりで、思わず指先を引いた。
 背中にしがみついてきたのは母だった。他の親に比べては干渉せず、どちらかといえば姉の方にはあまり関心を払っていなかった母が、この”箱”が来てからは毎日狂ったように泣いていた。
 言葉にならない声で言った。
「お姉ちゃん死んじゃったのよ──お姉ちゃん、いなくなっちゃったの……梨沙、梨沙、もう、あなたしかいないのよ」
 母の涙が首筋を伝い、梨沙の服を濡らした。気に入っていたグレーのトレーナーに黒い染みがぽつぽつと出来上がった。
 人が死ぬ、ということを初めて知った。知識としてはずっと前から得ていたのだけれど、身を持って知ったのはこの時が初めてだった。姉がプログラムに選ばれ、死体が戻ってきて、それでも現実を受け止められず、自室にこもって寝てばかりいた。小学校でも家でも涙は流さなかった。しかしこの時、姉の頬に触れて逃げられない現実を突き付けられ、初めて泣いた。姉は、帰らない。
 葬式を終えた後、すぐに引っ越した。同じ神奈川の中で動いただけだったけれど、梨沙はもう、姉の死について知っている人がいないところへ行きたかった。気丈に過ごしてきた父母はすっかり落胆し、今まで以上に梨沙に執着し、心の支えにしているようだった。
 あたしがしっかりしなくちゃ。泣いちゃだめ。悲しい顔、したらだめ──。
 東京の中学に入り、梨沙はすっかりプログラムを忘れたように過ごしていた。しっかりしなくては、と常に意識していたせいか、すっかりクラスのまとめ役となることが多くなり、しっかり者ではきはきしているというイメージを持たれるようになった。それも、梨沙の思惑通りにだった。悲しい顔をして悟られたくはなかった。人と話している時だけは、明るく振る舞えた。兄弟の話になると、ひとりっこ、と答えていた。
 しかしただ一人、全てを話せる人がいた。相澤祐也とのメールのやり取りが梨沙の心を支えていた。遠慮なく感じたまま話せるのは祐也だけだった。いつか井上明菜に「何でも言ってよ」と言われたことがあったけれど、何もない、と単純で鈍感なキャラクターを演じていた。
 そこまで思い出して、溢れだした涙がスカートに染み込んだ。生前の姉の顔を思い出すことはあっても、あの、冷たい頬はなるべく思い出さないようにと努めてきたのだ。
 
「……お姉ちゃん」
 梨沙の肩を誰かが叩いた。梨沙はびくっと体を震わせ、顔を上げた。そこには脇に濡れたセーターを抱えた香奈が立っていた。心配そうに眉を下げたその顔も、恐らく、初めて見るものだった。
「あ、ごめんね、なんか色々と思い出して。ああ、香奈ちゃん、遅かったね」
 慌てて目もとを拭った。ちょっと黙ってから香奈が隣に座った。梨沙の顔をちらりと盗み見たのが分かった。
「あのさ」
 香奈がゆっくり口を開いた。
「大丈夫だよ」
 その言葉に驚き、梨沙が香奈の方を向いた。それで香奈がちょっと照れくさそうに梨沙の背中に手を置き、顔だけ脇に逸らせた。
「さっき、希望があるって言ったじゃない。だからさ、会えるよ。生きて帰って、お姉さんに会えるよ」
 言い終わって、梨沙の方を向いた。唇をちょっと曲げて、梨沙に同意を促した。しかし──梨沙はとうとう抑えきれなくなり、ぽろりと涙をこぼしてしまった。驚く香奈を尻目に、あとからあとから流れて、その度に梨沙は拳でそれを拭った。
 香奈の心遣いが嬉しくて、だけど、それはもう決して叶うことはなくて。
「や……ごめん、変なこと、言ったかな?」
 ひどく狼狽して香奈が言った。梨沙は何度も首を振った。
「違う──違うの。ありがとう……香奈ちゃん……ありがとう、だけどね」
 顔を上げた。
 言ってしまえ。楽になれ。もう充分我慢したじゃないか。
 本当は友達に一番、話したくて分かって欲しかったんじゃないの?
 心の中、梨沙自身が背中を押した。
「お姉ちゃんにはもう会えない」
 香奈が首を傾げた。
「お姉ちゃん、四年前、プログラムで死んだの」


【残り17人+2人】

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