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passion over living

 ゆるやかに伸びている車道を、西村みずき(23番)は駆け上がっていた。
 たった今見た光景──梅田夏枝と海老名千賀子が転校生の少女に撃ち殺された──から逃げるように、元来た駐車場の方へ走った。走っているうちにまた銃声が一度聞こえたが、みずきは振り返らなかった。
 今激しく動かしている脚だけが頼りだった。リレーの選手というなら他にも落合真央、高見瑛莉、関口薫、筒井雪乃なんかがいるが、彼女達でない限りは追い付かれたりはしないだろう。あの転校生がどれほどの脚力を持っているのかは分からないけれど。
 ゲーム開始後、みずきは商店街を抜け、海岸沿いに進んだ。足場は想像がつかないほど悪く、襲われたら逃げ切るのは難しいと思われたが、誰とも遭遇せずにやりすごすことができた。砂浜にはところどころ、岡の方へ登る道がついていて、みずきはそれらのうちの一つから駐車場付近に辿り着いたのだ。
 仲間になってくれそうな子と会えないだろうか。
 ずっと繰り返し思っていた言葉がまた、頭の中に浮かんだ。幾度となく現れるのは、いつも一緒にいた井上明菜と花嶋梨沙の顔だった。
 明菜は言った。みんなを信じてる。その言葉に嘘はない、と思う。明菜が自らクラスメイトを襲うことなどないだろう。
 教室を出る時、確かに梨沙の視線を感じた。しかし、その時教官が言ったのだ。前に出た、君たちの誰かがやったこと。──怖かった。怖くて怖くて、しかしそれを誰にも悟られまいとして、梨沙の視線を背中に受けることしかできなかった。
 あの時──あの時、梨沙の方を向いていたら何か変わっていただろうか。彼女と会うことはできただろうか。よく考えればわかったはずだ。梨沙だって誰かを襲ったりなんてきっとしない。いつも人なつこい笑顔で、クラスをまとめる時はびしっとやって。──そんな彼女を疑うなんて、どうかしていた。
 明菜も梨沙も、みずきに劣らないほど運動神経はよかった。だからきっと、まだ生きているはずだ。朝の放送からはだいぶ時間が経ち、その間にも銃声は聞こえているけれど、生きているはずだ。
 駐車場の柵を越えたところでみずきは脚を止めた。ここからはどこか別の、林の中に身を潜めた方がいいかもしれない。両手に林が続いている。とりあえず近い方、左側の林を覗き込んだ。随分と急な傾斜が続いている。足を滑らせたらどこまで落ちてしまうか分からない。近くに禁止エリアがあるとしたら危険──。
 地図を取り出しにかかった手がぴたりと止まった。停まっていたライトバンの下から、影のような黒猫が飛び出した。続いてゆっくり、女の子が立ち上がった。
 みずきはすっかり地図のことを忘れ、女の子の方に体を向けていた。振り向いたのはつい先刻、ほんの少しだけ思い浮かべた筒井雪乃だった。
「みずき」
 雪乃がにこりと笑った。その右手にはデイパックと、そしていつも部活で使っているようなテニスラケットが握られていた。違和感があるどころか、懐かしいとすらみずきは思った。その手に握られているもがナイフや拳銃だったなら、もっと危機感を持てたかもしれないが、ラケットを握る雪乃の姿は見なれたいつもの姿と何ら相違ないように見えたのだ。
 雪乃が早足で歩いてきた。駐車場の端についている細い歩道に乗り、みずきとの距離は五メートルほどになった。雪乃が立ち止まった。
「大丈夫?」
 何について言っているのかわからなかったけれど、頷いた。雪乃は爪先から頭までじっくり見た後、デイパックの方へ視線を落とした。
「そう。そっか。よかった」
 表情はあまりなかった。言い方もそうだが、ほんとうに適当、といった顔つきだった。
 雪乃のことを苦手に思っているクラスメイトは多い。わがままで気分屋なところと、大人しめな子に対しては遠慮なく希望を押し付けたりするところを見てそう思われるのだろう。
 みずき自身は雪乃とは小学校からの付き合いだ。しかし、みずきは多くのクラスメイトと軽く付き合っていて、誰とも深い話をしたことがない。雪乃からも掴みどころがないというイメージを持たれていたのだろう。雪乃はあまりみずきに絡んでこなかった。なので、苦手だとは思いつつも彼女に何かされた、ということは一度もなかった。
 テニス部の仲間。今はそれだけの間柄。雪乃は一体、何を考えているのか。
「ね、聞いて」
 雪乃が口を開いた。また顔に微笑みをたたえている。雪乃の黒い目の中、みずきの姿が映っている。女の子にしてはかなり短いショートヘアと、クラスメイト達から羨ましがられる細くて白い体。みずきは自身のその姿をぼんやりと眺めていた。
「あたし、まだ、中学生でしょ」
 頷こうとして、何か妙なことに気がついた。何だ──何が、何がおかしい?
 異常を察知した体は雪乃から距離を置きたくてたまらないというように静かに、後ずさりを始めた。
 続けていた。
「まだ楽しいことだってたくさんあるし、彼氏だってほしいもん」
 雪乃がにじり寄ってきた。
「……だから、あたし……」
 はっとした。違和感の正体が分かった。あたし。”あたし”、まだ、中学生でしょ。あたしたち、と何故言わなかった? ──雪乃は、自分のことだけ、自分だけ生き残ることだけ──。
 気付いた時既に雪乃は目の前に迫っていた。下の方に構えていたラケットがスマッシュの要領でみずきの頭目掛けて振り降ろされた。
 しかし、とっさに腕で止めた。がしっと音がして細い腕に衝撃が走り、思わずみずきは呻いた。ヒビくらいは入ったかもしれない。──あたしはボールじゃないっての!
 怒りが込み上げたものの、よろよろと引き下がることしか出来なかった。右腕を押さえたまま静かに降ろし、雪乃を見た。引き結んだ唇の端から歯をのぞかせている表情は笑っているようにさえ見える。
 ダメだ。筒井雪乃は危険だ。はじめっからやる気だったのだ。
 みずきの仕草に余裕をみたのか、雪乃が再び振りかぶっていた。テニス部でも腕がよく、県大会に出るような見事な動きで、殴るのだ。あたしの頭を、このラケットが、弾き飛ばすのだ──いいや。
 みずきは素早い動きで踏み込んでいた。雪乃の、余裕たっぷりの笑みと、みずきの突然の動きに対する驚愕の混ざった表情が顔の近くを掠めた。腕を上げて受け、逆に掴んで雪乃の顔へ容赦なく突きを入れた。
 雪乃の体が吹っ飛び、ラケットが大きく回転して茂みに投げ出された。雪乃が短く叫び、突かれた顔面を覆った。何が起こったのか分かっていないのだ。
 肩で大きく息をしながら、みずきは呆然と自分の両手を見た。みずきからみても十分、素早く見事な動きだった。
 みずきは小さな頃からバレエを習っていた。それに加え、中学からは合気道も始めて上達してきていたし、その元からの柔らかい身のこなしに磨きをかけていた。とっさに技を出せたのはまさに日頃の成果ともいうべきだが、みずきはまだぼんやりとしていた。日常で技を繰り出し、しかも成功したことなどなかったので。
 雪乃が手を退けた。右の手の平と鼻の間に血が糸を引いている。ようやく自分に起こった出来事について理解したのか、雪乃はざっと立ち上がった。みずきは踵を返し、駐車場内部へ駆け出した。
 雪乃はラケットも持たず、身一つでみずきの後を追った。何も持たず、どう攻撃するつもりなのだろう。みずきは後ろを振り返った。雪乃は鼻血で顎の辺りまで真っ赤にしながら、更に怒りで真っ赤に顔を染めている。
 来ないでよ! 戦う気なんかない!
 先程のようにうまく技が決まるとしたら、みずきの圧勝といったところだろう。しかし、みずきはそうしたくはなかった。戦意喪失どころか、彼女のやる気に油を注いでしまったらしい。
 今地図は出せないのでわからないが、この先は禁止エリアになっている場所があるはずだ。追い詰められてしまっては元も子もない。
 植木を飛び越えようとし──その下に潜んでいた女子生徒を踏み付けるような形で転んでしまった。
「いたああっ」
 遅れて聞こえた悲鳴と、何か黒い箱のようなものが地面を滑り、その向こうに追い掛けてくる雪乃が見えた。
「ごめん!」
 場違いにもそう叫んだ。すぐ姿勢を戻し、ぶつかった女子生徒を起こした。日下部麗未(8番)と目が合った。麗未は一度頭を振り、みずきの背後に目を遣り、口を開けた。みずきも振り返り、すぐに口元が歪んだ。
 麗未の手から離れたキャリコM950を抱えた雪乃がこちらを見ていた。
 銃のことなど詳しくはなかったし、短い、ドラマで見るような拳銃以外の種類が存在することなど知らなかったが、本能が危険だと知らせていた。雪乃が握っているのは、間違いなくピストルと呼ばれるものの仲間だ。
 みずきは左に転がった。激しい音に遅れ、麗未の叫び声と生臭い匂いがみずきに迫ってきた。みずきは立ち上がり、松の植えられた道をジグザグに走った。また一度、銃声がしたが今度は当たらなかった。

 雪乃は一度、麗未の方を振り返り、またみずきの去った方角を見た。みずきの姿はもうない。蜂の巣になった麗未の傍らにあるデイパックを掴み、中から予備のマガジンと説明書を抜き出した。
 最初の獲物は逃してしまったが、思わぬところで有効な武器を手に入れることができた。
 雪乃は顔を綻ばせ、静かにその場を去った。


【残り17人+2人】

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