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faint light

 先を走っていた梨沙が止まり、振り返った。梨沙の前には大きな洞窟のような穴が口を開けている。梨沙は穴の奥へ首を伸ばし、それから中へ進んでいった。とりあえずはここで落ち着くことになりそうだ。
 香奈は入り口に差し掛かった辺りで膝に手を付き、乱れた呼吸を整えた。やはり、長距離は得意でない。
「香奈ちゃん、大丈夫?」
 梨沙が香奈の側に寄ってきた。香奈は一度頷き、また荒い呼吸を繰り返す。返事をする余裕はなかった。
 先程は梨沙を助けたつもりになっていたのだが、いつの間にか梨沙に心配されている。香奈はやっとのことで上体を起こし、額の汗を拭った。
 やっと姿勢を戻した香奈を見て、梨沙は安心したようだ。また前を向いて、洞窟の奥の様子を窺っている。香奈の目は、梨沙の小さな背中を無意識に追っていた。
 女の子だったら、ちょうどこれくらいの身長が可愛らしい。こういうことを言うとたいてい、友達からは「香奈ちゃんくらい背があったほうがかっこいいよ」と言われるが、これといって得をしたことなどない。背が高いなら高いで、関口薫のような子もかっこいいけれど、あいにく、彼女のようなすらっとした体は持ち合わせていない。
 梨沙が洞窟の上を見上げている。香奈も真似て見上げた。何てことはない、崖にぽっかり空いただけの穴だ。地震などが起きれば一発で潰されてしまうだろう。
 入り口からは水産試験場の敷地が見えている。もし鍵が開いているとすれば、絶好の隠れ場所になる。鍵が掛かっていたとしても、もう誰かが鍵を壊して中にいる可能性もある。
「香奈ちゃん」
 梨沙に呼ばれ、香奈は入り口に向けていた視線を中に戻した。梨沙がしっかりとこちらを見据えている。
「どうしてあたしを助けてくれたの?」
 梨沙が首を傾げ、訊ねた。
 どうして──言葉に詰まった。あの時何故、梨沙を撃たなかったのか。何故、置いてこなかったのか。
 ふと、ある光景が頭の中によみがえってきた。
 ──あたしもこのクラスで殺し合いなんか出来ません。
 思い出した。梨沙は、そう言った。香奈が教官に突っかかった時に。
「梨沙ちゃんが、富ちゃんが撃たれた後、助けてくれた。あたしを」
 梨沙が目を丸くして、それから思い出したように苦笑した。
「ああ……あれは、あたし、自分で思ったままを言っただけ。殺し合いなんて嫌だから」
 香奈もちょっと考え、それから言った。
「じゃああたしも同じだ。あの時は動転してたけど、置いていけなかったんだ」
 梨沙が香奈の前に手を差し出した。かつて、香奈が梨沙を起こした時のように。
 首を傾げている香奈にもう一度、手を近くまで差し出した。
「香奈ちゃんに会えてよかった」
 握手、ということらしい。あたしに会えて、よかった? その言い方がくすぐったかったが、香奈も手を差し出し、小さな梨沙の手を握った。
「あー……」
 突然、思い出した。色々なこと。記念館の外であったこと。展望台であったこと。更にそれからのこと。
 梨沙が顔を上げた。
「あのさ、あたしと一緒にいない方が、いいかもしれない」
「ええ?」
 梨沙が神妙な顔つきで言った。それはそうだ。握手を交わしていきなり、一緒にいない方がいいと言われたらわけがわからないだろう。
「梨沙ちゃん一人だったらさ、みんなからの信用もあるし、大丈夫だと思う。だけどあたし、一部の人からこわいって言われたこともあるし、その、あまりいいイメージ持たれてないんだ」
「そんなことないよ」
 梨沙が首を振った。そんなことない。しかし、それは事実だ。香奈も首を振った。
「いや、実際、一人でいる時に突然襲い掛かられたりしたんだ。だから──」
「香奈ちゃん」
 梨沙が遮った。少し黙って、それから顔を上げた。続けた。
「そうかもしれない。実をいうとね、あたしも香奈ちゃんのこと、こわいかなって思ってたことあったの。だけどほら、クラス企画の時、協力してくれたりして……覚えてない?」
 香奈は首を振った。梨沙が「うーん」と唸って笑った。
「とにかく、手伝ってくれたの。その時にも、いいこだったんだなって思って……あ、悪い人とか、思ってたわけじゃないんだ。それとさっき、富永さんが撃たれた時も、怒ってたし」
「富ちゃんが殺されたんだ。黙ってられないよ」
 思い出して少し、怒りが込み上げた。そのぶすっとした表情の香奈とは逆に、梨沙は穏やかな笑みを香奈に送った。
「だからだよ。あたしは香奈ちゃんを信用できる。ね、これだけじゃ分かってもらえないかな?」
 香奈は首を振った。ほとんど無条件に嬉しかった。信用できる、かもしれない。
「ありがとう」
 首を左手で擦りながら──これは香奈がつい、照れくさい時にやってしまう癖だが──言った。
 梨沙が自分のポケットの辺りに手を落とし、それから呆れたように両手を持ち上げた。
「やっちゃった。ない」
「何?」
「カバン。さっきのとこに置いたままだ」
 額に手を当て、梨沙は首を振った。確かに、梨沙は身一つでやぶから飛び出してきた。今からそこに戻ることは、しない方がいいだろう。
「香奈ちゃん、鉛筆と紙、ある?」
「ああ──」
 言いながら取り出した。梨沙はすぐそれを受け取ると、何かを書き出した。香奈には何をしているのか、さっぱり分からない。視線を外の方へ遣った。
 青い空と流れていく雲が見える。日が昇ってきたためか、気温も上がってきている。香奈は着ていたセーターの袖を捲りあげた。暑かったが、夏服には柴田千絵の血が付着している。落ち着いて話をしてから、見せるのが妥当だろう。まだ脱ぐことは出来ない。
 梨沙が肘をつついてきた。暑さで苛々しだしていたこともあり、眉を寄せたまま振り返った。梨沙が先程渡したノートをこちらに向けている。シャープペンシルで書かれた梨沙の丸っこい字が目に付いた。

 ”助かる方法がある”

 助かる方法──というのは、このゲームから──?
「本当に……」
 口を開いた香奈の前に人さし指を遣り、またノートに何か書き出した。

 ”首輪から盗聴されてる。今からは紙に書いて話そう”

 香奈は思わず、首を左右に振った。
 何だって? 首輪? 盗聴? ──あの連中のやりそうなことだが。いや、それより、本当に助かる可能性なんてあるんだろうか。
 梨沙の右手からシャープペンシルを取り、書いた。

 ”わかった。でもどうやって?”

 梨沙は小声で唸り、「説明するのは難しいんだけど」と呟き、また紙に目を落とした。
 小さな丸い字が、紙の上に並んでいく。

 ”あたしの知人に、反政府組織に入ってる人がいるの。その人から、万が一のためにって非常用のケイタイをもらったの”

 知人──ケイタイ──。
 気になることはいくつかあったが、香奈は頷いた。今はいちいち突っかかっている場合じゃない。

 ”仕組みはよく分からないけど、そのケイタイからはどこにいてもその人につながるの”

 稚拙な表現ではあったが、香奈は理解した。むしろ、今は無理にでも理解する他ないのだけれど。

 ”その人につながった”

 香奈が顔を上げた。その目の中をのぞきこみ、梨沙がきゅっと唇を引き結んだ。

 ”何とかして助けてくれるって。だから、希望はあるんだ”

 香奈は頷いた。梨沙がにこりと笑った。だから、安心して。そうでも言いたげな顔だった。香奈も一緒に笑った。しかし──。
 今はまだ心から、というわけにはいかなかった。


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