24

alone

 保房灯台の唯一の扉は閉ざされていた。香奈はとりあえずそれを押したり引いたりしてみたが、びくともしなかった。
 誰かが中から施錠しているのだろうか。
 上を見上げた香奈の耳に、一発、また一発と銃声が届いた。体がぐっと強張ったが、とにかくそのまま姿勢を低くした。振り返り、周囲を見渡した。人影は見えず、狙われているのが自分でないことはすぐに分かった。
 しかしまた、すぐに分かった。音は近い。また単発で聞こえた音は、展望台から聞こえてきているに違いなかった。
 助けなければ。
 思ったが、一歩が踏み出せない。展望台からではない、と思いたかった。カワマイが皆を攻撃する理由がどこにある? あたしと二人きりの時こそチャンスだったじゃないか。
 舞の無表情な顔と、右手に握ったベレッタが頭を掠めた。
 いや──。
 香奈は駆け出した。信じたくなかったけれど、銃撃戦の中に飛び込んで行くことなどしたくなかったけれど。
 それ以上に怖かった。自分を信頼してくれた友達が、やっとできた信頼できる友達が、死んでしまう。
 走った。短距離だけなら少しは自信があった。決して歩きやすいとはいえない岩肌から岩肌へ飛び移り、白い砂に足を取られながらも前進した。
 その間も銃声は続いた。音の質は同じだ。仲間の元には銃が二つ──そうだ、一つはあたしが受け取ってしまっていたんだ。
 喉の奥から熱い息が洩れた。心臓の動機が、緊張だけでなく走ったことによって激しくなっていた。
 階段を上る脚がふらついた。そしてついに、小さな段差に躓いて倒れた。鼻の奥が濡れた土の匂いで一杯になり、場違いに心地よい香りだと思った。
 ウージーを握っていた右の手に擦り傷が出来ていた。よろめきながらも立ち上がった。まだ体がふらふらし、呼吸が耳障りな程乱れている。
 階段を、ほとんど這うように上り切った。そこで一発、銃声がまたした。音が途切れた。顔を上げた香奈のすぐ近く、安原佳織が胸から腹にかけてを染め上げ、倒れていた。
 これは──。
 全身がびりっと痺れ、頭から全身がすっかり麻痺してしまったようだった。すぐに佳織の脇を抜け、展望台に続く階段を駆け上がった。そこには、先程の佳織と同じように胸と腹を打ち抜かれた後藤良子が仰向けに倒れていた。
 白いベンチの脚が壊れ、傾いていた。一瞬、呆然となった香奈の目に、展望台の上へ続いて行く血痕が映った。それを追いながら視線を動かし──一番上に人影があることに気付いた。
 河野舞だった。先程、香奈ににやりと笑みを送った、あの、カワマイが。
「カワ……」
 舞がベレッタを持った腕を浮かせた。何とかしなければ、と頭では思った。だが、体が硬直してしまい、舞の動きを見つめることしか出来ない。
 ドン、と大きな音がして、突然舞の左後頭部が爆発を起こした。香奈が身構える間もない出来事だった。遅れて、舞の握ったベレッタが弾を吐き出し、香奈の足元のすぐ近く、コンクリートに突き刺さった。それには思わず、小さな叫びが洩れた。舞はとっくに死んでいて、痙攣で撃ったにすぎなかったのだけれど。
 舞の体が揺らいだ。一度柵から体を乗り出し、そのまま仰向けに倒れた。倒れる前に舞の頭から頭蓋と脳髄の混ぜ物が滴り、嫌な音を立てた。
 自分の脚ががくがく震えだしたのが分かった。香奈を狙ってきた舞の頭は実に見事に爆発をした。突然まわりを死体に囲まれ、遠いと思っていた死に対する恐怖心がぐっと距離を詰めてきた。
 杏奈ちゃんと千絵は──。
 いないはずはなかった。この状況で、二人が何とか逃げ切ったと思うのは難しかった。スロープの方を回り、駆け上がった。そしてそこで見た。杏奈がこちらに脚を投げ出し、俯いているのを。
 震えで足がおぼつかなくなっていたが、そのまま歩を進めて杏奈に近付いた。胸を撃たれている。杏奈の心臓の動きに合わせ、血が次々と溢れ出していた。恐る恐る青白くなった頬に手を伸ばし、触れた。体の一部はまだ生きている。だがもう、きっと、助けることは出来ない。
 不思議と冷静な自分がいた。頭が少しぼんやりしている感じだった。まだ、何が起こったか把握できなかった。
 背後で微かな音がした。香奈はばっと振り返り、低くした姿勢のまま展望台の上に這って行った。倒れた舞の脚が見えた。備え付けてあった双眼鏡の首が取れ、ただの棒になってしまったものが突っ立っている。音は微かながら、死角になっている舞の隣から聞こえてきていた。
 ウージーを構え、一気に上り切った。だがすぐに香奈は膝から崩れた。
 柴田千絵が、血に濡れた右手にデリンジャーを握り、両手で腹部を抱えながら丸くなっていた。
「千絵」
 千絵が小さく呻いた。香奈はもう一度辺りを見回し、それからようやく全てを理解した。
 舞の通った経路を辿れば分かる。まず、佳織を撃ち、良子を撃った。杏奈もスロープまでは逃げたが、撃たれた。
 香奈は目を閉じた。
 そして、自ら袋小路に入った千絵も撃たれ、最後の最後、背後から舞の頭部を撃ち抜いた。
 あたしが、舞にみんなのことを言わなければ。
 何故信用したのだろう。舞があたしを撃たなかったのは、ウージーにかなわないと思ってやめただけ、ということだったかもしれないのに。
 千絵が大きく息をした。助かるかもしれない。慌てて千絵を抱き起こそうとすると、千絵も香奈の背に腕をまわしてきた。
 二人だけでも生き延びてやる。
 右腕を千絵の体の下に敷き、左手を地に付けて抱き上げた。左腕が体重を支えきれず、ぶるぶる震えた。一度目は失敗。もう一度力を込めた。二人で支えあうような形で立ち上がることが出来た。
 意識が朦朧としている千絵を抱えて歩くのは容易ではないだろう。香奈は展望台から下を見て、公園に設置してあるトイレに目を付けた。とりあえず、そこまで行くことができれば。
 歩く側から千絵の腹部から血が滴った。それが千絵の脚を伝い、何度か滑りそうになりながらも歩いた。
 あれだけ派手に騒いだからには、駆け付けてくるのはいい人だけだとは限らない。いやむしろ、このプログラムで生き残ろうと思っている者ほど騒ぎには敏感になっているだろう。
 一歩一歩が重く、一人で歩けばすぐのはずのトイレがひどく遠い場所に感じられた。
 広い公園の真ん中をふらふら歩く二人は、もし見つかれば絶好の標的になってしまう。
 ようやくトイレの裏に回り込んだ時、ちょっと気を抜いてしまった。すぐに二人でそこに倒れこんだが、一応、すぐに誰かに見つかることはないだろう。
 俯せになった千絵を抱き起こし、トイレの壁に背をつける格好で座らせた。
「千絵、水を……」
 言いかけ、自分がウージー以外に何も持っていないことに気付いた。荷物は全て、展望台に置きっぱなしだった。
 千絵が目を閉じたまま、顔の辺りまで手を挙げてひらひらと振った。唇が動いた。香奈には”大丈夫”と言っているように見えた。
 死ぬのか? このまま?
 ぞっとした。背中からうなじにかけ、鳥肌が立つのが分かった。
 千絵はとても大丈夫そうには見えない。いつもの健康的な色の肌はくすみ、呼吸もゆっくりになってきている。
 セーラーの上着をたくし上げ、腹の傷を見た。そして──静かに目を逸らした。銃弾に傷つけられた腹部は損傷が激しく、内臓がめちゃくちゃになっていた。命どころか、意識があるのも奇跡的だった。
 セーターを脱ぎ、千絵の腹部に巻き付けた。他に、何も役立つ物はなかった。無駄だとは分かっていたが、そうせずにはいられなかった。
 トイレの建物から体を半分出していた香奈の目に、黒いものが飛び込んできた。とっさに身を隠し、それからそっと覗いた。
 転校生の花井崇と、それに遅れて付いてきた佐倉真由美だった。二人は何か話していたようだが、内容を確認するより先に、反射的に千絵の体に覆いかぶさった。
 理由は、よく分からない。千絵を守ろうなどという格好いい理由ではなかった。かくれんぼの時の、鬼に見つかる恐怖に似たもの、かもしれない。
 恐怖が全身を巡っていた。
 あっちいけ! あっちいけ! ──気付かないで。
 いつの間にか、香奈の体は震えていた。そしてその背中を、千絵が優しく擦っていた。多分、きっと、無意識に。

 どのくらい時間が経ったのだろう。時間にしてみれば僅か数分、だが、何時間も耐えたような感覚だった。気がついた時、転校生二人の気配は消えていた。
 トイレの裏に隠れたのは正解だった。
 誰もいないと分かって引き返したのだろうか。
 もう一度様子を見ようと上半身を動かした時、背中にまわっていた千絵の腕がするっと滑った。そしてそのまま、芝の中に柔らかく沈んだ。続いてざっと音がした。
 ゆっくり視線を戻した場所、目の前で千絵が横様に倒れていた。香奈が巻き付けたセーターから、次々に血が溢れ出て小さな水たまりを作り出している。
 千絵は、死んでいた。
 香奈の体はすっかり硬直してしまっていた。手を伸ばし、千絵の肩を揺すった。されるがままに、千絵の体が前後に揺れた。反応などもちろん、なかった。
 死んで──。
 そう認識して初めて、香奈の言語中枢が活動し出した。
 そんな。だって、さっきまでは。嘘だ。なんで。
 頭の中がどんどん白くなっていき、世界がぐるぐる回りはじめた。なんで。どうして──。
 伸ばしていた腕を戻し、跨いでいた千絵の脚の上にぺたんと腰を落とした。全身が脱力していた。
 すっかり空になった頭で理解したのは、自分が全くの一人ぼっちになってしまったということだった。一人だ。本当に。
 突然、全く別の思考が流れ込んできた。
 そういえば、こんな気持ちになったことは前にもあった。中学の入学式、誰も話せる人がおらず、一人、寂しくて心細かった。そこから救い出してくれたのは、他の誰でもない、千絵と富永愛だったのだ。
 抜け殻のようになっていた頭に意識が戻ってきて、ようやく全てを理解した。目の前にあるのは千絵の死体で、自分は一人生き残ってしまった。
 もう一度千絵に手を伸ばした。頬に触れた。まだ、温かい。
 目から鼻にかけてびりっと痺れが走った。引き結んだ唇が震え、閉じたまぶたから涙が零れ出た。多分、富永愛が死んだ時のものとは別物だった。
 恐怖と緊張で凍結していた涙が、次から次へと溢れ出た。ただの興奮から出た涙ではない。
 拳でそれを拭った。転んだ時に皮が擦り切れていて痛かった。だがその時最も痛切に感じたのは、少なくとも、肉体的な痛みではなかった。
 千絵の亡骸の側、香奈はそのまま暫く泣いた。


【残り23人+2人】

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