19

sultry scar

 条ノ島管理事務所のドアが開き、用を足しに外へ出ていた花井が戻って来た。その顔が幾分はっきりと見えたことで、時計が五時をまわったのだと分かった。花井は戻ってくるなりソファに腰を降ろし、静かに脚を組んだ。
「外の様子は?」
「特に変わらない。この辺りには誰もいないだろう」
 ベルトに引っ掛けていたコルトガバメントを持ち、かつての持ち主だった成田文子のデイパックからその予備の弾を抜き出した。薬室に金色の弾丸が詰まっているのが、真由美の立っている位置からも確認できた。花井は先程から念入りに銃を見ている。真由美にはよく分からないが、花井は銃器類の扱いにも慣れているようだった。
「ねえ」
 真由美は花井に呼び掛けた。花井は作業の手を止めて顔を上げた。
「さっき聞いたよね、どうしてここへ来たか」
 思い出すように瞳を動かし、頷いた。ドア近くの壁に寄り掛かりながら続けた。
「あたしも、花井君と同じような理由で来たの」
 花井は黙っていた。会話が途切れるのは気まずいのであまり好きじゃない。続けて喋った。
「あたし渡辺先生に拾われたの。……って、あの人とは別に何でもないんだけどさ。ただこのプログラムに参加しないか、って、紹介されただけ」
 微かに花井が瞳を動かしたのを見て、付け加えた。何となく、その視線の中に二人の仲を勘違いしているような色が含まれている気がしたので。
 更に言った。
「ま、そうねー花井君とだったら、いいんだけど」
 少し間を置いて、花井が真由美を見た。その瞳を見つめ返しながら、にこっと笑んだ。花井は肩を竦めると、またガバメントを手に取った。組んでいた脚も解いた。
 あらら。無視?
 壁から背を離し、花井の方に少し歩いた。夜が完全に明けるまではまだ時間がかかるだろう。闇に溶けた自分の足元を見ながら、またいつもの”病気”が始まった、と自覚した。
「本気で言ったんだけどな」
 軽い口調だった。右手の指先でブラウスのボタンを外すと、あっという間に前がはだけた。近付いてくる気配に顔を上げた花井の目が、すっと細くなった。
 また、にこりと笑みを送った。花井は怪訝そうな表情を浮かべている。
 ま、突然だったらびっくりするわよね。
 歩を進めた。花井の脚にぶつかりそうなくらい近付き、その開いた膝の間にしゃがんだ。花井は黙って真由美の顔を見た。なぜか、怒っているような表情だった。
 花井も白いブラウスだった。一番目のボタンの外れたところから首筋がのぞいている。明かりの下で見たら、真由美のそれより白いかもしれない。そこに右手を伸ばし、触れた。花井の態度や顔色から想像していたのとは全く逆に、生きていると実感できる温かさがあった。そのまま頬の方へ向かって撫でると、長めに伸びた黒髪が揺れた。花井は特に抵抗しなかった。
「花井君って男なのにけっこうキレイなんだ」
 ふふ、と笑った自身の声がまるで別人のように聞こえた。左手を花井の膝に乗せ、腰を浮かせた姿勢で花井に顔を近付けた。肩に乗った髪が垂れ、自身のシャンプーの香りが鼻につく。視界の隅で花井の腕がこちらに伸びてくるのを見た。花井の手が真由美の腕を捕らえた。真由美は、そのまま体を引き寄せるのだと思った。
 しかし、花井はあろうことか力任せに真由美の体を押し返したのだ。バランスを崩したまま後退し、テーブルに躓いてしりもちをついた。床に着いた背中がひやりとした。
 そして、見た。花井がソファから立ち上がり、真由美を見下ろしていた。真由美の行為を軽蔑しているような眼差しだった。恥ずかしさと思い通りにならないいら立ちで、真由美は自分の顔が一気に熱くなるのを感じた。
「なによ。あたしとしたくないの?」
 自分で口にして、みっともない言葉だと思った。ただ、その惨めさ故に感情が高ぶっていた。
「何のことだ」
 花井が冷たく返した。何のことだ。そう、確かに、別に彼がしたがってたってわけじゃあないもの。
 椅子に掛けておいた学生服の上着を取り、真由美の脇を抜け、花井は真直ぐにドアの方へ歩いた。出ていくのだ、とすぐに分かった。思った途端、どうにもならなくなった。
「待ってよ」
 花井がドアの取っ手を捻った。
「待ってってば。行かないでよ」
 これじゃあまるきり、ありがちなドラマの台詞だ。子供のわがままのようでもあり、逆に全てを知り尽くした大人の言葉のようでもあり──真由美自身、自分から発せられた言葉に辟易した。だがその通り、出ていってほしくはなかった。
 足を止め、花井が振り返った。その仕種だけでも、真由美にとっては救いそのものだった。
 出ていってほしくない。一人になりたくない。もう、誰にも拒まれたくない。
 花井が困ったような顔を向けている。視線に促されて触れた自分の頬が濡れていた。それで初めて、自分が泣いていることに気がついた。花井は混乱しているだろう。自分ですら、自分の感情の変化についていけないのだから。
 花井がこちらに歩み寄ってくる気配がした。恥ずかしくて、だが、無意味に悲しくて、真由美は両手で顔を覆った。
「本当はどうしてここへ来たんだ?」
 花井が尋ねた。
「さっき……言ったでしょ」
 恥ずかしさから少し言葉がきつくなった。花井がまた、動いた気配がした。そっと手を外して見ると、花井がしゃがんで、真由美の方を見ていた。さっきとは全く逆に。
「どうしてあの教官に拾われたんだ? どうして参加を決めた?」
 どうして──?
「あたし……」
「まず服をちゃんと着てくれ」
 花井が遮り、真由美の胸の辺りを顎で指した。真由美は何か言うよりも早く、ブラウスで胸元を庇った。それから花井の顔を見た。先程よりも表情が良く見える。いつの間にか明るくなり出していたのだ。思った途端、ぬるい冷や汗が出るのを感じた。
 見られたかもしれない。それで──。
「見たんでしょ」
 花井が何か言おうとしたのを遮って続けた。
「気持ち悪いと思ったでしょ」
 語尾が震えた。花井が静かに首を振った。
「何も」
「……胸にね、傷があるの」
 ブラウスを握りしめながら、ゆっくり口を開いた。この話を人にするのは、恐らく、初めてだった。自分で思い返すのも気分が悪くなるような、人生を狂わせた傷の話。
「あたしがプログラムに参加した時のなんだけど」
 花井が頷いた。
「斬り付けてきたのはね、好きな人だった。勘違いかもしれないけど、結構いい感じだったんだ。なのに」
 そこで思わず笑った。乾いた笑い声が少し、部屋の中に響いた。
「なのに、ひどいよねえ。会っていきなりだった。ゲームもかなり終盤だったかな。あたしはそこで倒れて、気がついたら病院。多分、そいつも含めた残り数人がうまく相討ちになったんだろうけど」
 花井が床を見つめたまま、じっとしていた。続けた。
「家に帰ったの。だけど親は喜ばなかった。人を殺した子供って目で見られた。それでも何とか、こっちに越して来て、あのことはみんな忘れてしまおうと思った。──それで、最初は楽しくやってたの。新しく好きな人もできて、その人になら傷のことも話せるんじゃないかって思ったの」
 目線を上げた。花井も顔を上げた。多分、その否定的な含みを感じ取っているはずだ。
「でも傷見て、あたしを突き飛ばした」
 花井の口元が、神経質にぴくりと歪んだ。
「サイッテーでしょ? あんなやつね、ただやりたいだけだったの」
 話していて息苦しかった。しかし、まるで他人事のように明るい口調になっていた。今、顔だけは笑っているだろう。花井の神妙な顔つきから見ても、自分の表情は場違いだ。
「もう”病気”かなって思うの。多分、こんな病気ないんだけどさ、一人になりたくないの。繁華街とかにいけば、いくらだって一緒にいてくれる人、いるでしょう? 暗いとこでしたら傷だって見えないし──」
「そんなのは……」
「わかってんの!」
 大声が出た。花井が目を丸くしていた。また、ぽろっと涙がこぼれ出た。
「わかってんの。いいことだなんて思ってないし、いつもそれが終わると、虚しくなるし──でも、誰かに受け入れられてるって思えないと、我慢できなくて……」
 しゃくり上げる声が耳に届き、また情けない気持ちになった。涙が、拳で拭うそばから溢れだし、顎を伝って制服を濡らした。
「渡辺先生ともそこで会ったの。いつもみたいにナンパ待ちしてた時にね、声かけて来て。あたしがプログラム経験者だって話したら、参加しないかって言われて。死にたかったから、ちょうどいいかなって、思って──」
 真由美は目を見開いた。花井が、真由美の背中に腕を廻していた。瞬きの度、花井の制服の肩口に涙が吸い込まれていく。
 なんで……。
 花井は何も言わなかった。そしてそれ以上何かをする様子もない。ただ、真由美を軽く抱き締めていた。
 思った。何か企みがあるのではないかと。
 また、思った。はじに考えていたように、花井が油断している今、殺してしまえばいいと。
 ベルトに挟んであるガバメントに伸ばそうとした手が、自然に花井の背中に添えられた。花井の微かな溜め息が、聞こえたような気がした。
 多分、もう、花井を殺す機会はないかもしれない。
 そしてその気力もなくなってしまったかも、しれない。


【残り28人+2人】

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