B=6、水産試験場。早速禁止エリアの指定を受けたB=5のすぐ隣で、エリアの正確なラインが分からない以上、気味が悪いのには変わりない。一度資料館を出た後、観光船乗り場から記念館のあるエリアを囲むようにUターンし、ぐるっと廻って試験場にやってきた。薫がそんな面倒なことをしてまでここへ来た理由は、きちんとあった。
今はすっかり無人島と化しているこの島だが、もしかしたら、ここ、水産試験場には電気が残っているかもしれない。そんな僅かな可能性に賭ける希望が薫を動かした。
薫はすらっと伸びた長身の体を屈め、足元のデイパックを拾い上げた。厚みはさほどないが、重く、布越しも中に入っているものが角張っているのが分かる。何かの板か──重さだけをみれば銃器類とも考えられたが、しかし、出て来たのは"マッキントッシュパワーブックG4"。何の変哲もない、あるいはこのゲームには全く関係がないと思われるようなノートパソコン。
薫はそれを見た時、悪い冗談かと思った(このゲーム自体、冗談と思いたくなるようなものだが)。探してみたが、他に武器らしきものは見当たらなかった。パソコンを、どう使えというのだろう? 皮肉なことに、薫は夜通し自宅のパソコンでチャットやインターネットを楽しみ、翌日は学校で居眠りしてしまう程それが好きだったが──まあ、それはいいとして。
もう何度目かになるが、パソコンをデイパックから掬い上げるように持ち上げる。重さはそれなりにあるから、これを鈍器として使うべきか?
パソコンを片手に持ち、クラスメイトに向かってそれを振り降ろそうとしている自分を想像し、薫は苦笑した。パソコンのキーボードを叩くというごく当たり前の行為が、何だか更に進化した生物の行動のように思えた。頭を動かすより、まず体? いやだ、まるきり動物。
お笑いだ。それより何より、悪趣味すぎる。
今はただ、ほんの少しの可能性を信じる他はない。
記念館の外に出た所で、小松杏奈(9番)らに声を掛けられたのを思い出した。だが、自分はそれを断って今、ここに来ている。実際動き回ってみて分かったのだが、この島は小さい。だから落合真央(4番)はすぐ見つかるかもしれない──そう思った。そして探した。とりあえず、道に任せて商店街へ行ってみたりもした。しかしすぐ、また思ったのだ。薫がそうしたように、真央もまた、動いているかもしれないと。誰かの気配で移動するか、隠れる場所を探すか、そんなことで遠くまで行っている可能性も十分にあった。そして薫は自分の武器を確認して、すぐに方針を変えた。
薫はもう一度ガラス越しに暗い建物の中を見た。茶色いショートの髪が今は少しもつれ、まるきり寝癖の付いたようになっているのがそこに映った。一束だけ浮き上がった髪を押さえ、ガラスに手を這わせる。冷たい、固い触感だった。鍵はもちろん中からしっかりとかかっていた。だとすれば、やはり。
先程からそうしているように、また周囲に目を遣った。誰かが近くにいる気配は相変わらずない。実行するならばきっと今だろう。薫は移動の途中で見つけた棒(物干し竿の折れたようなもの)を右に構えた。
ガラスを割るしかない。
窓に対して垂直に伸ばし、勢い良く突っ込んだ。どん、と鈍い音と共に衝撃が腕から駆け上がってきて、薫は後ろにひっくり返りそうになった。窓に映った夜の景色が震える。体勢を立て直し、薫はさっと窓の下にしゃがんだ。実際たいした音ではなかったかもしれないが、その音はあまりに大きく聞こえたのだ。
額に嫌な汗が浮かんでいた。それを空いた左の拳で拭うと、早速濡れた前髪が細かい束を作っているのが分かった。闇の中で息を潜めているのも辛かった。薫の力を持ってすればガラスを割ることなど難しくはないはずだが、この状況で、薫は恐れていた。"クラスメイトを?"と聞かれたらそうじゃないと答えたいところだけれど、とにかく、音に気を使うあまりに力が入らなかったのだ。
何やってんだ。割れたら大きな音がするかもしれないけど、ためらって何度もやり直している方がずっと危険なんだ。
汗で濡れた右手を拭き、もう一度棒を握った。
これが成功すれば、助かるのはあたしだけじゃない。
薫は思い切り振りかぶった。大きな音と一緒にガラスが砕け散り、残った部分に蜘蛛の巣のようなヒビが模様を描いている。ひやっとしたが、すぐにそこから手を入れて鍵を開けた。すぐにかちっと小さな音がして開いた。
持ち前の運動神経を活かし、サッシに手を付いて中に飛び込んだ。付いた左手が少し痛んだ。ガラスの破片でも刺さったのか──しかし今はとにかく、この部屋から離れるのが先だ。一応窓を閉めたが、ほとんど無意味だろう。
外より遥かに濃い闇の中、薫は中腰になり、机の間を縫うように歩いた。机の列が途切れ、伸ばした指先がドアに触れた。内心、ああ、ここが病院なんかじゃなくてよかった、と思ったが、あまり気休めにはならないだろう。
ドアを開き、出たすぐのところにある長机を積んで簡単なバリケードを作った。すぐに破られてしまうだろうが、誰かが来た時には大きな音がするはずだ。何か音がしたら、この広い建物のどこかに潜めばそう簡単に見つかることはない。
カモフラージュとして、誰かがもう外に出たような跡を作ろうとも思ったが、そんな暇はないのでやめておいた。
デイパックから取り出した懐中電灯をつけ、足元を照らした。明かりが洩れるのは大変まずいのだが、廊下には窓がなかった。
薫はいつもは伸ばしている背筋を丸め、そっと歩いた。時間がないのは分かっているけれど──嫌だ。この闇の中から、いつ何かが飛び出すかわからない。一歩進むごとに、化け物の住処の奥へ奥へと入り込んで行っているような気分になる。心臓が高鳴って廊下中に響き渡っているような気分だった。
嫌だ。嫌だ。出ないで、何も。
普段からボーイッシュな格好をして、後輩やクラスメイトからもかっこいいと慕われていたって、怖いもんは怖い。ああ、この前やってた心霊写真の特集、見なけりゃあよかった。くそ。
薫はぶるっと体を震わせ、自分の上履きが擦れる音を聞いた。閉め切られた建物の中は暑苦しいはずが、寒かった。気持ちの問題だろうけれど、体がぶるぶる震えた。冷や汗とも脂汗ともつかないものが制服を濡らしている。たまらなくなって薫は足を止めた。
どこからか、微かな音。かさかさになった喉に無理矢理唾を飲み、薫は懐中電灯をすっと動かした。
誰かがいる、といった音ではない。規則的な、そう、機械的な──機械!
薫は体を左に回し、早足で音の方へ進んだ。さっきまでの恐怖が嘘のようだった。今度は興奮で一気に顔が熱くなっていく。
ぶううん、という音と、泡の混じった水音。水産試験場なだけに、水槽に酸素を送る機械でも作動しているかもしれなかった。それはつまり、ここに電気が残っているという確固たる証拠なのだ!
ああ! 信じちゃいなかったけれど、神様! イエース、ジーザスラブスミー!
頬に笑みが浮かんだ。音の洩れている部屋のドアはすぐに空いた。懐中電灯に照らされる室内には青いホースと透明な水槽が並んでいる。予想通り、水面は機械音に合わせて波打っていた。
すぐ、別の部屋を開けた。暗い部屋の中、キッチンのようなものが見える。ここには機械類はなさそうだ。
廊下の奥に幅の広い階段があった。懐中電灯の灯りに照らされ、壁に何か、黒くて四角いものが見えた。薫は目を細め、そばに寄った。黒い看板らしいものがはっきり照らされる。
"2F 生物工学室、3F 科学分析室/研究員室、4F 情報処理室・機器室/海洋観測室/研究資料閲覧室"
それは、そのように告げていた。
薫は迷うことなく四階を目指し、階段を駆け上がった。情報処理室とやらには確実に、パソコンとそられをインターネットに繋ぐための道具が揃っているはずだ。四階に電気が通っていなければ下まで器材を運んでもいい。下には電気が通っている。
三階から四階の間の踊り場に回り込み、そこから一気に二段飛ばしで上った。懐中電灯の丸い灯りが体の動きに合わせて跳ねた。上り切ったところにあったのは、研究資料閲覧室。また壁に黒い案内が掛かっている。情報処理室への矢印は左を向いていた。薫も左に体を転じた。
トイレの入り口を横切り、突き当たりに壁と同じ白いドアがぴったり口を閉じていた。半ば体当たりするようにドアに貼り付き、薫はぐっとそれを押し開けた。開いた。
ずらっと並んだ机の列。その上に積んである資料。壁には研究の報告データやら魚の写真やらが貼ってある。だが、かつて一つの机毎に置かれていたであろうコンピューターは、一台もなかった。
薫はそこまで来てようやく、ぜいぜいと喉の奥から荒い息を吐いた。ほとんど息を飲むように見回していた中、体が思い出したように呼吸を再開した。
そんな……ここまで来て。
懐中電灯がすっと下へ降りた。その先の光も水平に移動し、机の下に垂れている白いヒモを浮かび上がらせた。
──。
すぐ机の下に潜り、薫はそれを手にとった。その手が、体に合わせてぶるっと震えた。ほとんど武者震いといったところだった。
インターネットに接続するためのモジュラージャックに相違ない。薫は机の上にマッキントッシュG4を置き、サイドのモデムポートにその先を差し込んだ。
これは──あたしは──。
興奮した体が火照り、首筋を汗が伝った。
あたしは、このゲームを終わらせることが、出来るかもしれない。
落合真央の顔が脳裏に浮かんだ。
真央を、助けることが、出来るかもしれない。
緊張に震える指で電源ボタンを押すと、ビープ音に遅れて画面に灯りが点り、薫の頬を青白く照らした。
【残り30人+2人】