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whirlpool

 手頃な民家か、あるいは自然の塹壕。ただ身を隠すという点で言えば近くの薮の中でも良かった。とりあえず、誰にも見つからず過ごすことが出来れば。
 仲沢弥生(21番)はC=6、宿泊施設の門からそっと中を伺った。辺りはすっかり闇に埋もれていたが、中は随分広いというのが見て取れた。横長の建物の前が芝生の生えた運動場のようなものになっており、その奥の方には大きな木々が生い茂っている。暫く目を凝らしてみたが、動きは特にないようだ。それも重要なことだったが、とにかく一刻も早く身を隠したかった。
 白いペンキ塗りの門をよじ登り、宿泊施設の敷地内に降り立った。上履きの下、たっという音がしたが、それはすぐ闇に吸い込まれて消えた。芝の上では足音が目立たず、移動はし易い。そのまま建物は避け、まず手前の木の下で腰を落とした。
 まるで丸く剥いたリンゴの皮のような細く曲がりくねった車道の側、今弥生がいる施設はあった。だが外からはほとんど施設内は見えないはずだ。例え、昼でも。先程、その一瞬のうちにそこまで考慮にいれていたかといえば、そうではないが、とにかく弥生は身を落ち着かせる場所を手に入れることができた。
 弥生は大きな松の木に背を預け、その針のような葉越しに空を見上げた。月がない代わり、星の粒が大きく輝いている。南の空に浮かんでいる雲は、夜だというのに白く大きかった。
 涼やかな風が額を撫で、そこで自分が大量の汗をかいていることに初めて気付いた。恐怖と緊張で、そんなことに気を留めている暇はなかったのだが──弥生は右手を上げて額の汗を拭った。ふと、鼻にペンキの臭いがついた。多分、先程門を上った時にでも、その錆びてはがれた部分がついたのかもしれない。今度はその右手をひだスカートに擦り付けた。
 弥生は、静かに自分の思いを反芻した。
 記念館の外で自分を呼んだ、河野幸子(5番)を振り切るように逃げてしまったこと。まさか、まさか誰かが待っているとは思わなかったのだ。驚いて、それが幸子だと分かった時、ほんの少し安堵したのだ。それは事実。しかしその思いは一瞬で、すぐに心の奥から別の言葉が聞こえたのだ。自分が普段から思っていること──面倒事に巻き込まれるのはごめんだ、と。
 弥生はその心の声に従った。行くか留まるか、二つの選択肢の間の葛藤を飛び越えて。むしろ、恐怖と焦りがそれを奪い去っていて、より強い声の方へ流されていった。
 そう。面倒事には巻き込まれたくない。
 もう一度、思った。だからあたしの選択は間違っていない。
 弥生は、普段から女同士の他愛もない悪口にはあまり加わることはなかった。ことに争いごとにもなれば、更に関わらないようにと身を遠ざけてきたのだ。全ては、何度も繰り返すように、巻き込まれることを恐れたからだ。
 幸い、弥生属する河野幸子のグループは割と平和な雰囲気でそういった心配はあまりなかった(たまに、望月操なんかが幸子の言い回しが気に入らないなどとこぼしていたが、それも、たまにで)。万が一そういう場面に遭遇しようものなら、苦笑いして誤魔化すことがほとんどだった。
 幸子。つい数時間前の彼女の声が再び思い出された。弥生は振り向かなかったけれど、幸子はぼんやりしてこちらを見ていただろう。信じられない、というような顔をして。
 幸子とはもう二年以上の付き合いになる。彼女とは、とりわけ仲は深かったのではないかと思う。幸子は決して根拠のない中傷はしなかった。その点、弥生は安心して付き合えたのだ。一番、恐らく、信用できる。でも──。
 今はほんとうに特殊な状況なのだ。信用云々、と軽く言えるものじゃない。
 放送のすぐ後、銃声が聞こえた。一発だけ。だがとても、近かった。それで初めに歩き回っていた獣道を抜け、できるだけ離れるように施設まで来たのだ。
 それでやはり思ったのだ。これでよかったのだ、と。
 普段、そういった面倒事の種となる悪口などを聞いていると、例え仲のいい友達でも信用は揺らぐものだ。そして彼女達が定義する"オトモダチ"の間柄の何と不安定であることか。一人しか生き残れないとなれば、ものの見事に砕け散るだろう。目に見えている。
 現にもう、誰かが始めた。それが誰かは分からなくとも、クラスの誰が始めたとしてもおかしくはない。
 冷えた汗のせいか、弥生は小さく体を震わせた。
 こんな時に誰かといられるものか。
 それでひたすら潜伏する方法を選んだのだけれど、もし誰かとでくわしたらとか、時間切れになったら、ということについてはまだうまく考えられなかった。
 突然、建物の背後から黒い影がさっと現れた。それも、一つではない。二つ、三つ──。建物の裏に誰かがいたのだ!
 体を竦ませた弥生の足元にぽっと丸い光が現れ、芝を滑って顔の辺りを上ってきた。眩しさに思わず、目を細めた。
「弥生?」
 聞き慣れた声。いつもすぐ近くで聞いていた、同じグループの海老名千賀子(3番)の明るい声。それは場違いな気がしたが。
 小柄な千賀子の影が薄い闇を背負ったまま走り寄ってきた。続いて、いくつかの人影。もしや、グループ全員集まることが出来たのだろうか? では、幸子も?
 ちょっと苦い思いを抱いた弥生の耳に、「弥生ちゃん」といくつもの声が被った。そこに想像していた幸子の声はなく、残念に思い、また、安堵した。
 他に集まっていたのは、梅田夏枝(2番)日下部麗未(8番)原田喜美(27番)堀川純(29番)。不思議な組み合わせだな、と弥生は思った。ほとんど全員違うグループだ。喜美と純は例外にしても。
 しかし、こういう方がいいかもしれない。同じグループ同士と違い、気を使い合えば争いごとも少なくなるだろう。あくまで、希望的な見解に過ぎないが。

「うちはとりあえず、集められるだけ集めたいんだけど」
 いつものはきはきした調子を崩さず、夏枝が言った。
「うちらは、少なくともうちは、こんなゲームをやるつもりはないから。同じように思ってる子をどんどん集めて、何か一緒に考えられたらと思って──」
 夏枝がメンバーを見回した。
「弥生も一緒にいようよ」
 千賀子が引き継いだ。それで純と麗未も頷いたようだった。
 弥生は黙って視線を彷徨わせ、意志が固まる前に、つい、頷いてしまった。それを見た夏枝が「よし」と満足げに頷いたのを認め、闇の中、あっという間に変わってしまった自分の方針とこれからの運命に思いを馳せ、体の中心に現れた不安の渦が大きくなって行くのを感じた。
 だが、取り消すには遅く、それを言葉にするのも無理そうだった。


【残り30人+2人】

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