05

the glow

 辺りが静かになったのを確認すると、河野幸子(5番)は石碑の陰から顔を覗かせた。
 先に出発した海老名千賀子(2番)には会えなかったが、仲沢弥生(21番)山口久恵(36番)には待てば合流できるはず。そう考えてずっと、条ノ島大橋の下、大東亜記念館から石段を降りた所に建てられた石碑(総統陛下の有り難い「四月演説」の一部が記されていて、始まりはこうある。"革命と建設に邁進する親愛なる同志人民の皆さん"──。)の陰で隠れていたのだけれど──。
 
 入り口を見たけれど、そこにはもう誰もいなかった。ただ濛々と白い煙が立ち上り、鼻の奥を焦がしたような匂いが充満している。腕時計に目を落としながら、幸子は首を捻った。
 時間で考えるなら、単純に計算して富永愛(19番)中村香奈(20番)が出てくる時間だ。誰もいないということは、そのどちらかは逃げ切ったということになる。
 一体何が起こったのだろう。
 幸子がここに落ち着いた頃、小松杏奈(9番)が石段を降りてどこかへ行き、それからまた戻ってきた。彼女もまた、大変警戒した様子だったけれど、しばらくするうちに微かな人の話し声が聞こえてきた。幸子と同じように友達を待っているのだろうか。そう思った。しかし、すぐに爆発音が響き、辺りが煙に包まれた。あっ、と思った時には遅かった。視界が煙に覆われ、それを吸わないように制服の袖で口を隠し、身を潜めることで精一杯だった。上にいた誰かが階段を駆け降り、走っていくのが分かった。
 ああ、まずい。すごく、まずい。
 頭の中で呟いた。自分が今どんな危険な状況にさらされているのか、ようやく理解した。このままでは見つかってしまうかもしれない──そう思ったけれど、それから第二波はなく、静けさが戻っていた。
 
 幸子はもう一度体を石碑の陰に隠し、デイパックを抱き寄せた。ちょうど夕暮れ時、いつもこのくらいの時間に弥生と帰ったのを思い出す。さすがに、こんな不審な行動をしながら待ったことはないけれど。
 緊張で火照った体に潮風が心地よかった。すぐ目の先には黒い海が広がり、頭上から伸びている大橋のゴールにあたる半島の先に小さな灯りが点り始めている。家が無性に恋しかった。
 今頃家に帰った小学生の妹は、驚いているだろう。母親は、父親は、どんな顔をしているだろう。他のクラスの友達は? 先輩や後輩は? 懐かしい顔を思い出してみたが、それはもう、手の届かない遠い星にあるような気がした。
 もう死んじゃうんだ。もう、二度と、会えないんだ。
 下唇を噛み、涙を押しとどめながら、幸子は膝を抱えた。現に何人か殺されている。ここに戻ってきた後にも銃声が聞こえた。そして、さっき、目と鼻の先で誰かが誰かを襲った! ──頭がぐちゃぐちゃになりそうだった。
 
 かつっ、という足音が幸子の意識をを引き戻した。石段をゆっくり、誰かが降りてきている音だった。
 だめだ。混乱している場合じゃない。
 富永愛か、中村香奈か、仲沢弥生。他にさっきの襲撃者の可能性もあったけれどとにかく幸子は考えた。
 私だけでも混乱したらだめだ。落ち着いて話せる人と合流しなきゃ。弥生と、久恵。それだけでも十分だ。
 首を伸ばし、ちょうど石段から降り立った人物を見た。低い位置で束ねた髪。左右を注意深く見遣った時に見える形のよい額。仲沢弥生に違いなかった。
「弥生!」
 懐かしいその姿に思わず声が出て、立ち上がった。弥生の体がびくりと強張るのが分かり、ばっと幸子の方を振り返った。ああ、おどかしちゃったみたい──幸子が目を細め、微笑みかけた時、弥生はさっと体の向きを変えて駆け出していた。
 え……?
「待って、何で逃げるの? ねえ! 幸子だよ!」
 叫んだが、弥生はもう振り向かなかった。真直ぐ走っていき、幸子との距離がぐんぐん開いた。幸子はぼうっとその後ろ姿を見つめていた。
 追いかけようか。
 足が出掛かったが、やめた。追えなかった。胸にぽかんと穴が空いたようだった。とにかく、それは、予想し得なかったことだった。
 私が誰だか、分からなかったんだろうか。──いや、違う。
 すぐに分かった。弥生のすぐ向こうに見えた西日は、幸子の全身を照らしていたはずだった。幸子の全身は、余すところなく見えていたはずだ。つまりそれは、幸子が待っていたと知っていながら、逃げたということになる。
 
 海風が強く体に吹き付け、幸子はそのまま倒れてしまいそうだった。さっきまで火照っていた体の熱は消え、体中が、とても、寒かった。


【残り32人+2人】

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