03

tears she cried

 富永愛はデイパックを受け取ると立ち止まり、ヨネの方をじっと見た。
 富ちゃん? 何してる?
 とてもとても嫌な、予感がした。
「どうしたの? 質問かな?」
「嫌です」
 間断なく愛が声を出した。
「行きたくないです。殺し合いなんか出来ません」
 とても真っ当な意見だ。しかし──香奈の表情がぐっと険しくなった。
「みんなどうしちゃったの。みんな体育祭であんなにまとまってたのに。平気なの? あたしは無理だよ。このクラスが好きだから出来ないよ。誰かを殺すなんて絶対出来ない!」
 愛がその場にどっと座り込み、顔を覆って泣き出してしまった。
 富ちゃん。彼女は本当に素晴らしいヤツだ。
 香奈は、愛のそんなところが大好きだった。時々物足りないと感じさせる程の平和主義だけれど、優しくて慈悲深い。子供みたいに素直に感情を表現する愛を羨ましく思うと同時に、慕っていた。
「富ちゃん」
「愛……」
 教室中から愛に呼び掛ける声が起こった。平気じゃないよ。あたしも、このクラスが好きだよ。──そういったニュアンスが含まれた声だった。香奈も思わず泣き出しそうだった。愛のこの行為は、散り散りになっていたクラスメイトの気持ちを惹き付けるには十分だった。だいぶこれでみんなの中にも希望が湧いただろう。ああ、もう泣くんじゃないよ。本当に涙もろいんだから。
 愛の次には自分が出発するのだ。きっと彼女はこのままでは歩いていけないだろう。側で支えてやりたかった。一緒に出発することは果たして許されるのだろうか? ──この場合、仕方ないと思うのだが。
「困ったねえ。ほら、富永さん?」
 ヨネがそっと、愛の肩に手を置いた。愛はびくっと体を強張らせ、「できない、できない、できない」と声を震わせて繰り返す。見かねた香奈は、一緒に出発することを提案しようとした。しかし──。
 ヨネが、後ろにいる兵士に向かってさっと手を上げた。みんな、そこに注目した。瞬間、おもちゃの兵隊みたいに四人が同じポーズで一気にライフルを撃った。俯いたままの愛の姿勢が更にくの字型に曲がり、床にいくつもの穴が空いた。上から押し潰された虫のようだった。
 弾かれたように立ち上がった香奈をはじめとして、誰もが呆然としていた。
 間近で発砲されたおかげで、耳がつんとする。ヨネが笑顔で何か喋っていたが、はっきりと聞き取れない。空っぽになった前の席の隙間から、真っ赤な血がじわじわと広がっていくのが見えた。愛は床に顔を押し付けるように倒れ、腰だけ不格好に持ち上がったまま静止していた。その間にも夏服のセーラーがどんどん赤く染まり、ウイルスの広がりを図示しているようだった。
 兵士の一人が愛の体を動かした時、首輪の上が大きく裂けているのがあらわになった。背後からいくつも「ううっ」と呻く声が聞こえたが、それは泣き声なのか吐き気をもよおしている声なのか。隣に座っている仲沢弥生(21番)が口元を覆ったのから見れば、吐き気とみる方が正しいかもしれない。
 愛が死んだのは見た目にも明らかであった。しかし、香奈には理解できなかった。分かっていたはずなのに、混乱していた。出口を塞ぐように伏せている愛の体を、更に兵士が動かそうとした。しかも、足で。
「てめえ……」
 自然と言葉が洩れていた。クラスメイト達の視線が一気に集まる。ああ、嫌だ。目立つのは苦手だ──。
「何がプログラムだよ……こんな、一方的に殺してるだけじゃないか」
 ヨネが笑顔でこちらを向いた。立ち上がってみると、香奈の方が背が高い。
「彼女の考えは、素晴らしい。うん。誰だってお友達を殺したくないよなぁ。わかるわかる。でも俺、悲しいけど処罰しなきゃいけないんだよ。進行上邪魔になっちゃうから」
 クソ野郎が!
「この──」
「あたしも嫌です」
 香奈より先に言葉を挟んだ者がいた。ヨネは大袈裟に体を傾けて後ろを見た。
「あたしもこのクラスで殺し合いなんか出来ません」
 花嶋梨沙(26番)だった。クラスの中心人物の一人で、井上明菜と並んでクラスをまとめる、彼女が──。
 この言葉がなければ、香奈は"クソ野郎"という言葉を叩き付け、すぐに愛の後を追うことになっていただろう。振り返った香奈と一瞬だけ視線が合ったが、すぐにその目はヨネの方に戻った。
 ヨネがやれやれ、といった風に息を吐き、ズボンのポケットから小型の拳銃を抜き出した。同時にまた、部屋の空気が凍り付く。香奈も歯を食いしばった。
「先生」
 ヨネの後ろから、低い声が響いた。残った転校生の男だということがすぐに分かった。言い方は静かであったが、気のせいか、少し焦っているようにも聞こえた。しかし。
「時間の無駄だから、早く進めてくれませんか」
 その男の言葉が、自分達を庇ったものでないことがすぐに示された。少しだけ裏切られた心地がしたが(ま、そんな都合のいいことないか)、とりあえずは助かった。ヨネは拳銃を降ろしていた。
「そうですねー。じゃ、中村香奈さん、早く出発しよう」
 ヨネが鞄を突き出してきたが、無視した。愛が取り落とした鞄の側にしゃがむと、白いうさぎのキーホルダーが血を吸って不気味に赤黒く変色しているのが見えた。香奈はこれを良く知っていた。つい最近、愛がずっと欲しがっていたこのうさぎのキーホルダーを手に入れたことを、嬉しそうに話していたのだ。
 白は汚れやすいと思ったんだけど、黒より可愛いからこれにしちゃった──そう言っていた。確かに白は汚れやすかったね、もう、真っ赤じゃないか──思いついた皮肉を払拭し、香奈は黙ったままそのキーホルダーを外し、手の中に収めた。
「何、やってるのかなあ? 早く出発しないと──」
 銃を構えようとしたヨネを下から睨み上げ、「彼女の形見に持っていく」と言った。ヨネは一瞬、ぽかんと口を開けたが、すぐまたわざとらしい笑顔に戻って言った。
「なら、そのデイパックを持っていった方がいいんじゃないの?」
 愛が一度受け取って、殺されて不要になったデイパック。頭にかっと血がのぼり、香奈はそれをヨネに向かって力一杯投げた。普通、ここまですれば撃たれてもおかしくないのだが、ヨネは愛のデイパックを戻した後に香奈の分を優しく手渡した。
「絶対、あんたを殺してやる」
「そう──じゃあ、待ってるよ」
 ふと、花井と目が合った。瞬間、香奈を憐れむような目がすっと冷たいものに変わった。何か、頭の中で疑問を投げかける声があったが、ヨネからデイパックを奪い、冷たい廊下に飛び出した。手の中のうさぎは温かく、握りしめる指の隙間から血が滴る。ぐっと食いしばった歯がガチガチ震えた。出口に向かって走りながら、涙が零れるのを抑えられなかった。


【残り32人+2人】

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