プロローグ

 すっかりひとけのなくなったグラウンドを、西日に照らされた長い影が走っていた。
 ちょうどそこへ通りかかった女子生徒が、通学カバンを小脇に抱えたままその影に走り寄る。
「お疲れ様です」
 呼び掛けられた生徒、相澤祐也(神奈川県市立逗陽中学校3年2組男子1番)は女子生徒の方を見ながら、ゆっくり走る速度を落とし、そして止まった。息が少し、上がっている。
「先輩、明日修学旅行ですよね? 早く帰った方がいいですよ」
 笑顔を絶やさず、はきはきと彼女が言った。祐也は額から流れる汗を拭うと、微笑み返しながら頷いた。
「大会が近いからなるべく練習したくて……でも、そうするよ」
 祐也の答えに満足そうに微笑むと、二人の後ろから別の女子生徒が呼ぶ声がした。どうやら彼女の友達らしい。一度、友達の方を振り返り、また祐也の方へ向いた。
「お土産待ってますからね!」
 ちら、と振り返りながら駆け出した。すぐに友達の隣へつき、友達からからかわれているのか、頭を小突かれてきゃあきゃあはしゃいでいる。祐也はもう一度彼女達の方へ視線を飛ばし、それから鉄棒に掛かっているジャージの上着を取りに歩き出した。
 十月も下旬になると、五時をまわれば日はかなり低くなる。赤く染まった西の空を見ながら、祐也は息を吐いた。空気もかなり冷えている。祐也のように運動でもしていなければ、かなり肌寒く感じられるだろう。
 上着を腰に巻き付け、祐也は水飲み場の方へ歩を進めた。体は熱く、額や首筋からは汗がまだ流れ続けている。

 祐也が所属する陸上部は、来週に大会を控えていた。祐也も含め、三年生にとってはこれが最後の大会となる。気合いが入るのも当然だった。
 明日は、そう、みんながお楽しみの修学旅行というイベントなのだけれど、祐也はそれよりも大会の方を重要視していた。小学校の頃からリレーの選手をつとめ、中学に入って大会に出るようになってからは、特に。

 水飲み場はグラウンドの脇、ちょうど剣道部や柔道部の練習している体育館の側にあった。体育館の扉からは灯りがもれている。祐也のようにまだ練習している生徒がいるのだろう。
 蛇口を上向きにし、溢れ出す水を鼻先で受け止めた。両手を前に出し、顔中を潤していく。熱が徐々に冷めていくのが分かった。
 突然、背後から勢いのよい剣道部の掛け声が──「メン」、と聞こえた。
 顔を上げようとした時、祐也は尻の辺りに突如膨れ上がった痛みに驚き、蛇口に頭をぶつけた。背後からは低い笑い声がしている。
 振り返った先に、白い剣道着に竹刀を持った男が立っていた。祐也は首を振って髪から垂れる水滴を落とし、「おい」と口を開いた。こんないたずらをする男は、一人しかいない。
 祐也が名前を呼ぶより先に、男が面を取った。面垂からこぼれた長めの髪が、夕日に照らされてオレンジ色に輝いている。広瀬敦史(男子17番)はにやりと笑った。
「メン、じゃないだろ、ふざけんな」
 敦史が差し出したタオルを乱暴に奪い、頭を拭いた。敦史は悪びれた様子も見せず、塗れたタオルを受け取る。
「悪い悪い。ちょうど出て来たらいるんだもん」
 ちょうどいたら尻を叩いてもいいっていうのか?
 祐也は内心呆れていたが、それでもすぐに顔が笑みを作った。
 敦史は自由気侭で、時々このようないたずらを仕掛けてくる時がある。しかし何故だか本気で頭に来たことはない。クラスの中でも明るくて面白い男、と思われている敦史には、天性の魅力があるのだろう。
「そちらさんも練習?」
 ちょっと気取った口調で言った。祐也は頷いた。
「大会が近くて……そういやそっちは何かあるのか?」
 敦史が大袈裟に唇を曲げ、ううん、と唸った。それからまた、いつもの笑顔に戻った。
「いんや、特にないんだけど。なんとなく家帰るの面倒だったからさ」
 どうして、と聞こうとして、先に敦史の興奮した声に遮られた。
「おいおいおい、あれ見てみろよ」
 敦史の指した先、グラウンドのフェンス越しに女子生徒がこちらを見ている。祐也はそれに目をこらし、彼女が誰だか分かった時には──また、顔が熱くなっていた。
 敦史が祐也の背中を竹刀で突いた。抵抗しようとしたが、よろよろと前に送りだされてしまった。彼女はこちらを、見ている。祐也と視線がかち合うと、にこりと笑った。引き返すわけにはいかなかった。
 小走りで駆けながら、頭がまだ濡れていることに気付き、手櫛で整えた。フェンス越しに彼女の驚いた顔が迫っていた。
「髪の毛びしょびしょだよ?」
 同じクラスの花嶋蘭(女子17番)が祐也の頭を見上げた。恥ずかしかったが、後ろを振り返り、水飲み場に悠々と腰掛けている敦史を指差し、「あいつにやられた」と言った。蘭はくすっと笑って、また祐也の目を覗き込んだ。
「今、帰りなの?」
 蘭は通学カバンを持っている。分かってはいたが、話題が見つからずに聞いた。
「うん」
 蘭がちらっと笑った。
「芽衣子を待ってたんだけど、先に帰ってたみたい。気付かなくて今まで待っちゃった」
 蘭と仲のよい関芽衣子(女子11番)はバスケ部だ。確かに今日は、やっていないらしい。しかし──今日は旅行前日のために三年生は午前授業だ。今の今まで待っていたというのは──。
「待てよ。じゃあ五時間近く待ってたの?」
「図書室にいたから、大丈夫。ほんと、バカだよねえ」
 蘭が恥ずかしそうに笑む。祐也はぼうっとその笑顔を見ていた。
「あ……」
 蘭が顔を上げて、祐也の後ろの方を見た。祐也も振り返る。敦史がこちらに向かって歩きながら、にっこりと笑った。
「花嶋、今帰りなの?」
 蘭が頷いた。敦史のあの笑顔──先程の、いたずらをした時のようなものではない、もっと爽やかな──何を考えているんだ?
 ちらっと祐也にいたずらっぽい視線を投げかける。
「そっか。暗くなるの早いから一人で帰ると危ないよ。おい、相澤、お前が送ってけ」
 蘭が目を丸くした。祐也も、それ以上に。しかしこれは、敦史がくれたチャンスだった。
「ああ、送ってくよ。すぐ着替えてくるから待ってて」
 早口で喋り、すぐに更衣室に向かった。敦史はまた、にやりと笑って蘭に手を振り、祐也の後を追った。

 急いで着替え、蘭の元に戻った。敦史の姿はない。首を傾げている祐也に向かい、蘭が言った。
「広瀬君、先に帰っちゃったよ」
 内心驚きつつ、祐也は感謝した。──家に帰るのが面倒じゃなかったのか。いや、ありがとう。
 空からは既に太陽は消え、星がいくつか出ていた。蘭が空を見上げ、息を吸い込んだ。祐也も真似て空を見上げた。
「明日、いよいよ修学旅行だね。帰ったら支度しなくちゃ」
 祐也は頷き、蘭を見た。いつの間にか手に水色の手袋をはめている。もうそんな季節か。運動後の熱が冷め、祐也はブラウスを着ただけの腕を擦り合わせた。
「あ、明日って、空港集合でしょ? 空港行きの電車に乗るのは分かるんだけど……」
 ちら、と祐也を見上げた。
「降りてから歩くのかな。相澤君、一人で行ったことある?」
 蘭の言葉の中に、何となくこちらを誘おうとしている雰囲気があった。いや、ただの思い違い、かもしれない。しかしこれもまたチャンスだ。
「俺もよくわからないや。朝一緒に行く?」
 言った。蘭はぱっと笑みを広げ、頷いた。
 肩に落ちるさらっとした黒髪。健康的な肌色、目鼻立ちのしっかりした顔は魅力を感じさせる。
 笑うと涙袋が膨らむ、とても愛らしい表情で、祐也の顔を見上げている。
「うん。よかった。心配だったから、ありがとう」
 通学路に並んだ家々から温かい光がこぼれ、更にはどこかでシチューでも作っているのだろう、香ばしい匂いがした。
 祐也は思いきりそれらの匂いを鼻孔に吸い上げ、また息を吐いた。
 小学校の時の、遠足前夜の興奮した気持ちがよみがえって来た。
 早く明日にならないだろうか──。
 心から楽しみに、そう思った。
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