プロローグ

daybreak

 古びたアパートの一室で、一人の男が目を覚ました。
 けたたましく鳴り響く携帯電話をだるそうに取ると、黙って耳に押し当てる。受話器から流れ出る明るい声にしばらく相槌を打っていたが、アパートの場所だけを告げるとすぐに電話を切った。
 部屋の中には、酔い潰れている彼の友人達が寝転がっている。机の上に散乱したビール瓶や酒の空き缶が、夕べの騒ぎを物語っている。
 彼らを起こさないよう上体を起こすと、男は小さなドラムバッグに自分の荷物を詰め出した。ここは彼のアパートではない。目の前で潰れている友人の部屋なのだ。昨晩は打ち上げか何かで遅くなり、皆でここに泊まることになったのだ。記憶している限り、そうだったと思う。
 男は、まだ開けていない果実酒を二、三個取ってバッグにしまうとゆっくりとその場に立ち上がった。すると近くで寝ていた、まだ幼さの残る顔をした女が目を開けた。
「どうしたの?」
 男は、黙ったまま女の目を見つめ返す。そして踵を返すと玄関に向かって真直ぐ歩いて行った。
「ちょっと、ねえ。今から帰るの?」
 男は答えることなく、玄関に散乱している靴の中からくたびれたスニーカーを拾うと足に突っ掛けた。かかとまできちんと中に収めると、爪先を地面にトントンと打ち付ける。鍵を開けてノブに手をかけ、このまま黙って行ってしまうように見えたが、何か思い立ったように女の方に向き直る。
 男は唇を笑いの形に歪めた。目はやはり、いつもと同じように寂しげだったけれど。女は、初めて見る彼の表情に思わず息を飲んだ。
「昨日は楽しかったよ。もう会うこともないだろうから、じゃあ元気で」
 最後に一言そう言い放つと、ドアの閉まる音だけが静かな部屋に木霊して男はもう扉の向こうに消えていた。中から女が何か呼んだようであったけれど、男は戻ることも振り返ることもしなかった。
 黒いパーカーのポケットに手を突っ込み、小さく息を吐く。
 ──楽しかったよ。それなりに。
 口の中だけで言葉を繰り返し、男は目を細めた。
 だがそれも今日で終わる。"あれ"が始まれば──。
 アパートの階段を下り切った時、ちょうどクラクションが二回、鳴った。停まっていた車から、胸に桃色のバッジを付けた男が顔を出し、にこりと笑って「花井君だね?」と言った。
 花井と呼ばれた男は頷き、そのまま黒塗りのセダンに近付く。迎え入れられるままに後部座席に滑り込み、ドアを閉める。見上げたアパートの部屋からは、さっきの女が顔を出していたが、すぐに車は発進した。
 花井は横に座っている男にちら、と目を遣った。背の高い花井に比べ、小柄でほとんど年齢不詳といった感じの男は、先程から遠足に行く途中の小学生のように指先をせわしなく動かし、何やら楽しそうにしている。
「この間は無理言ってすみません」
 先に言葉をかけたのは花井。
「いやいやあ、いーっていーって! 君が参加してくれるだけで俺は、なーんか儲かる予感がするんだよ」
 その早口に押され、花井は頷いた。男はにこにこしながら、パーティー用の鼻眼鏡を付けたような顔を寄せてきた。
「それより! 何でわざわざここにしようと思ったのかな?」
「いえ、別に」
「別にって、他にも面白そうなとこあったじゃない?」
 やんわりと答えるのを拒否しているのか、花井は窓の方に顔を向けた。朝の東京の、出勤や通学で忙しそうに早足で進む人々を見送り、車はだんだんと細い路地に入り込んでいく。ふと、向かい側から制服を着た男女が走ってきた。兄妹か、恋人か──それともただの友人か。顔立ちから見れば、中学生くらいといったところか。少しだけ目を奪われたが、風を切るように一瞬ですれ違う。二人の背中は薄汚れたバックミラーの奥に消えていき、花井の注意もすぐ別の所へ向けられようとしていた。
「そうそう!」
 隣の男が突然、手をぱちんと合わせて大きな声を出した。花井が首を捻って自分の方を向いたのを確認すると、両手を擦り合わせて楽しそうに微笑んだ。
「君の他にも、えー、何だ。転校生がいるんだよ。女の子なんだけど結構可愛いよ」
「はあ」
 素っ気なく相槌を打ち、花井が再び窓ガラスに目を遣ると、男はちょっとつまらなそうにふん、と鼻を鳴らした。
 車は高速道路に入り、速度を増した。頭上にぶら下がっている看板から見ると、到着までは時間が掛かりそうだ。花井は腕を組み、浅く座りなおしてすっかり眠る準備を始めた。隣の男はまだ話しがしたかったのか、つまらなそうにそれを見遣り、やがて諦めたのか運転席にいる男に話し掛け始めた。
 日は少し高く昇り、初夏の光が目を刺す。窓越しに見える海が広く、白い波を立てて揺らめいていた。
 花井はそのまま目を閉じると、車が目的地に到着するまでの短い眠りについた。
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