brother

 あの日から、兄は別人になった。
 
 相澤家には三人の子供がいる。長女由美、長男祐也、そして次男洋介──俺だ。
 姉とは性別も違う上に五歳も離れている。そのせいか、喧嘩というものをした記憶がない。どちらかといえば、かなり可愛がってもらっていたと思う。さばさばしていて大人っぽいところは、単なる身内びいきからくるものかもしれないが、魅力的だった。
 反対に兄の祐也とは年が二つしか離れていない上に男兄弟ということもあって、小学校くらいまではよく殴り合いの喧嘩もした。二人が中学に入ってからは口喧嘩程度で、それなりに仲良くやってきた。基本的に祐也は性格が穏やかな方だったので、洋介が手を出そうとしても静かにかわすことが多かった。兄が中学の修学旅行に行く前日も、些細なことで口喧嘩になった。多分、悪かったのはこちらの方だった。

 そして──その兄は、プログラムで優勝した。
 
「洋ちゃん」
 病室の入り口で呆然と立ち尽くす洋介の肩を、姉の震える腕が抱き寄せた。
「ごめんな……大丈夫か?」
 やっとのことでベッドの側まで歩いてきた洋介を見上げ、祐也が言った。
 洋介は恐ろしくて、ぶるぶる首を振った。明らかに自分の方が大丈夫ではない兄の身体を見下ろしながら、何も答えることができなかった。
 もう、プログラムが始まる前の二人ではいられなかった。幼い頃、二つくっついていたアイスを分けた二人も、あるいは修学旅行の前日に喧嘩した二人も、いなくなってしまった。
 
 度々思い出すことがあった。兄が中学一年生の時の体育祭の時のことだ。洋介が母と一緒に学校見学に行った時、祐也がある女の子と親しげに会話していたのを見た。後に母親に「あの子、何さん? 可愛い子じゃない。どうなの?」と詮索されて困惑したような、照れたような表情を見せた兄。
 あの時の女の子は、兄と同じクラスだったのだろうか。
 そうだとしたら、兄は、あの人をも殺したのだろうか──。
 考えてぞっとした。
 四十二人いた中から一人で生還するまでに、何人の生徒を殺したのだろう。仕方がないこととはいえ、怖かった。兄が全くの別人になってしまったかのようで。
 
 祐也は退院した後、一人暮らしをしながら埼玉の高校に通うことになった。名前と顔が出てしまっていたので(とはいえ、顔は一部腫れたり血に染まっていたために判別しづらいが)、名字を母の旧姓である花井に変え、名前も変えた。
 家を出ていく少し前、祐也が政府の特殊訓練所に通うことになったと聞かされた。
 その時、洋介は兄を心底軽蔑した。
 プログラム中、どんなことがあったのかは知らない。あの穏やかな兄が、好きで人を殺したとは思えない。しかし、あの三日間で何かが変わってしまったのかもしれない。そうならざるを得ないほどに、追い詰められていたのかもしれない。
 だが自ら政府の軍人になるための訓練を受けるというのは──それは、そこまでする必要はないんじゃないか。兄はおかしくなったのだ。人生を狂わされた政府の犬に、自分から進んでなろうとしているなんて。
 
 
 二〇〇三年五月三十一日早朝、家に一本の電話が掛かってきた。
 それは兄が二日前からとあるプログラムに参加していたこと、そしてそのプログラムで死亡したことを知らせるものだった。家族たちは泣き崩れたが、洋介だけは泣かなかった。ただ、「ざまあみろ」と冷たく言い放ち、父親に叩かれた。それだけだった。
 兄が死んで清々していたのは本当だった。しかし──兄は死んでいなかった。
 
 それから二日経った朝、花井崇──祐也の死体が見つからないという知らせが届いた。そして、洋介のところに奇妙な一通の手紙が届いていた。
 母に手紙を渡された時、洋介は受け取らなかった。差出人の名前がない手紙など、読む必要がないから捨ててくれと頼んだのだが、母はその手紙に何かを期待しているようだった。その期待の中身が分かった時、ひどく腹が立ったが、開けないわけにはいかなくなった。
 ……もしあいつが助けを求めてきたとしても、家に入れてやるものか。野垂れ死ねばいいんだ。
 乱暴に破った封筒の中からは、思った通り兄からのメッセージが現れた。しかし、内容は想像していたものとは全く違っていた。
 
 洋介へ
 今までありがとう。それと、ごめんな。
 四年前、お前はまだ中一で、友達も出来て楽しい頃だったと思う。
 それを俺の都合で引っ越すことになって、
 また、今回の事でもっと辛い思いをするかもしれない。
 迷惑ばかりかけて何もしてやれなくてごめんな。
 
 四年前、俺の好きな人が死にました。
 俺は彼女を助けることができなかった。
 ずっと辛くて、彼女の墓にお参りしたら死のうと思ってた。
 だけど彼女の妹さんと知り合って、今度は妹さんだけでも守りたい、
 彼女や友達の死を無駄にしたくない、
 いつかこの国のひどい体制を壊してやりたいと思うようになった。
 
 俺が訓練所に通うと知った時、お前はすごく怒ってたな。
 あの時きちんと理由を話せなくてごめん。
 俺は政府側から情報を引き出すために訓練所に通っていただけで、
 向こうの味方になったわけじゃなかったんだ。
 そこはちゃんと分かっていてほしい。
 
 今回彼女の妹さんがプログラムに選ばれて、俺はそれを助けるためにプログラムに潜入した。
 そして、妹さんとその友達を助けることができた。
 反政府組織の人たちに助けてもらったおかげで今も生きている。
 でも、今回のことで更にみんなに迷惑が掛かってしまうと思う。
 本当にすまない。
 
 この手紙の事は、外には一切漏らすな。
 政府のやつが来たら「兄を早く探して殺してくれ」と言え。
 近所には「あんな非国民、家族だと思うと恥ずかしい」と言え。
 政府に逆らうことは言うな。
 そうすれば少しは、この家に対する風当たりも弱くなるだろう。
 
 俺はアメリカへ行きます。
 うまくいけば、洋介がこの手紙を手にする頃には着いていると思う。
 いつ帰れるかは分からないけど、必ず帰るつもりでいる。
 そのためにも俺は戦うと決めたから。
 俺が帰るまで、父さんや母さん、姉さんをよろしく頼む。
 
 一緒にいることは出来ないけれど、遠くからいつでもお前の幸せを祈ってる。
 
 祐也

 
「なんだよ、これ。なんだよ、いまさら。うるせーんだよ」
 言い終わる前に嗚咽がこぼれ、言葉を終わりまで紡がせてはくれなかった。
 
 さんざん兄を恨んだ。学校中から注目されて、ちょっといいなと思っていた女子も、自分を見る目が変わって辛かった。とても辛かった。
 兄が苦しんでいればこそ、洋介は政府を恨むことが出来た。だが、あっさりとその手下になった兄がもっと憎かった。
 ……何もかも嘘だったってことか。
 洋介は手紙を握りしめたまま、呆然と椅子の背に凭れ掛かった。
 ただ、思い出した。
 兄が家を出ていく時、部屋にこもって顔を合わせなかったこと。
 部屋の前に足音が近付いてくる。洋介は耳を塞いで叫び続けた。多分、思いつく限りの悪い言葉で罵倒していた。
 アパートにも一度だって顔を出さなかった。
 祐也と会ってきた家族がその話題を出すと、当り散らすように物を壊したり暴れたりした。
 兄の足音、遠慮がちなノックの音が、耳に残る。
 洋介に罵倒された時の祐也の顔が、何となくドアを透して見えるような気がした。少し俯いて、それでも無理に口だけで笑っている。
 
 知らなかった。
 兄が辛かったこと。大切な人を失って、自らの命も断とうと思っていたこと。
 そんな中、たった一人ぼっちで何年も暮らしていたこと。
 そして──あんなにひどい態度をとった弟に、その弟に宛てて手紙をくれた。
 
 ふざけんなよ。
 姉ちゃん、彼氏ともうじき結婚するかもしれないんだ。
 お前さ、なんで式に出ないわけ。姉ちゃん悲しむのに、どこ行ってるんだよ。
 
 父さんも母さんも、お前に期待してたんだ。
 運動が出来て、さすが俺の子だって父さんが言ってた。
 目のあたりがそっくりだって母さんが言ってた。
 
 それから。
 それから。
 それから。
 俺が、今、謝りたいのに。
 手紙じゃなくて家に帰って来いよ。
 
 洋介は奥歯を噛み締め、嗚咽を漏らした。
 思い出す兄の顔は、いつも優しく温かだった。喧嘩しながらも、いつも洋介のことを思い遣ってくれていた。その兄の全てが、瞼の裏に押し寄せてくる。
「洋介……」
 部屋のドアが開き、ずっと外で待っていたらしい母が顔を除かせた。泣き腫らした洋介の顔を見て、慌てて駆け寄ってくる。
「あなた、どうしたの」
 洋介はとっさに言葉が出てこなくなり、手紙を母に押し付けた。
 手紙に目を通していた母の目にも涙が溢れ、読み終える頃には頬に零れていた。
「……兄ちゃん、帰ってくるよ」
 母が手紙から顔を上げ、目を丸くしていた。
「だから、待ってよう。俺は、兄ちゃんを、待つ」
 切れ切れの言葉を聞きながら、母が優しく洋介の頭を包み込んだ。その温かい抱擁の中、洋介は目を閉じて兄の顔を思い描いた。
 いつか、兄が笑顔で玄関から入ってくる。
 そんな情景を思い浮かべながら、再び溢れてくる涙を母の胸に落とした。
Home Index ←Back Next→