暗い倉庫の中、香奈は身体を丸めて息を殺していた。
明るい渡辺ヨネ(担当教官)の声が近付き、部屋のドアが閉まる音と同時に辺りは静寂を取り戻した。
しばらくしてからエンジン音が響き、床から揺れが伝わってくる。
兵士のほとんどはジープで条ノ島大橋を渡っていき、今、教官が乗る船には三人ばかりの兵士しかいない。それも全てアイザワが把握していた。
教官たちが船に乗り込むより先に、香奈とアイザワは船に接近していた。船のそばには一人の兵士が立っている。片手には勿論、ライフルが見えた。どうやって船に乗り込むのだろうとはらはらしている香奈に、アイザワは彼が香奈を治療した時に置いていった荷物を渡すように言った。
言われるままに荷物を渡すと、アイザワはその中から、兵士たちが着ていたのとそっくりな軍服を取り出した。素早い動きで学生服を脱ぐと(当然、香奈はその時点で目を背けていた)、軍服と軍靴を身につける。仕上げに軍帽を頭に乗せた。
見事なまでの変身に、香奈は思わず見とれてしまっていた。こうして軍服を着ているところを見ると、どこから見ても立派な兵士だ。
「それで、どうやって?」
香奈が囁いた。アイザワは花井崇に支給された軍用ナイフを見せてから、「ここで隠れてて」と言った。
頷きかけた香奈の側から立ち上がると、アイザワは茂みから勢いよく飛び出していった。呼び止める間もなく、アイザワが見張りの兵士に接近していく。
激しい雨音の中に、アイザワの軍靴が水たまりを踏む音が聞こえる。それに気付いた兵士が顔を上げた。──見つかった!
香奈は目をつぶっていた。
しかし次の瞬間、人の声が聞こえた。走ってくるアイザワに向かって手を挙げて、見張りの兵士が何か言っている。まだ、アイザワの正体に気付いていないようだ。ライフルを持った手はだらんと下げたまま、アイザワが近付くのを待っている。
兵士がゆっくりと歩み寄っていったところで、アイザワが一気に距離を詰めた。二人の視線がかち合ったと思った時には、アイザワの右手に握られた軍用ナイフが兵士の胸に生えていた。
兵士は胸に刺さったナイフとアイザワの顔を交互に見ながらゆっくり膝から崩れ、地面に倒れた。
そこまで見守ってから、香奈はようやく大きく息を吐いた。その音が聞こえたかのように、アイザワは香奈の方に向いて手招きをした。
アイザワは香奈を呼びつけると、死亡した兵士を運ぶのを手伝わせた。まだ温かい死体に触れるのは気味が悪くて仕方なかったけれど、ここに寝かせておくわけにはいかない。さっきまで香奈たちが隠れていた茂みまで運ぶと、アイザワは丁寧に兵士のボディチェックをはじめた。
ライフルと持ち物をいくつか奪い、兵士の帽子を取った。
「茶色か」
何のことだか分からないといった風に首をかしげると、アイザワは鞄からカラフルな毛の塊を取り出した。それらの中から死んだ兵士の髪に近い色のかつらを取り出し、自分の頭に乗せた。何ともくだらないことのように思えたが、変装を完璧にするためには仕方がない。兵士に無精髭が生えていることまで確認して、鬚も付けた。よくこんなものまで用意していたなと、香奈は味方ながら呆れてしまう。
幸い船の様子を見に来たのはこの兵士だけのようだった。あるいは、この船を操縦してここまで運んできたのかもしれない。アイザワはすっかりその男の姿になってしまうと、香奈を連れて船の中に入り込んでいった。
兵士から奪った船の鍵を使い、船内を探索していく。どうやら甲板下の室内に、教官用の部屋があるようだ。そのいくつか向こうのドアは倉庫になっていた。そこがあまり使われていないと判断して、アイザワは香奈をそこに隠したのだ。
事は全て順調に運んだようだった。アイザワはどうにか、正体がばれずに済んだらしい。他の兵士たちが騒ぎ出すこともなく船は動きだした。アイザワもこの船のどこかに乗っているはずだ。
準備は整った。香奈はぎゅっとウージーを抱き寄せ、その時を待った。
──銃声が聞こえたら行け。
アイザワの言葉を何度も反芻しながら、香奈はドアに手を掛けた。
冷たいはずのドアノブよりも、指先の方がずっと冷えていた。雨にうたれたせいなのか、それとも恐怖のせいか、香奈の身体はずっと震えていた。
エンジン音に混じり、微かな銃声が聞こえた。それでも一度、手にしたドアノブを離した。
不安がないわけではない。アイザワがすぐに援護しに来ると言ったが、もしドアの外に兵士がいたら、自分など秒殺だろう。あの、教室で見た富永愛の死体が脳裏にまざまざと浮かぶ。だが──。
逃げるわけにはいかない。一度誓ったことなのだから。
ウージーを抱える腕に力を入れ、ドアを開けた。がらんとした狭い廊下を早足で進み、目的の部屋を勢い良く開けた。
小さな船にしては広い船室の中、質素なソファとテーブル、テレビがあった。
そのソファの上にだらしなく身体を預けながら、ヨネはスナック菓子を漁っていた。ヨネは驚いたように口をぽかんと開けている。──こらこら、口を閉じて食べなさい──香奈は思わずそう言いたくなるような間抜け面と対峙した。
そのままウージーの引き金を絞った。ガガガガ、と物凄い音がして、ヨネの周りにあったものが一瞬にして吹き飛んだ。
「何の音だ──」
足音と叫び声が聞こえ、肝が冷えたが、すぐにさっきの銃声と人が倒れる音が残った。恐らく、アイザワが最後の兵士を片付けたのだろう。
机の下から這い出してきたヨネと視線がかち合う。血に染まったスーツに、お笑いのようにずれた眼鏡の男が香奈を見上げた。
「君は──」
「中村さん!」
ヨネより早く、アイザワが香奈の名前を呼んだ。突き当たりにある階段から、半ば飛び下りるようにしてアイザワが降りてきた。香奈の顔を見ると、表情が安堵で弛んだ。安心はしたが、全く違う男の変装をしたまま笑いかけられるのは──少し不思議な感じだった。
香奈の横に並んだアイザワを見て、ヨネが手を挙げかけた。状況が掴めていないのだろう。大きな丸い目が、香奈と男の間で泳ぐ。だが軍帽とかつら、鬚を外した男の顔を見て、ヨネの表情が歪んだ。
「はは……そうか、全部、そういうことだったんだ」
腹を押さえながら、それでもヨネは笑ってみせた。口の端から赤い泡が漏れた。それは気分を害するには十分過ぎる効果を持っていたが、アイザワが頷いたのに合わせ、香奈は部屋の中に足を踏み入れた。
再びウージーをヨネに向けて構えた。あの時、記念館を出る時とはすっかり立場が変わっていた。
「花井君」
ヨネが呼び掛けた。
「どこまで演技が上手か、聞いてて楽しかったよ。でもまさか、死んだのも演技だったとはね。どうやったのかなんて、俺には見当もつかないけど──」
一度言葉を切り、アイザワを指差す。
「君はさ、幸先生を覚えてるかな? 君が優勝したプログラムの担当教官だ。俺はね、あの先生から君の情報を買ったんだよ。俺が梨沙ちゃんで儲ける金を山分けするっていう条件でね。なのに……ああ、悔しいな。俺が死んだら、幸先生大儲けじゃないか」
最後はまるで独り言のように、悔しい悔しいと繰り返した。
「先生には感謝してますよ」
香奈の隣まで進み出ると、アイザワがようやく口を開いた。濡れた前髪を払い、ヨネを見下ろす。
「あなたは俺の目的を知っていて、それでも自分に有利な想像に賭けた。俺はあの子を助けるという僅かな可能性に賭けた。おまけに奇跡的にも、自分ともう一人分の命も救うことができた」
香奈の方に顔を向け、また続けた。
「先生は俺と梨沙ちゃんの連絡手段も知っていたんでしょう。島に入る時には持ち物検査すらされなかったですから。……最後だから教えます。俺はこの軍服をはじめ、首輪を解除するための道具を持ってきていたんですよ。もう水に濡れて使えなくなったけど、ほら──」
アイザワが小型のナイフのような物体を掲げてみせた。香奈が意識を失う直前、首を刺されたと思った物だ。
「これで電気ショックを与えると、首輪の機能が停止する。これをどこで手に入れたか分かりますか?」
ヨネはアイザワの顔をじっと見つめたまま、黙っている。
「俺が梨沙ちゃんがプログラムに選ばれることを心配して政府側についたと思ったでしょう。でも、俺は全く正反対のものと掛け持ちしてたんですよ。ある反政府の組織に所属して、そっちに情報を流しながら訓練を受けてたんです。先生が俺の情報を買えたように、反政府の人間が首輪の情報を買うことだってできるんです。先生は俺がこんなもの持ってるなんて疑いもしなかったでしょう。先生の驕りと過信のおかげで助かりましたよ」
アイザワの皮肉っぽい言葉に頬をぴくりと震わせると、ヨネはゆっくりソファに手をついて起き上がった。
ふん、と短く鼻で笑うのが聞こえた。
「生き残ったって無駄だよ。君たちは捕まる。捕まって、処刑されるんだ」
にやにやといびつな笑みを浮かべながら、ヨネがソファに座る。乱暴に革靴を履いたままの足をテーブルに投げ出した。
「言いたいことはそれだけか」
それまで馬鹿丁寧だったアイザワの口調が変わった。それに気付いたヨネが目を細める。
「いや、まだ喋り足りないね。俺はお喋りが大好きだから。そうだな、花井君、いや──相澤祐也君、かな。俺は聞いてるよ。君の恋人が君を庇って死んだってね」
香奈は思わず、アイザワの顔を見上げていた。その顔はどこか強張っている。
「ねえ、梨沙ちゃんをどうして助けたの? あの子に恋人の影を重ねてた? それとも、妹を助けたら罪が軽くなるとでも?」
矢継ぎに浴びせられるヨネの質問に、次第にアイザワの表情が重くなる。固く握られた拳が震えているのが目につき、香奈は何も言うことが出来なくなった。その様子を見て、ヨネが歪んだ笑みを浮かべる。
ああ、こいつは──何て最低な男だろう。こいつは人がどんな言葉に一番傷付くのか知り尽くしているのだ。
気付いた時にはウージーを構え、ヨネの眼前に銃口を突き付けていた。頬の辺りがひきつっているのが自分でも分かる。
「先生、あたしとの約束、覚えてますか?」
その言葉にヨネが顔を上げる。
「”絶対、あんたを殺してやる”──やっと果たせます」
ヨネは一度表情をなくしたが、もう一度笑顔に戻った。ただ、とてもさわやかとは言い難い、気味の悪いものだったけれど。
「君もだ、中村さん。どんなにカッコつけたって君は人殺しだよ。調べたら君、幼稚園からずっとカトリックなんだね? 君の信心はその程度ってことだ」
香奈はちょっと首を傾げ、それから銃を持ち上げた。
「”神様なんていません”──これは先生、あなたから教わったことです」
ヨネの目が丸く見開かれた。
香奈は指先に力を込めようとして──それより先に銃声を聞いた。
ヨネの額にどす黒い穴が空き、そこからゆるゆると真っ赤な血が流れ出した。ヨネは丸くしていた目を更に大きく開き、ほとんど飛び出しそうな驚きの表情で香奈を見つめていた。
ウージーで撃ったのではない。香奈は後ろにいるであろうアイザワを振り返った。
ライフルを構えたアイザワが呆然と立ち尽くしていた。その銃口からは細い煙が上がっている。
「もう、いい」
アイザワの指が震えていた。
「人を殺すのは俺だけで十分だから」
ゆっくりと降ろされたライフルを見つめながら、香奈は大きく息を吐いた。それから構えていたウージーを下げて、ヨネに視線を戻す。
……死んだ。終わった。
愛や千絵、死んでいったクラスメイトたちの顔を思い浮かべる。しかし、何もかもこれでよかったのだとは思えなかった。
彼女たちは死んでしまった。この男が死んだところで戻らない。
激しい怒りの火は弱まったが、まだ心の中で燻っている。ヨネが死んだところで、今度は怒りをぶつける対象が消えてしまった。
「神様なんていません、か」
香奈の隣に並び、アイザワが呟いた。俯いた前髪から雨水が垂れた。
「悔しいけれどその通り、人を殺したあたしが生き残ってしまった」
呆然と呟いた香奈の背に、アイザワがそっと触れた。
「意味があるはずだよ。何か」
見上げた香奈と視線を合わせると、微かに笑みを浮かべた。
「神様がいないのは本当かもしれない。だけどこの世界には見えない何かがあって、生かされているのにも理由があると思う。俺にはまだ、その意味が分からないけど──いつか分かる時が来る」
じっと見つめたままの香奈の背中をもう一度叩き、アイザワは息を吐いた。
「とりあえず……よくここまで頑張ったね」
言われるまですっかり忘れていたが、怪我一つすることなく最後の難関を突破できたのは奇跡に近い。アイザワの言葉を聞いてようやく香奈の身体から力が抜けた。そして、少しだけ涙が滲んできた。
操舵室に転がっていた兵士の死体を片付けると、アイザワは海図を見ながら舵輪を動かす作業に集中しはじめた。
アイザワは携帯電話で仲間と連絡を取り、香奈にはよく分からない言葉を使いながら落ち合う場所を相談していた。とりあえず船を次の目的地に向けて動かしているように見せ掛け、沖の方で味方の船に移る作戦のようだ。
当座の敵が全滅したことにより、香奈はだいぶ落ち着きを取り戻していた。「ここまでうまくいけば大丈夫だ」と言ったアイザワの言葉も今は素直に信じられる。
それからしばらく経った後、前方の闇に小さな灯りが見えた。アイザワはゆっくりとレバーを倒し、香奈に隠れるように手で指示した。操舵スタンドの下にしゃがんだ香奈のそば、アイザワは前方に目を凝らしたまま携帯電話を耳に当てた。
先ほどと同じように一言二事交わすとすぐに電話を切り、「あれだ」と言った。香奈の手を取って立たせ、前方の灯りを指差す。
だいぶ灯りが大きくなり、船の形が浮かび上がってきた。
「あれに乗り換えるんだ。さ、荷物を持って」
香奈は鞄とウージーを抱え、アイザワに連れられてデッキに出た。外はまだ雨が降り続いていたが、海は比較的穏やかで立っていて危なく感じることもない。二人の乗る船は次第に減速していった。
向かってくる船の灯りが消えた。灰色の曇天の鈍い明かりの中、二つの船が向かい合っている。ゆっくりと近付いてくる船は、漁船のような小さな船で、とてもこれが逃亡に使われるとは思えない。
こちらの船が波の上で止まると、漁船がそのすぐ横に並んだ。
「暗いから気を付けて」
香奈を振り返り、アイザワが言った。
「祐也君だね」
漁船から男の声がして、アイザワがそちらに視線を戻した。
先に漁船に降りたアイザワは乗っていた男と言葉をいくつか交わすと、すぐに香奈を見上げた。
「つかまって」
香奈に手を差し伸べた。
アイザワの指先についた血痕が、闇の中で黒々と蠢く。それより下から伸ばされた骨っぽい手の甲に、絡み付くような青い血管が浮き出している。
言われるままに手を取ろうとした腕が、ぴたりと止まった。
恐怖がないわけではない。疑いがないわけではない。しかし──。
生きなければならない。この国を変えるきっかけを作れるなら──その時には、自分が生かされた意味が見えてくるかもしれない。
「大丈夫だ」
力強くアイザワが言った。
改めて伸ばされたその手を、香奈は今度こそしっかり握りしめた。